第280話 第八章「七つの空気嚢」後編

 赤土台から返事。

『余圧移送、承認。種庫管理三名中、賛成二、保留一。保留者は不在地区の種への影響を理由にする。上限一割、六分』

「一割で足りる?」とハル。

「足りなくても、一割が本人たちの選択です」とエリア。

「増やせない」

「追加を求めることはできます。勝手に取れない」

 ロロが迂回弁を作る。

 既存の三枚歯印の遊びへ、星晶線を通す。

「これ作ったやつ、最初から全停止を嫌ってた」

「同じ人物?」とセレナ。

「印は同じ。人か集団かは知らねえ」

「未来の説明は」とハル。

「今は要らねえ。使える穴がある。それだけ」

 第三嚢から第一嚢へ、一割の圧。

 カイルの盾を切る。

 三分五秒。

「五秒超過」とセレナ。

「記録するなとは言わん」とカイル。「肋骨三」

「背中」

「二」

「色覚」

「赤が少し薄い」

「休み」

「命令か」

「提案です」とエリア。

「なら受ける」

 カイルは壁へ座る。

 王子が休むと、周囲は不安になる。

 王が立っていることを国の安全証明にした歴史のせいである。

 カイルはわざと、見える場所で水を飲む。

 休むことを隠さない。

 地図が完成に近づくほど、エリアの表情は悪くなった。

 知らない場所が減る喜びではない。

 全ての線が、誰かの身体を通っている。

 ナアの拍は北岩根。

 ユルは西湿原。

 カラは赤土台。

 セトは樹冠区。

 ミイは東塩盆。

 ドゥは南断崖。

 ルゥはタル谷と王心。

 一頭ずつ外せない。

 一地域ずつ捨てられない。

「一番被害の少ない線」とハル。

「ありません」

「人数なら」

「西湿原が最少」

「じゃそこを」

 言いかけて、ハルは止まる。

 学校。

 水田。

 八百十一人。

 少ないという数字が、捨ててよいへ近づく。

「今の、なし」

「記録しました」とセレナ。

「反省も」

「同時に」

「ロロと同じこと言った」

「学習は伝播します」

 ハルは地図へ近づく。

「俺、鎖を切ればいいと思ってた」

「切る必要はあります」

「今すぐ全部」

「今すぐ切れば、七地域の浮力が同時に乱れます」

「でも繋いだまま、今も痛い」

「はい」

「どっちも悪い」

「はい」

「地図は答え出さない」

「出せません」

「エリアは」

「出したいです」

 その言葉だけ、年相応に速い。

「全部が通れる線を、今すぐ描きたい。描けない自分を能力不足だと思う。ですが、描けない線を描いたふりはしません」

 ハルは、彼女の地図針へ触れない。

「じゃ一緒に、線じゃない方法探す」

「具体的に」

「順番」

「何の」

「七つ同時じゃなく。足跡みたいに、重さを一つずつ移す」

 ロロが顔を上げる。

「骨路の歩行周期」

「鎖を外す時も、一歩の順に」

「理論上は、圧を隣へ渡せる」

「理論上って何割」

「今、計算する!」

 ロロの補助腕が一斉に地図へ伸びる。

 エリアが右眉を上げる。

「無断で線へ触らない」

「計算札だけ!」

「どこ」

「ここ、ここ、ここ」

「指示が曖昧」

「冷たい端! 息が遅い腹! 鳥が落ちた側!」

「最後はここにありません」

「名前の制度、難しい!」

 ネムが小板へ書く。

『変えていい』

 ロロは七系統へ新しい呼称を付ける。

 北の重い呼吸。

 西の水の拍。

 赤土の二度打ち。

 樹冠の長い間。

 塩盆の乾いた戻り。

 断崖の短い跳ね。

 タルの遅い七番。

 番号も併記する。

 全員が同じ場所を見られる言葉。

 強制同期は、待たなかった。

 王心から低い鐘。

 一度鳴るたび、六つの拍がルゥへ近づく。

 北の重い呼吸が速くなる。

 西の水の拍が浅くなる。

 赤土の二度打ちが一度へ潰れる。

 ネムの七色の光が、同じ白へ変わり始める。

「色が消える」とハル。

『違いが見えない』

「同じになる?」

『同じに見える』

 見えることと、なることは違う。

 七頭は痛みも年齢も別のまま、計測上だけ一つへ揃えられる。

 国に必要なのは、同じ個体ではない。

 一頭として扱える記録だった。

 足跡炉が動く。

 七つの圧盤が同時に上がる。

「同時は駄目!」とロロ。

 通常は順番に動く。

 全ての脚へ同時に力を入れた巨体は、歩かず跳ねる。

 地上全体が持ち上がる。

 次に落ちる。

 王心の床が傾く。

 骨柱から鐘が外れかける。

「退避路!」とエリア。

 光線を出す。

 右踵。

 四。

 左。

 三。

「申告」とハル。

「右四、左三。路図継続、二分」

「俺、何する」

「左線を保持。私が倒れたら、地図槍を抜かない。線は三十拍残る」

「倒れる前提やめて」

「撤退条件です」

「倒れる前に頼んで」

 エリアは一拍止まる。

