第279話 第八章「七つの空気嚢」前編
地図は、身体を平らにする。
山は三角へ。
川は線へ。
町は点へ。
死者は数字へ。
平らにしなければ、遠くを一度に見られない。
平らにするから、厚みを失う。
歴史上、よくできた地図ほど多くのものを省いた。
王の領土を描くため、季節ごとに移動する群れを省く。
安全な街道を描くため、道端で暮らす人を省く。
国境を描くため、国境の下で呼吸している生き物を省く。
エリア・ルーンベルグは、地図が嘘をつくことを知っている。
だから彼女は、地図を正しくしようとはしなかった。
訂正できるようにした。
「外へ出る道は二つ」
エリアは足跡炉の壁へ光を走らせた。
「一つは閉鎖された主路。もう一つは骨路の保守孔。保守孔は途中で七系統へ分岐しています」
「どれを使う」とカイル。
「全部」
「一行で?」
「地図だけを先に」
グリムリリーの先が、白い床へ触れる。
測った場所へ光の道を描く路図〈ルート・レイ〉。
道を作る魔法ではない。
歩ける場所、歩けない場所、測った範囲を共有する。
エリアは一歩進む。
右踵へ、細い痛み。
三。
まだ申告した数字から変わらない。
光を七本へ分ける。
骨路の中へ細い地図線が走る。
最初の分岐。
一方は北。
一方は西。
一方は地上へ。
線が伸びるほど、エリアの踵へ痛みが増える。
彼女は以前なら、痛みが五になるまで黙った。
五になって歩けなくなり、結果として周囲の選択肢を減らした。
「三から四へ上がる前に、補助を頼みます」
自分から言う。
ハルがすぐ振り向く。
「何する」
「私の左側で測距札を持って。私が線を出す。あなたは分岐ごとに札を置く」
「分かった」
「走らない」
「分かった」
「返事が速すぎます」
「今は本当に分かった」
「証拠」
「歩く」
ハルは歩いた。
三歩目で速くなる。
「速度」
「歩いてる!」
「あなたの歩行は、他人の小走りです」
「体格差!」
「言い訳の分類がガンガ寄りです」
ガンガが後ろから言う。
「俺を悪い単位にするな」
「体格差の単位」とハル。
「細いお前に使われたくない」
会話をしながら、エリアは光を伸ばす。
七系統。
全てを同じ太さで描かない。
圧の強い線は太く。
弱い線は細く。
測っていない部分は、空白。
地図へ空白を残すことは、無知の告白である。
同時に、知らない場所を勝手に所有しないための境界でもある。
最初の保守孔は、ナアの系統へ通じていた。
乳歯札で最古だった名。
北の岩根集落。
地上から届いた伝羽には、若獣の姿が短く記録されている。
濃い緑の毛。
左角の先が丸い。
前脚の一本だけ、踏み出す前に土を二度擦る。
王脈院の公文書では「第一奉身仔」。
肺守の口では「北拍」。
古い木札では、ナア。
死王の身体を管理する院は、一つではない。
七脈院は、生きた七つの拍、療舎、空気嚢、骨路を扱う。病を測り、管を替え、呼吸を止めないための院である。ラハナ・セヴはその長代理であり、王心監として処置を指揮する。
王脈院は、王を一頭として記録する。継承、国境誓術、生存証明、祭務と王名を扱う。オルダ・セムはその長代理だった。
身体を守る院と、王という制度を守る院。
本来は互いを監査するために分けられた。だが死んだ王を生かし続ける百余年のうちに、片方の「治療」と片方の「継承」は、同じ七頭を別の言葉で拘束するようになった。
役所が二つあれば責任が半分になる、とは限らない。
責任を二枚の書類へ挟み、どちらからも見えなくすることもできる。
