第250話 第五章「幼獣の足跡」後編
記録棚の裏には、小さな戸があった。
鍵はない。
幼獣が鼻で押しても開かない高さへ留め具があるだけ。
中は治療室だった。
壁へ、種類ごとの副木。
角芽を保護する柔らかい筒。
喉へ薬を入れる細管。
足裏を洗う浅い桶。
道具は古いが、汚れていない。
「捨て場なのに、手入れしてる」
ハルが言う。
ネムは首を横へ振る。
『捨てた人と、世話した人は同じとは限らない』
「制度と飼育者」
丸。
小さな棚に、乾燥根菜が並ぶ。
一つずつ形が違う。
硬いものを食べられない幼獣用に煮崩した塊。
角芽の成長へ必要な塩を混ぜたもの。
苦い薬を中へ隠した甘い包み。
誰かが、個体ごとの好みを知っていた。
名前を公的に付けなくても、生活の中では違いを見ていた。
「優しかったら、外へ置いていい?」
ハルは自分へ聞く。
ネムが書く。
『優しさは、許可証ではない』
「でも、全部悪いって言うと、世話した人まで」
『分ける』
「行為を」
『人も』
同じ飼育者が、優しく餌を与え、同時に名前を台帳へ載せなかったかもしれない。
人間は一つの形ではない。
善人か悪人かへ分ければ、話は分かりやすい。
分かりやすい話は、次に何を変えるかを分かりにくくする。
治療台の下に、木製の輪が落ちていた。
幼獣の玩具。
噛み跡が七か所。
ノクスが鼻を寄せ、前脚で転がす。
輪は床を一周し、壁へ当たって止まる。
壁には、幼い字で短い名が刻まれていた。
ツユ。
オオ。
ハネ。
トト。
「名前、ある」
ネムは指で一つずつ触れる。
公式記録にはない。
生活の壁にはある。
セレナがいれば、誰がいつ刻んだか未確定と言うだろう。
ハルは自分で言う。
「トトが今のトトと同じかは、まだ分からない」
ネムが丸。
「でも、この場所で呼ばれた名前があった」
もう一つ丸。
壁の下部へ、細い横線が十二本ある。
身長を測った跡かもしれない。
日数かもしれない。
各線の横へ、小さな記号。
生。
移。
戻。
終。
「終って何」
ネムは記録板を探す。
同じ記号がある。
『飼育終了』
「どこへ行った」
ネムは首を横へ振る。
移送なら「移」。
群れへ戻したなら「戻」。
終了は、行き先を書かない。
「死んだ?」
ネムは小板を下ろす。
『決めない』
ハルは頷く。
怖い答えほど、早く確定したくなる。
確定すれば怒れるからだ。
怒りは行き先を欲しがる。
今は、記号だけを持ち帰る。
治療室の奥へ、古い心拍測定器がある。
丸い盤へ七本の針。
通常の個体なら、一本目の針が動いた後、残りが同じ間隔で追う。
ネムがトトの記録珠を盤へ置く。
針が動く。
一。
二。
三。
四本目だけ遅れる。
五本目は動かない。
六、七。
最後に五本目が跳ねる。
「壊れてる?」
ネムは別の珠を置く。
七本が均等に動く。
『器械は正常』
「トトの拍が、機械の前提から外れる」
頷く。
測れないのではない。
測定器が、一定の間隔を正常として作られている。
異なる拍を入れると、故障のように見える。
「祭具へ干渉って、トトが壊すんじゃなくて、祭具がトトを読めない?」
ネムの右眉が上がる。
小板へ長く書く。
『両方。読めない器械が、違う拍へ同じ合図を返す。痛いこともある』
「第一試練の角笛」
『大きい。同じ』
「逃げた理由」
『可能性』
「王獣に似てるから山へ行った、じゃなくて、祭の音から逃げて、静かな道へ入った」
『その後は、まだ』
英雄を呼ぶ神秘の拍ではない。
音に痛みを感じる幼獣が、痛くない場所へ逃げただけかもしれない。
それでも、古い角峰の方へ進んだ理由は残る。
不思議を消すため現実を使わない。
現実を消すため不思議を使わない。
