第281話 第九章「生きているふりをした国」前編

国家が嘘をつく時、嘘を一文だけ書くことは少ない。

 一文だけなら、破れば終わる。

 王は生きている。

 その文を守るには、王の食事記録が要る。

 睡眠記録が要る。

 歩行記録が要る。

 医師が要る。

 医師を監査する役所が要る。

 役所へ予算を付ける議会が要る。

 王の姿を見たと証言する祭司が要る。

 王へ手紙を書いた子どもへ、返事を出す書記が要る。

 嘘は一人で始められる。

 続けるには、社会が必要である。

 さらに厄介なのは、その社会で生まれた者にとって、嘘が生活の一部になることだ。

 偽りの王へ捧げた歌も、歌った子どもの声までは偽物ではない。

 偽りの足跡の脇で売られたパンも、腹を満たした事実は消えない。

 偽りの生存証明で届いた薬も、救った命まで嘘にはならない。

 真実を明かすとは、嘘の上に建った全てを焼くことではない。

 どの柱が嘘で、どの部屋に人が住んでいるかを、火を付ける前に調べる仕事である。

 セレナ・クロウは、火より記録を信じていた。

 記録が燃えないからではない。

 燃えた箇所を、燃えたと書けるからである。

 王心の扉は、内側から開いた。

 ラハナ・セヴが一人で立っていた。

 衛士はいない。

 七本の鍵は手首から外され、胸前の卓へ並べられている。

 左手の欠けた二本の指が、白い光を受ける。

「処置は進行中です」

 声は平らだった。

「停止して」とエリア。

「停止すれば北路が落ちます」

「集め続ければ六頭が死ぬ」とガンガ。

「可能性が高い」

「言い換えるな」

「断定できないことを断定しません」

 セレナが一歩出る。

「その原則は採用します」

 ハルが振り向く。

「助けるの?」

「区別します。ラハナ王心監は、死亡を断定できないと述べた。六頭の生命危険を否定してはいない」

「同じ言葉でも、逃げ道と正確さがある?」

「あります」

「見分けるの難しい」

「だから記録します」

 王心の中央に、ルゥがいた。

 若い灰色の王獣。

 地上で見た時より小さく見える。

 身体の周囲へ装置が大きすぎるからだ。

 六本の脚は、一本ずつ白い輪へ固定されている。

 尾の付け根へ七つ目の輪。

 胸には薄紫の板。

 板から、六色の光が入る。

 緑。

 青。

 黄。

 赤茶。

 白。

 群青。

 七頭へ分かれた王心〈セブン・パルス〉

 術式名ではない。

 七脈院の古い医療分類だった。

「王心は物じゃない」とロロ。

「機能です」とラハナ。

「心臓を七つに切ったわけじゃない」

「先王の歩行圧、呼吸連動、王誓反応を、七系統の生体へ移した」

「どうやって」

「幼獣期に骨路へ接続し、位相を教えます」

「教える?」とハル。

「身体が覚えるまで繰り返す」

「鎖で」

「動けば地域の圧が乱れます」

「動けないようにして、動く王の役を教えた?」

 ラハナは答えない。

 ルゥの目は開いている。

 ハルたちを見る。

 焦点は合わない。

 ノクスが一歩進む。

 薄紫の板から出る匂いが強い。

 破られた約束。

 返すと書いて返さなかった約束。

 治して帰すと書いて、役へ変えた約束。

 ノクスの二本尾が逆へ引かれる。

 右はルゥ。

 左は卓の下。

「どっちが本当?」とハルは聞かない。

 匂いは真実ではない。

 方向が二つあるなら、約束が二つ破られたというだけだ。

 ノクスは卓の下へ鼻を入れる。

 古い書板を一枚掻き出した。

 セレナが採取する。

『完成処置は、全個体の帰群不能をもって成立とする』

「帰れなくなったら完成」とハル。

「制度上の完成条件」とセレナ。

「完成って、壊れた後に付ける名前?」

「少なくともこの文面では」

 ラハナが書板を見る。

「旧規定です」

「現規定は」とセレナ。

「帰群不能という表現を削除した」

「条件は変えた?」

「処置自体は同じです」

「言葉だけ消した」

「当事者家族への刺激が強いと判断されました」