「名前、どれを地図へ書く」とハル。
「本人が選べません」
「じゃ全部?」
「役名は制度を示すため別層。ナアは過去の呼称として。現在の名は空欄にします」
「空欄って、名前がないみたい」
「勝手に確定するよりは」
「ナアって呼ばれて嫌かもしれない」
「はい」
「でも第一奉身仔はもっと嫌かも」
「推測です」
「難しい」
「だから、地図は答えではありません」
エリアは線の横へ、三つの小さな欄を作る。
過去呼称。
制度呼称。
本人の現在の選択。
最後だけ空白。
七頭全てへ同じ欄を置く。
ユル。
カラ。
セト。
ミイ。
ドゥ。
ルゥ。
名を地図へ置くたび、王という一文字が七つの身体へ戻っていく。
「地域の位置を重ねます」
エリアは王脈院から押収――ではなく、セレナが閲覧手続きを通した浮力台帳を開く。
王脈院は提出を拒んだ。
セレナは拒否時刻、拒否者、根拠条文を記録し、緊急時の他国救難協力規定を示した。
カイルは王族印を使わなかった。
オルダが自分の責任で、限定閲覧を認めた。
制度は遅い。
遅いが、誰の権限で開いたかを残す。
速さだけを求めると、次に同じ扉を開ける者が再び王族を必要とする。
台帳には七つの空気嚢が記されていた。
第一嚢――北岩根。医療棚、冬季食料庫、千九百四十二人。
第二嚢――西湿原。水耕田、低地学校、八百十一人。
第三嚢――赤土台。種庫、家畜避難棚、二千二百六人。
第四嚢――樹冠区。橋市、風膜鹿の繁殖場、千四百人。
第五嚢――東塩盆。塩井、薬草乾燥場、三千百七十人。
第六嚢――南断崖。係留港、外来船の検疫所、二千六百人。
第七嚢――タル谷。祭路、王心、周辺村。
「一頭を外すと、一地域が落ちる」とハル。
「直結ではありません」とエリア。「補助浮力塔があります。ですが現在、北路は二割低下。同期を急停止すれば、空気嚢の圧が抜けます」
「何分持つ」
「地域ごとに違います。北岩根は十八分。西湿原は水量が重く十一分。東塩盆は乾燥しているため二十五分」
「じゃ、ルゥを戻せば」
「他の六頭から引いている圧を戻す過程で、どこかへ過圧が出ます」
「鎖を切るだけじゃ駄目」
「鎖は生体の拘束であると同時に、地域の浮力管です」
「ひどい作り」
「長い年月で用途が重なった結果です」
「誰も悪くない?」
「その結論は描いていません」
エリアの地図には、責任者の名前がない。
地図の役割ではない。
セレナの記録には、責任者が並ぶ。
ロロの図面には、接続時代と補修者が並ぶ。
同じ事件を一枚へまとめない。
まとめれば見やすい。
見やすい地図が、また一人へ責任を集める。
地上から、次々に伝羽が来た。
バルグ。
『北岩根。医療棚の床が一・二リュム沈下。患者三十六。移送路は一本。鉄蹄獣を入れると床荷重が増える。人が担ぐ』
シア。
『西湿原。水が片側へ寄る。田を捨てれば学校を守れる。田の所有者は不在。勝手に放水しない。代理決定の期限を求む』
ヤッカ。
『タルの若獣、意識低下。管を外すと呼吸が止まる可能性。付けたままでは中央へ引かれる。治療判断へ王脈院の許可待ち。待てない』
「三人とも別の問題」とハル。
「同じ危機が、同じ形で来るとは限りません」とエリア。
「一つの命令で救えない」
「一つの命令は速い」
「速いけど」
「速さが必要な場所もあります」
エリアは光の地図へ、各地域の判断期限を入れる。
北岩根、八分。
西湿原、五分。
タル谷、現在。
全員が同じ時刻に同じことをすれば公平、ではない。
体格も、地形も、残る空気も違う。
「ティアなら、どうするかな」とハル。