両方を、まだの中へ置く。
飼育場には、現在の動物がいなかった。
だが、昨日まで使われていた。
水桶の内側が濡れている。
飼料は乾ききっていない。
治療台へ新しい毛。
ロロがいれば時間を測れただろう。
セレナがいれば、観測と推定を分けただろう。
エリアがいれば、道を正確に引いただろう。
いない者の技能を借りたつもりにならない。
ハルは見る。
ネムは聞く。
ノクスは嗅ぐ。
それぞれが、できることだけをする。
トトの蹄跡は、小屋から外へ出ていた。
門を通り、谷の奥へ。
逃げた方向は、祭場から離れる方ではない。
角峰へ近づく方だった。
「何で山へ」
ネムは答えない。
足跡の横に、花粉が落ちている。
響花の白い粉。
さらに、細い引きずり跡。
灰色の布が枝へ引っかかった跡。
誰かが引いたのではない。
蹄跡は自分の歩幅で続く。
トトは一頭で進んだ。
谷の奥から、角峰の地下へ入る古い裂け目がある。
入口の上へ、七つの浅い傷が刻まれている。
ネムが胸太鼓を一度打つ。
裂け目の奥から、遅れて七つ返る。
一つ目と二つ目は短い。
三つ目が長い。
四つ目が短い。
五つ目に間。
六つ目が長い。
七つ目が短い。
トトと同じ。
「奥にいる?」
ネムは首を横へ振る。
『壁が覚えてる』
「残響」
頷く。
王獣鈴の欠片が封印箱で返した七重のずれにも似ている。
ハルは言いかけ、止めた。
似ている。
同じ原因とは限らない。
「記録する」
ネムが小板へ、裂け目の位置と拍の間隔を書く。
その時、谷の入口から地面が震えた。
一つの短い命令が、土を通ってくる。
声を地面の震動へ変える一命令〈グラウンド・コール〉。
ハダンの術。
――戻れ。
言葉は一つだけ。
理由はない。
期限もない。
だが、緊急時に届く命令は短くなければならない。
長い説明を地面へ流す間に、地面そのものが動くからだ。
「戻る?」
ハルはネムへ聞いた。
ネムは裂け目を見る。
次に、頭痛を示す指を三本立てる。
喉、二。
小板。
『戻る。記録を持つ』
「分かった」
ノクスが裂け目の前で動かない。
「ノクス」
夜獣は奥へ鼻を向ける。
尾が二本とも低く光る。
ハルは手を伸ばさない。
「俺たちは戻る」
ノクスへ自分たちの選択だけを言う。
しばらくして、ノクスは裂け目へ一度だけ低く鳴き、二人の後を追った。
禁足線の前には、全員がいた。
エリア。
カイル。
ロロ。
セレナ。
ガンガ。
ハダン。
祭務頭と、飼育係が四人。
ガンガの胸が速い。
万獣鼓動を使わなくても、ネムには分かる。
「怪我」とガンガ。
ネムは指を三本、二本、一つ。
頭三、喉二、足一。
ガンガが近づく。
ネムは手を上げる。
止まれ。
ガンガは止まった。
「触っていいか」
ネムは頷く。
ガンガは肩ではなく、手首へ二本指を置く。
本人の拍を聞く。
「混線なし。休め」
『命令?』
「頼む」
『考える』
「今は休め」
『命令になった』
「……水を飲んで、座って、記録を渡した後、休むか決めろ」
ネムが丸。
ハルはエリアを見る。
「肩一。方向、普通。違反した」
「怪我の報告と規則違反の報告を一文へまとめないで」
「両方俺」
「処置が違います」
エリアは左肩の動きを確認する。
次に腰索。
その後で、真正面からハルを見る。
「立入禁止へ入った理由」
「足跡と花の帯を追った。許可は拒否された。ネムが入ると決めて、俺も並んだ」
「ネムを理由にしないで」
「俺も決めた」
「はい」
「怒ってる?」
「心配と怒りを一緒にしないでください」
「両方?」
「両方です」
「順番は」
「今は身体確認。後で規則違反」
「分けるんだ」
「あなたが何でも一つの物語へしがちなので」
