第283話 第十章「一頭を選ばない」前編
多数は、数である。
数だから、声の大きさを平らにできる。
数だから、王の一言と子どもの一言を同じ一票へ置ける。
ただし、数える前に消された者は、多数にも少数にもなれない。
名を持たない獣。
話すまで時間のかかる者。
怖くて何も言えない者。
問いそのものを知らされなかった者。
彼らの沈黙を賛成へ足せば、全会一致は簡単に作れる。
国という巨大な生き物は、しばしばその方法で一つの心臓を選んできた。
ガンガ・オルバは、多数の心臓を一つへ揃える力を持っていた。
ゆえに彼が王になるため最初に覚えなければならなかったのは、最も強く聞こえる拍を、群れの答えと呼ばないことだった。
四十七分という数字は、正確だった。
正確だから公平とは限らない。
締切を告げる者は、その数字までに考えられる場所へいる。
締切を受ける者は、事情を知らされず、走って来る途中かもしれない。
石眠り村の住民は、王心の中へいない。
苔鐘原の牧人も、角舟市の船工も、雨骨棚の水守もいない。
七頭は、選挙権を持たない。
言葉を話さない。
話さないから、国が代わりに決めてよいとされてきた。
「四十七分で全員へ聞けない」とカイル。
「聞かずに決める理由にはならない」とガンガ。
「聞いている間に落ちる」
「分かってる」
「俺は反対してない」
「王子の声は、賛成にも反対にも大きい」
カイルは一瞬、笑いそうになる。
「声量まで身分か」
「お前が言えば、他国の代表が従う」
「何も言わなければ」
「何も言わない王子の圧が残る」
「便利だな、王族」
「不便だ」
「皮肉だよ」
「分かってる」
二人とも声を上げない。
カイルは右籠手を左拳で一度だけ叩く。
二度目を止める。
「俺は、自国の似た失敗を説明する。答えは言わない」
「それなら聞く」
「聞いた。賛成ではない、も付けろ」
ネムが小板を上げる。
『採用』
「採点された」とカイル。
「王子、合格?」とハル。
『保留』
「厳しいな」
その時、地上から伝話管が一斉に鳴った。
一つではない。
七つ。
声が重なる。
『王が戻られたのですか』
『足跡が止まった』
『井戸の風が逆流している』
『王心へ異国人が入ったというのは本当か』
『奉身仔を盗んだ者がいる』
『死王の墓を暴いた』
『国境軍が誓いを更新できない』
情報は、説明より先に地上へ出ていた。
隠蔽は蓋ではない。
圧力鍋のようなものだ。
長く閉じるほど、開いた時の音が大きい。
「誰かが漏らした?」とハル。
「異常が生活へ出ています」とエリア。「井戸、風車、国境標。秘密を知らなくても、変化は見える」
「王が生きてるなら、病気って言えば」
「また物語を足すことになります」とセレナ。
伝話管の一つから、怒鳴り声。
『七頭などいない! 王敵の偽計だ!』
別の管。
『うちの仔を返せ! 十二年前に療舎へ送った!』
さらに別。
『返したら村が落ちるのか!』
真実は、同じ方向へ人を動かさない。
疑う者。
信じる者。
信じたいが、生活を失いたくない者。
生活を失っても、誰かを返してほしい者。
「第一公表を前倒しします」とセレナ。
「証拠確認が終わっていません」とラハナ。
「確認済み部分だけ」
「死因の原簿は」
「あります」
「七個体の現状は」
「拍、乳歯、名札、設備接続を確認」
「全家系の同意は」
「個体名を出しません」
「国境への影響」
「不明と明示」
「不明で発表すれば、恐慌が起きる」
「不明を隠して発表を遅らせても、恐慌は起きています」
セレナは三つの円から、必要な紙だけ取る。
言葉を短くする。
短い言葉は、理解しやすい。
理解しやすい言葉は、扇動にもなりやすい。