「本人へ聞かず、代弁しないでください」
「想像も駄目?」
「想像はできます。答えとして使わない」
「エリアは?」
「第一条、と言い始める」
「今、代弁」
「想像です」
「ずるい」
「正確です」
エリアの口元が少し緩む。
次の瞬間、地図線が全て震えた。
六つの拍が、同じ間隔へ近づく。
強制同期が進んでいる。
最初に異常が出たのは、西湿原だった。
伝羽の映像が揺れる。
水田の水面が、呼吸するように上下する。
一度目、十セン。
二度目、三十。
三度目、一リュム。
学校の柱へ、子どもたちが避難索を結ぶ。
シアの声。
『放水弁を開ける。田の水を南嚢へ落とす。所有者の同意なし。ただし閉鎖時刻を記録。二時間後に再審』
背景で、別の農夫が怒鳴る。
『田を殺す気か!』
『学校を沈めない』
『子どもを盾にするな!』
『盾にしていない。選択肢と期限を言った。反対なら代案を四十拍で』
四十拍。
農夫は何も言えない。
沈黙を賛成にはしない。
シアは放水を始める。
『反対一、保留三、賛成十二。緊急判断者シア・トル。損失責任を記録』
水が落ちる。
学校が浮く。
田は乾く。
救助と損失が同じ映像へ残る。
「善い決断?」とハル。
「今は学校が沈まなかった事実」とセレナ。「田の損失評価は後」
「後で正しいか決まる?」
「正しさではなく、責任と補償を決めます」
「正しさ、どこ行く」
「一つの欄には入りません」
次に北岩根。
バルグが患者を担いでいる。
大柄な彼は三人運べる。
だが、一人ずつ運ぶ。
酸素袋の位置。
骨折。
呼吸。
必要速度が違う。
『俺へ全部載せるな! 歩ける者は歩け! 担がれたい者だけ言え!』
「言い方がガンガに似てきた」とハル。
「俺より説明が多い」とガンガ。
「負けた?」
「競ってない」
北岩根の床がさらに沈む。
伝羽が切れる。
エリアの地図線、第一嚢が赤くなる。
「ハル、測距札。北線へ」
「ここ?」
「二歩先。床の白い継ぎ目」
ハルが置く。
「ロロ、北嚢の補助管へ繋げられますか」
「足跡炉から直接は無理。第三嚢の余圧を回す」
「第三は種庫」
「種庫は圧力変化に強い。建物を低く作ってる」
「住民確認」
「伝羽」
セレナが赤土台へ送る。
返事が来るまで二十拍。
待つ。
待っている間にも北が落ちる。
カイルが言う。
「俺の盾で、北嚢を支えられる」
「距離」とエリア。
「王心から骨路へ炎を流す」
「反動」
「肋骨三。十分まで」
「十分後は」
「四か五」
「却下」
「まだ使ってない」
「十分後にあなたが動けなくなる案は、他の救難選択肢を減らします」
「じゃ五分」
「三分。第三嚢の返事まで」
「交渉成立」
「これは契約ではなく隊形です」
「成立って言いたかった」
カイルが右籠手を開く。
王盾炎〈レグルス・ガード〉。
守る人数が増えるほど強く燃える。
だが、今彼が守る人数は見えない。
北岩根の千九百四十二人。
医療棚の三十六人。
名前を知らない。
盾は人数を数字で数えない。
守ろうとした関係の数を受ける。
カイルは伝羽の映像へ、患者の顔を一人ずつ見る。
「誰を守ればいい?」
いつもの口癖。
エリアが答える。
「今、北線へ乗っている全員。ただし三分」
「了解」
深紅の炎が骨路へ走る。
第一嚢の地図線が持ち上がる。
カイルの背中へ、古い火傷が浮く。
ハルは心配を言葉にしない。
「二分三十」と時刻を言う。
「分かってる」
「二分」
「早い!」
「言った時点で二十秒経った」
「お前の秒、長い!」
冗談が出る。
まだ限界ではない。