「ハル。右側を支えて」

「了解」

 ハルは彼女の腰を抱えない。

 右肩の短いケープ、その内側にある補助帯を掴む。

「ここでいい?」

「はい」

「体重、預けて」

「三割」

「五割」

「四」

「成立」

「誰の語法ですか」

「世界共通になった」

 エリアが半歩、ハルへ預ける。

 自分一人で立つ姿勢を崩す。

 地図線は崩れない。

 むしろ、七本へ安定して伸びる。

 頼ることは、能力を弱くしなかった。

 王心外周の祭礼区では、ノクスがまだ誓札の間にいた。

 強制同期の鐘が鳴るたび、古い破約の匂いが濃くなる。

 王が戻る。

 仔を返す。

 国を守る。

 治療して帰す。

 守られなかった約束。

 守る対象が変えられた約束。

 誰かが一部だけ守り、そのため別の誰かを傷つけた約束。

 匂いは善悪に分かれない。

 ノクスの身体が細く伏せる。

 ハルは地図の保持から離れられない。

「ノクス」

 呼ぶ。

 返事はない。

 祭礼係が柵の外へ追加の誓札を置く。

「最初の破約を探させる!」

「増やすな!」

「王心の制御権が、どの誓いから始まったか分かれば止められる」

「匂いで制御権は分からない!」

「他に手がない!」

「ある。記録と構造を追ってる!」

「遅い!」

 遅い。

 地面は揺れている。

 七頭の拍は一つへ潰れている。

 ハルの恐怖は、祭礼係の言葉と同じ形を持つ。

 早く。

 今。

 役に立つなら。

 ノクスを抱えて出せば、苦しい場所からは離せる。

 本人が何を追っていたかは、ハルが終わらせる。

「行っていい」とエリア。

「地図」

「カイルへ渡します」

「でも」

「私は、あなたへノクスを連れ戻せと命令していません」

「何しに」

「出口を守りに」

 ハルは補助帯をカイルへ渡す。

 カイルは座ったまま左手で受ける。

「俺、休憩中なんだが」

「座った支柱」とハル。

「王族の新しい役職が雑だ」

「三分だけ」

「成立」

 ハルは走る。

 今度は、エリアが速度を注意しない。

 危険な速さと、必要な速さを同じにしない。

 柵へ着く。

 扉は開いている。

 ノクスは中。

「出る?」

 返事なし。

「残る?」

 二本の尾が逆を向く。

「分からない?」

 ノクスの耳が伏せる。

 ハルは中へ入らない。

 扉の外へ座る。

 地面が揺れる。

「俺、待つの苦手」

 ノクスへ言う。

「父さんが帰るって言って、待った。待つほど、何もできない感じがした。だから先に走る。待つ人を置いて」

 ノクスは誓札を嗅ぐ。

「今も連れて出たい。苦しいなら、俺が決めていい気がする」

 赤い布環が前脚へある。

「でも、ノクスが入った」

 ハルは羅針盤の蓋を一度弾く。

 二度。

 三度目はしない。

「出口はここ」

 それだけ言う。

 ノクスは動かない。

 王心の鐘が二度鳴る。

 七つの光が、ほとんど一色になる。

 ハルは立ち上がらない。

 待つ。

 待つことを、何もしないことにしない。

 追加される誓札を止める。

 星滴布を遠ざける。

 扉が閉じないよう、片足を置く。

 ノクスの選択へ、外側の条件を整える。

 三度目の鐘。

 ノクスが顔を上げる。

 ハルを見る。

 一歩。

 誓札の間から、扉へ。

 そこで止まる。

 外へは出ない。

「保留?」

 ノクスは短く「ノゥ」と鳴いた。

 肯定とも否定とも取れる声。

 本人の鳴き方を、ハルはまだ完全には知らない。

「じゃ、ここまで一緒」

 ハルは扉の横へ座り直す。

 ノクスも敷居へ座る。

 中でも外でもない。

 国が一頭を求める時、境界へ残る小さな存在がいた。

 エリアの地図へ、七つの空気嚢が全て重なった。

 白い一線。

 地図としては、最も見やすい。

 誰の拍か分からない。

 どの地域の負担か分からない。

 どこが痛いか分からない。

「完成処置、八割」とオルダの放送。

「完成ではない」とネム。

 声を使った。

 喉が痛む。

 それでも言う。

「消えてる」

 オルダの返事はない。

 王心中央で、ルゥの弱い拍が大きくなる。

 強くなったのではない。

 残る六頭の拍が、その上へ重ねられた。

 足跡炉の圧盤が全て上がる。

 死王の背全体が、一度だけ大きく持ち上がった。

 地上の七地域が、同時に空へ浮く。

 次の瞬間、支える順番を失って落ち始める。

 エリアは地図へ七本の線を戻そうとする。

 光が白から分かれない。

「違いが消えた」とハル。

 敷居のノクスを見ながら言う。

「消えていません」とエリア。「見えなくされた」

 七つの空気嚢が、同時に収縮した。

 骨路の全ての扉が閉まり始める。

 国は一頭の形へ近づき、その重さで崩れ始めていた。