だから一文ごとに、証拠と不明を付ける。
『先王獣は八十四年前に死亡した。死亡原簿と遺体を確認した』
『現在、七頭の生きた王獣系個体が、王の歩行・浮力・国境誓術へ接続されている。乳歯、拍、設備を確認した』
『七頭の名と家系は、本人・群れの確認前に公表しない』
『王の生存を示してきた足跡は、地下設備が作っていた』
『設備停止により集落が落下する危険があるため、直ちに全停止はしない』
『現在、七拍を一頭へ集める処置が進行中であり、複数個体に生命危険がある』
『処置の決定者は七脈院王心監ラハナ・セヴ。過去の制度責任と、現在の救難を分けて監査する』
『次回説明は一刻以内。更新がなくても、その理由と遅延を告知する』
「最後、必要?」とハル。
「沈黙の期限です」
「返事がない待合室を作らない?」
セレナが彼を見る。
「そうです」
ハルは何も言わない。
父が帰らなかった日の、止まった時計を思う。
「送って」
七つの伝話管へ、同じ文を流す。
同じ文でも、七つの場所で違う意味になる。
石眠り村では、療舎の前へ人が集まった。
王影谷では、祭司が鐘を止めた。
角舟市では、船工が「足跡炉の偽装」を聞き、炉を壊せと叫んだ。
雨骨棚では、水守が、壊せば霧が止まると怒鳴り返した。
苔鐘原では、古い女が一人、王へ向けていた椅子を七つに分けた。
誰も一つの民ではなかった。
恐慌は、数字へ変えると静かに見える。
転倒、十一。
呼吸発作、三。
王心入口への押しかけ、百七十余。
国境標の誓術低下、四地点。
薬船の入港保留、二隻。
紙の上では、列が揃う。
現場では、子どもが泣き、老人が怒鳴り、荷馬が足を滑らせる。
「入口が持たない」とバサ。
「衛士を増やす?」とラハナ。
「押し返せば裂ける。吸気の時、群衆ごと孔へ引く」
「避難路は」
「地上東側へ一つ」
「百七十人には足りない」とエリア。
彼女は踵を床へ置いたまま、地上図を開く。
「王心入口を閉じず、列を分ける。質問、家族照会、救難、抗議を同じ門へ入れているのが原因」
「抗議を分ける?」とカイル。
「追い出すのではなく、場所を分ける。声を出す場所と、怪我人を運ぶ場所を重ねない」
「地図を送れる?」とハル。
「地上を測っていない」
「俺、走った」
「足跡から呼吸孔までだけ」
「段差、覚えてる」
「全体には足りない」
「村人に足す」
エリアは一瞬止まる。
自分が描くのでなく、地上の人に描き足させる。
「伝話管へ、路図の枠だけ送ります。村ごとに入口、井戸、空き地、傾斜を報告して」
「命令?」
「依頼」
「手伝って?」
「二度言わせるの?」
「聞くと速く走れる」
「ハル。地上の地図作りを、手伝って」
「成立!」
「返事が軽い!」
「足は速い!」
ハルは伝話管を取る。
村の子どもへ、難しい測量語を使わない。
「家を背にして、入口は右? 左? 井戸まで走ると何息? 転ばない広場ある?」
『王の像の前』
「像、動かせる?」
『罰が当たる』
「今、王本人が死んでたって発表した」
『もっと罰が当たりそう』
「じゃ像は残す。周りを空ける」
笑いが一つ混じる。
恐慌は、笑えば消えるものではない。
だが、息を一度戻す。
エリアが報告を線へする。
セレナが用途を分ける。
カイルが入口の盾を、壁ではなく導線へ変える。
ガンガとハダンが地上へ低い拍を送り、群衆を一拍へ揃えないよう、七種類の退避鐘を鳴らす。
ネムが、鐘の間へ無音を入れる。
無音は「従え」ではない。
次の音を聞くための余白。
入口前の人々が、少しずつ分かれる。
家族照会。
救難。
質問。
抗議。
抗議の列が最も長い。
「健全」とカイル。
「王子が言うと怖い」とハル。
「王に抗議できる列が長い国は、まだ生きてる」