「刺激じゃなく、意味が強い」とハル。

 ルゥの胸が跳ねる。

 六色の光が一段強くなる。

 ガンガの角へ、薄い光が走った。

 候補である彼の拍も、装置が拾おうとしている。

「離れろ」とネム。

「聞くだけだ」

『装置が聞く』

 ガンガは後ろへ下がる。

 自分が聞くつもりでも、聞かれる側になる。

 王になる者は、民の声を聞くと教えられる。

 王権の装置は、王候補の心臓を先に測っていた。

 セレナは王心の床へ、三つの円を描いた。

 黒い証羽。

 白い記録紙。

 灰色の未確認札。

「一つ目。生体事実」

 黒い円。

「先王獣は死亡している。死亡時期、死因、遺体の範囲を確認する」

「死因まで必要?」とハル。

「殺害、事故、自然死で、責任と再発防止が変わります」

「今の七頭を救うのに」

「直接は不要。ただし公表後、必ず『誰が王を殺した』という話が出ます。空白を憶測へ渡さない」

 二つ目。

「継承と設備」

 白い円。

「七拍分割、個体の選定、接続、返還規定、死亡・負傷、空気嚢と国境誓術への転用」

 三つ目。

「公共への説明」

 灰色の円。

「何をいつ誰へ伝えるか。個体名を公開してよいか。家族・群れの同意。医療情報。国境と保険への通知。虚偽を訂正した結果の危険」

「全部一度に言えば」とハル。

「真実の投下は説明ではありません」

「隠す?」

「分ける」

「同じに聞こえる」

「隠す時は、相手が判断に必要な情報を渡さない。分ける時は、どの情報をなぜ保留するかを明示し、期限と閲覧先を残す」

「期限なしは」

「隠蔽です」

 ラハナを見る。

「王の死亡記録は、いつから非公開ですか」

「八十四年前」

 初めて、年数が出る。

 セレナの羽が止まらない。

「先王獣の死亡日」

「翠暦四百十二年、長雨月十七日」

「死因」

「老衰に伴う心嚢破裂。三日間の臓器不全」

「立会者」

「当時の七脈院医師九名、拍守二名、王家代表三名」

「遺体」

「大部分が現在の死王谷地下です。胸郭、骨盤、四肢骨。頭骨の一部は祭殿」

「心臓」

「保存できず、王誓反応だけを七個体へ移しました」

「最初の七個体は」

 ラハナの呼吸が、初めて遅れた。

「先王と共に歩いていた従獣です」

「同意」

「王獣同士の意思を、当時の記録は『従う』と表現しています」

「確認不能」とセレナ。

「はい」

「その後、機能を幼獣へ移した理由」

「最初の七頭が老いたため」

「返還規定」

「当初はありました」

「実施」

「二頭」

「何頭中」

「記録が完全な時代で、四十六」

 ハルが数える。

「帰れたの、二?」

「帰群後、一頭は三日で死亡。一頭は群れが受け入れず、七脈院へ戻った」

「それで返すのをやめた?」

「返還が個体へ害を与えると判断されました」

「返せる身体を作らなくなったんじゃなく?」

 ラハナの目がハルへ向く。

「両方です」

 言い逃れなかった。

「接続期間が長いほど、外部の歩行周期へ適応できない。返還の失敗が続き、帰さないことが保護と呼ばれるようになりました」

「保護が拘束になった」とエリア。

「拘束が生活を支えた」とラハナ。

「両方」とセレナ。

「あなたは、両方と言えば裁けると思っていますか」

「いいえ。裁く前に、片方だけで無罪や有罪を作らないためです」

「人は、そんなに長く待ちません」

「だから期限を付けます」

 セレナは未確認札の端へ時刻を書く。

『第一公表 二刻以内』

「何を言う」とカイル。

「先王の死亡。七個体が生存していること。現在、生命危険があること。国土設備へ接続されていること。これらを即時」

「名前は」

「本人と群れの判断まで保留。医療詳細も保留」

「死者数」

「確認済み範囲と、未確認範囲を分ける」

「犯人」とハル。

「一人へ集めない」

「聞かれる」

「制度の変遷を示す。個人責任は証拠ごとに別途」

「ラハナは」

「現行処置の決定者として記録」

 ラハナが頷く。

「私の名は保留しないでください」