痛い場所が、肩から別のところへ移った気がした。
セレナは、ネムの記録板を受け取る前に聞く。
「複写してよいですか」
ネムが頷く。
「原本の保管者」
ネムは自分を指す。
「公開範囲」
祭務会を指し、次に広場全体を指す。
「二段階。まず祭務会へ、必要なら公表」
頷く。
ガンガが言う。
「必要だ」
ネムの太鼓が二拍。
聞いた。
賛成ではない。
「何が違う」
『私の記録』
「群れの問題だ」
『だから私の権利が消える?』
ガンガは黙る。
ハルは口を挟みそうになり、歯を閉じた。
先へ送らない。
ガンガは自分で答える。
「消えない。公開してほしい」
『理由』
「トトを捜す。祭外個体の飼育を止める」
『公表で危険も増える』
「王獣に似た拍を持つと知られれば、取り合いになる」
ガンガの声が低くなる。
「それでも隠したままにはしない」
『二段階』
「分かった」
ネムはセレナへ原本を渡す。
祭務頭が前へ出た。
「禁足谷は、繁殖保護区です」
「捨て飼育場」とハル。
「旧設備です」
「昨日まで水が入ってた」
「治療中の個体を一時収容します」
「外七。生育正常。王獣様反響。公開不適」
ネムの記録から、セレナが読み上げる。
祭務頭の顔が変わった。
驚きではない。
知らなかった者の顔でもない。
隠していた悪人の笑みでもない。
長く運用してきた仕組みを、今日初めて言葉へされた人間の顔だった。
「不規則拍の個体は、祭具へ干渉します」と祭務頭。「群れへ戻せば、繁殖期の誘導が乱れる。事故を防ぐため、別区画で育てる」
「名前を付けずに?」とハル。
「個体名は飼育担当が――」
「登録名なし」
「祭の代表にはしない」
「群れには?」とガンガ。
「所属群を決めると、王獣血統を主張する争いが起きます」
「だから、どの群れにも入れない」
「保護です」
「外へ出られない保護を、何と呼ぶ」
「安全」
「誰の」
祭務頭は答えない。
ハダンが杖を鳴らした。
「今はトトを捜す」
「拍守」と祭務頭。「角峰内道へ入った可能性があります。午後の群走りで峰の内部が動く。無許可捜索は二次遭難を生む」
「許可しろ」とガンガ。
「競技中の候補者を危険区へ入れられません」
「候補でなければ」
その一言で、周囲の空気が変わる。
バルグが遠くから見ている。
観客も集まり始めている。
祭務頭は、用意していた巻物を開いた。
「祭務会は、禁足谷および角峰内道の捜索を中止します。理由は、地盤変動と群走り準備。該当個体は正式参加獣でなく、緊急停止条件へ該当しません」
「始めてないって言ってた」とハル。
「無許可の捜索行為を含みます」
「始まってないものを止めた」
「今、始まったことにした」とエリア。
「止めるために?」
「責任の範囲を作るためでもあります」
正しい面がある。
危険な面もある。
制度はいつも、その両方を同じ紙へ書く。
ガンガは祭務頭を見る。
「俺は次の試練へ出る」
ハルが振り向く。
「ガンガ」
「出る」
「トトは」
「捜す」
「どうやって」
「決める」
「いつ」
「今、全部は決められない」
「首位が大事?」
言ってから、ハルは自分の声が速すぎたと分かった。
ガンガの角の根元が、わずかに白くなる。
「王になれば変えられる」
「王になるために一頭を置いてく?」
「置いていかない」
「今置いてる」
ネムが太鼓を打った。
強い一拍。
二人とも止まる。
『私の前で、私の答えを使うな』
小板はハルへ向いている。
ハルは、自分がネムの怒りを借りてガンガを責めたことに気づく。
「……ごめん」
『三回目』
祭務頭の巻物が閉じる。
捜索中止命令は、正式に掲げられた。
その背後で、角峰の内部から七つの遅れた拍が返った。
誰もいないはずの道から。