「死んだ王の国で?」
「だから、これから」
完全同期まで、三十一分。
ルゥの呼吸は深くなった。
健康になったのではない。
他の六頭の呼吸を借りている。
離れた空気嚢で、一頭ずつ浅くなる。
ネムは光譜を分ける。
白い一本の中に、七色を探す。
「ナア、低下」
初めて、名で呼んだ。
「ユル、二拍欠け」
「カラ、呼吸はある。足圧なし」
「セト、尾支持が消えた」
「ミイ、速い」
「ドゥ、遅い」
「ルゥ、借りてる」
七つの名。
まだ地上へ公表していない。
王心の中で、役名から個体名へ戻す。
「どれを残す」とラハナ。
ガンガを見る。
「残す、じゃない」
「装置は一頭を必要とします」
「装置を変える」
「三十一分」
「分かってる」
「候補の拍を登録すれば、選択権が開きます」
「選択権?」とハル。
「次王候補は、七系統のうち一つを正統王心として指名できる」
「残り六つは」
「補助器官として切り離す」
「補助って、生き物?」
「制度上の分類です」
「分類で死に方を変えるな」
ラハナはガンガへ七本の鍵を差し出す。
「選ばなければ、適合率によりルゥが自動選択されます」
「自動で選ぶなら、俺を呼ぶな」
「王誓が不安定になります。候補の指名なら、国境と浮力の移行が滑らかです」
「俺の名を、殺す順番の油にする?」
「あなたが選べば、救える人数が増えます」
「何人」
「予測では、地上被害を七割減らせる」
「六頭は人数へ入ってる?」
ラハナが答える前に、セレナが言う。
「予測表では設備側損失のみ。七個体は別欄です」
「別欄なら、数えたことになる?」
「なりません」とセレナ。
ラハナは目を閉じる。
「だから、あなたたちが嫌いです」
「正確に言って」とエリア。
「私が必要だと思ってきた省略を、全部人の顔へ戻す」
「嫌いでいい」とハル。
「でも戻す」
「はい」
七つの伝話管へ、今度は代表者の声が入った。
石眠り村の療舎長。
苔鐘原の牧長。
角舟市の船渠組合。
雨骨棚の水守。
根渡りの季節道番。
青灰牧地の火守。
王影谷の祭司長。
一人ずつではない。
背後に、何十人もの声。
『ルゥを王に』
石眠り村から。
『うちの仔だぞ!』
同じ村の別の声。
『ナアが最も長く支えた。年長を選べ』
『年長だから死ねと言うのか』
『王がいなければ国境軍が来る』
『王がいると言って八十四年、軍は来た』
『七頭を返せ』
『返した後、村が落ちたら誰が持つ』
声が重なる。
ガンガの能力なら、一つへ束ねられる。
全員を同じ拍へ近づけ、最も強い傾向を「群れの意思」と読める。
装置もそれを待っている。
候補の角が光る。
ガンガは鐘棍を布で包む。
鳴らさない。
「大声だけが、群れの声じゃない」
『では、いつまで待つ』
祭司長。
「三十一分」
『その後は』
「知らん」
『候補が知らないと言うのか』
「知らないことを知ったふりする王が、今までいた」
『王を侮辱するな!』
「死者を生きていると言う方が、侮辱じゃないのか」
伝話管が割れそうな声。
ネムが太鼓へ手を置く。
叩かない。
「兄さん」ではなく。
「ガンガ」
名を呼ぶ。
「選ばない、を先に決めないで」
「何」
「選ばないことも、私たちの代わりに決めたら同じ」
ガンガの顔が硬くなる。
「じゃ、どうする」
ネムは小板を使わない。
掠れた声で言う。
「沈黙を、時間に入れて」
「何分」
「百呼吸」
『三十一分しかない!』
「百呼吸は、何も決めない時間じゃない」
ネムの声は大きくない。
七つの管の向こうで、聞き返す声が止まる。
「今まで、話せる人だけが全部の時間を使った。話さない人、言葉のない七頭、怖くて考えられない人の時間が、最初からゼロだった」