「理由」

「現場責任を匿名の院へ溶かせば、次も院が決めます」

 セレナは彼女を見る。

「採用します」

 記録庫は、王心のさらに奥にあった。

 扉の高さは低い。

 王の記録へ入る者は頭を下げる、という礼法ではない。

 死王の肋骨が潰れ、後世の人間がその隙間へ棚を作った結果だった。

 儀礼は後から理由を付ける。

 建築は先に身体へ従う。

 ラハナが鍵を一本使う。

 一番ではない。

 七番。

「順番は」とロロ。

「記録庫だけ逆です」

「何で」

「歩みを戻す時は、尾から足へ戻る」

「解除順?」

 ラハナは答えない。

 ロロは聞いたことを工具帳へ書く。

 後で使えるかもしれない。

 使えないかもしれない。

 伏線とは、未来で役に立つと知って置く物ではない。

 現在の人物が、今必要だと思って残した記録である。

 棚には八十四年分の王の日記があった。

 王は字を書かない。

 書記が書く。

『本日、北へ三歩』

『雨を聞き、食を控える』

『角舟市の子らへ祝福』

 同じ筆跡が十二年続く。

 次の筆跡が二十年。

 その次が七年。

「王の一人称」とハル。

「公的擬人記録です」とラハナ。

「嘘の日記」

「外交文書」

「長く言った」

「用途を言いました」

 エリアが一冊を開く。

 王の食事。

 実際には、七頭へ与えた食餌の合計。

 王の睡眠。

 七頭のうち最も長く眠った個体の時間。

 王の歩行。

 足跡炉の稼働。

 王の病。

 七頭のうち一頭が不調な時だけ、王が「静養」したことにする。

「一頭が死んだ時は」とカイル。

 ラハナは別冊を出す。

『王心器交換』

「器」とガンガ。

 声が消える。

「個体名は」

「医療簿にのみ」

「家族へ」

「王へ奉じた時点で、死亡通知は出しません」

「死んでも?」

「帰群予定がないため」

 ガンガが棚へ拳を向ける。

 叩かない。

 代わりに自分の胸へ手を置く。

 一度。

 二度目を止める。

 ネムがその手へ触れない。

 小板を差し出す。

『怒りを一つにしない』

「分かってる」

『今、全部燃やしたい』

「分かってる」

『私も』

 ガンガがネムを見る。

 兄が怒りを代表しない。

 妹が沈黙を代表させない。

 二人分の怒りが、二つのままある。

 最古の死亡簿へ、名があった。

 ナア。

 死亡ではない。

 接続開始。

 十七年前。

 旧ハダン群から七脈院へ療養送致。

 呼吸不全。

 王心適合。

 帰還期限、七年後。

 期限欄へ、赤い斜線。

『国境危機により延期』

 さらに三年後。

『適合固定により返還不可』

 ハダンは片眼鏡を掛ける。

 裸眼で見れば、文字を読めないと言い訳できる。

 掛ければ、読むと決めたことになる。

「俺の印だ」

 送致欄。

 三叉杖の印。

「治療同意」とセレナ。

「そうだ」

「王心接続への同意欄は別」

 空白。

「空白は同意ですか」とセレナ。

「違う」とハダン。

「当時、どう扱われた」

「拍守が異議を出さなければ、群れ同意とされた」

「異議の説明は」

「なかった」

「あなたは、何を知っていた」

「療舎へ預ける。呼吸を王息で補う。七年後に返す」

「何を知らなかった」

「足跡、国境、浮力、他の六頭。返還できぬ身体になること」

「その後、探したか」

「二度、問い合わせた」

「返答」

「治療継続」

「それ以上は」

「群れが移動した。雨期が来た。俺は、残った百七人を連れて南へ行った」

「責任をどう考える」

 質問は裁判ではない。

 だが、ハダンは杖を床へ置く。

「知らなかったことは罪ではない、と言えば楽だ」

 ゆっくり言う。

「聞かされなかった。騙された。それは事実だ。だが、戻らぬ一人を、戻らぬものとして群れの歌から外した。俺は、探し続ける重さを、生き残った者へ背負わせたくなかった」

「守った?」とハル。

「そう思った」

「今は」

「忘れることで守られた者もいる。忘れられて傷ついた者もいる。俺は両方を決めた」