「百呼吸で何が分かる」と祭司長。
「分からない」
「なら無駄だ」
「分からないことが残る、と分かる」
ガンガは胸を叩かない。
「百呼吸。その後、決める」
「誰が」とハル。
同じ問い。
ガンガは七本の鍵を見る。
「俺一人じゃない」
ラハナが首を振る。
「王誓は一名の指名を要求します」
「古い儀式文は?」
「一歩を七つへ預ける」
「なら、七つへ返す」
「装置が対応しません」
「対応させる」
「時間が」
「百呼吸は取る」
完全同期まで、二十九分。
王心卓が開く。
七枚の骨札が立ち上がる。
ナア。
ユル。
カラ。
セト。
ミイ。
ドゥ。
ルゥ。
七つの名の下へ、一つずつ選択孔。
一本だけ鍵を入れれば、他の六つが閉じる。
国は、選びやすい形を用意していた。
ラハナが言う。
「ガンガ・オルバ。次王候補として、一頭を選びなさい」
七つの心音が、一つに聞こえる。
ガンガは、どの鍵にも触れなかった。
ネムが最初の呼吸を数えた。
一。
王心卓の七つの名が、白く光る。
ナア。
ユル。
カラ。
セト。
ミイ。
ドゥ。
ルゥ。
名前は並んでいる。
身体は並んでいない。
七頭は七つの地域で、鎖へ繋がれ、管へ繋がれ、国へ繋がれている。
二。
伝話管の向こうで、誰かが息を呑む。
その音も一票にはならない。
三。
王心卓の下で、歯車が一つ進んだ。
「自動選択は止まっていない」とラハナ。
脅しではない。
報告だった。
「止める方法」
「候補が一頭を指す。あるいは王脈院長代理が緊急鍵を入れる」
「どちらも一頭を選ぶ」
「そういう装置です」
「なら今は、装置が間違ってる」
「間違った装置でも、地面を支えています」
四。
ガンガは七本の鍵を見た。
同じ形に見える。
よく見れば、柄の長さが違う。
最も古いナアの鍵は、角が丸い。
最も新しいルゥの鍵は、削り跡が鋭い。
同時に作られたものではない。
五。
ネムは、まだ何も説明しない。
百呼吸を要求した者が、百呼吸を自分の演説で埋めれば、沈黙を別の声へ変えただけになる。
六。
ガンガは胸を叩きたくなる。
大きな音を一つ出せば、七つの管の向こうのざわめきは止まる。
止まれば考えやすい。
考えやすくなれば、自分が正しいと思いやすい。
だから叩かない。
七。
七つの心音が、白い一拍へ寄る。
ネムの指先だけが、白の中へ残った細い色を追う。
薄緑。
青。
橙。
黄。
赤紫。
灰青。
白緑。
色は名ではない。
個体を見失わないための仮の目印だ。
八。
地上の誰かが叫ぶ。
『早く決めろ!』
別の誰かが言う。
『黙れ!』
命令された沈黙は、沈黙ではない。
ガンガは伝話管へ言う。
「話してもいい。だが、今の声を決定へ数えない」
『なら何のための時間だ!』
「自分の声が、誰の代わりでもないか考えるためだ」
九。
オルダが王心卓の反対側へ現れた。
七つの封印指輪。
灰色の衣。
歩幅は一定。
「儀式を遅らせる権限は、候補にありません」
「一頭を選ぶ権限はある」
「はい」
「選ばない権限は?」
「規定されていません」
「ないとは書いてない」
「危機に屁理屈を持ち込まないでください」
ロロが遠くの伝羽から叫ぶ。
『技術者の半分を侮辱したな!』
「残り半分は請求書です」とハル。
『そこまで伝播させるな!』
十。
オルダはルゥの鍵へ手を伸ばす。
ガンガは掴まない。
手の前へ、自分の掌を置く。
「触れば止めます」
「力で?」
「身体で」
「同じです」
「違う。お前を傷つけない。鍵までの道を塞ぐ」
「あなたが動かなければ、私は進めない」
「俺が選んだ位置だ」
オルダの手が止まる。
十一。
王心卓が低く鳴る。
完全同期まで、二十七分。
時間は、沈黙へ遠慮しない。