「謝る?」

「ナアへ会ってからだ」

 先に謝って自分を軽くしない。

 ハダンは記録の写しを取る。

「歌へ戻す」

「本人が群れへ戻りたいか、まだ分からない」とネム。

「名前を戻す」

『歌へ?』

「記録へ。歌うかは、聞いてからだ」

 ネムは頷かない。

 聞いた。

 賛成ではない。

 だが、反対とも書かない。

 王の死を隠した最初の日の議事録は、十七枚あった。

 王家代表は公表を求めた。

 七脈院は三日待つよう求めた。

 国境軍は一月隠すよう求めた。

 交易院は後継決定まで隠すよう求めた。

 一月が一年になった。

 一年が制度になった。

 その間に、五つの王位候補群が争った。

 戦闘は七日。

 死者百二十七。

 死王の足跡を作り、王が生きていると発表した翌日、戦闘は止まった。

「効果はあった」とカイル。

「はい」とセレナ。

「この数字は公表する?」

「します」

「隠蔽の正当化に使われる」

「使われます」

「七頭の被害を否定する人が出る」

「出ます」

「それでも」

「消しません」

 セレナの声は変わらない。

「都合の悪い利益を消せば、私たちも物語を作ります」

 ハルは議事録を見る。

「嘘で戦争が止まった」

「事実」

「じゃ嘘が正しかった?」

「当時の三日間に限定すれば、他の手段より死者を減らした可能性があります」

「八十四年は」

「別の判断です」

「同じ嘘でも?」

「緊急措置には終わる時刻が必要です」

 ティアが遠い学院で作ろうとしている規則と同じだった。

 危機のための権限は、危機が終わると自分で終わらない。

 人が終わらせなければ、権限は次の危機を必要とする。

 王の生存偽装は、国を守った。

 守った実績によって、終われなくなった。

 ラハナは記録庫の隅へ座った。

 初めて、立っていない。

 七本の鍵を膝へ置く。

「二十二年前にも、七拍の一つが止まりました」

 誰も質問していない。

 彼女が自分で話し始めた。

「私は十九歳。肺守見習いでした。北嚢が落ち、地上の診療村が傾いた。完成処置を始める前に、返還を試みた技師がいました」

「成功した?」とロロ。

「三つ目の鎖で順番を誤った」

 左手を見る。

「圧が逆流し、骨扉へ挟まれました。私は鍵を取るため手を入れ、小指と薬指を失った。技師は死亡。診療村では二十三人が重傷、四人が死亡」

「それで、止めない側へ」とエリア。

「止め方を知らない者が、正しさだけで触れば人が死ぬと学びました」

「完成処置では、何頭が」とセレナ。

「五頭死亡。一頭は生存したが歩けなくなった。集められた一頭は七年後まで王心を維持」

「成功?」とハル。

「国土は落ちませんでした」

「聞いてるのは一頭の話」

「七年、生きました」

「自分で歩けた?」

「いいえ」

「群れへ帰れた?」

「いいえ」

「じゃ、何が成功」

 ラハナは鍵を握る。

「私は、その問いへ答えないまま二十二年働きました」

 言い訳ではない。

 告白でもない。

 現在進行形の事実だった。

「今も同じ処置をした」とガンガ。

「はい」

「なぜ」

「止める別手順を、知らないからです」

「知らないなら待て」

「待った時に死んだ四人の名を覚えています」

「完成で死んだ五頭は」

「全て」

「名を」

 ラハナは答える。

 一頭ずつ。

 役名でなく。

 その声は、平らではなかった。

 最後の名で途切れる。

「覚えているから正しいとは言わない」とガンガ。

「言っていません」

「忘れてないから許されるとも」

「求めていません」

「じゃ何を求める」

「別手順」

 ラハナは七本の鍵を床へ置く。

「私を止めるだけでは、装置は自動で完成します。壊すだけでは村が落ちる。選ばないだけでは、最も適合した一頭へ集まる」

「時間は」とカイル。

「完全同期まで、四十七分」

「一時間より短い」とハダン。

「現実は交渉しない」とラハナ。

「人も現実だ」とハル。

「だから急いでください」