第284話 第十章「一頭を選ばない」後編
二十三呼吸目で、最初の返答が来た。
言葉ではない。
西湿原から、水を打つ音。
一度。
休み。
二度。
シアが、田の水門へ板を置いた音だった。
『西湿原。強制同期を続ければ学校の浮力は安定する。ただしユルの拍は三割低下。段階分離を受け入れる。水田を追加で二枚沈める。期限二時間。補償の決定は後。沈黙者を賛成へ入れない』
背後から反対の声。
『田を勝手に!』
『反対一。記録。代案は』
『ない!』
『反対一、代案なし。反対を消さず、実施する』
決定は全員を納得させなかった。
だから、誰が何を失ったかが残る。
二十九呼吸目。
北岩根。
バルグの太い声。
『ナアを外す順へ入れろ。医療棚は地上索へ移した。全員は無理だ。呼吸器具の必要な九人を先に出す。俺が三人ずつ担ぐ案は却下された。一人ずつ運ぶ』
「誰に」とハル。
『患者本人だ! 三人まとめて揺らすなと言われた!』
「学んだ」
『うるせえ!』
三十四呼吸目。
赤土台。
『カラの負担を一割下げる。種庫の浮力を二割まで貸す。保留者の種袋は別棚へ移した。承認は二時間』
三十九。
樹冠区。
『セトの鎖位置を確認。橋市は三本の吊橋へ分散。風膜鹿は自分で高地へ移動を開始。人の避難路と重ねない』
四十六。
東塩盆。
『ミイの拍が速すぎる。塩井の蓋を開け、乾燥圧を逃がす。薬草の半分が湿る。損失記録を残す』
五十二。
南断崖。
『ドゥの拘束舎は検疫所の下。外来船を三隻離す。港の利益は止まる。命は止めない』
五十九。
タル谷。
返事がない。
ルゥがいる地域。
最も強い拍を受け、最も安定して見える場所。
「沈黙」と祭司長。
「賛成じゃない」とネム。
「反対でもない」
「そう」
六十。
オルダの指輪が震える。
「六地域が段階分離を選んだ。タル谷は未回答。多数は分離です」
「多数で決めると言った覚えはない」とガンガ。
「では何を待っているのです」
「七頭」
「獣は答えません」
「反応はある」
「反応を同意と呼ばないと、あなた方自身が決めた」
「同意じゃない。嫌がる場所を知る」
「それで国を決める?」
「国を決めない。今、殺さない方法を決める」
言葉の範囲を狭くする。
未来の王制。
国境。
補償。
七頭の帰属。
全てを二十六分で決めない。
今決めるのは、強制同期を止めるか。
七頭を生かしたまま負担を移すか。
その危険を各地域が一時的に引き受けるか。
緊急判断を、永久の答えへしない。
六十三呼吸目。
ネムが王心卓の下へしゃがんだ。
光を見ているのではない。
床を見ている。
「何」とガンガ。
ネムは答えず、指で白い床の粉を払う。
細い溝が出た。
円弧。
鍵穴から、卓の外へ伸びる。
ルゥの穴だけではない。
七つ。
「鍵を入れる跡?」とハル。
「違う」とロロの伝羽。「床が擦れてる。鍵じゃなく、足」
ガンガが裸足を置く。
溝は、若い王獣の蹄幅に近い。
古い。
長年、何度も同じ場所を歩いた摩耗。
その上へ、新しい金属の縁が打ち付けられている。
選択孔の周りだけ、床材の色が違う。
「いつ増設」とセレナ。
ラハナは膝をつき、縁の鋲を見る。
「第二次継承騒擾の後」
「根拠」
「鋲へ使われた合金。八十年前に王脈院が採用した規格です」
ロロが食い気味に入る。
『あと、溝の端! 金属縁の下へ続いてる! 先に歩行路があって、後から選択卓を被せた!』
「古い儀式では」とハダン。
歌を口へ出さない。
記憶だけで辿る。
「一歩を七つへ預ける。七つは野へ帰り、七つは季を運ぶ」
「帰る?」とハル。
「今の祭歌では、その節がない」
「消した?」
「消えた。誰がいつ消したかは、まだ分からん」
セレナが旧儀式文の写しを開く。
前半。
『王、一歩を七つへ預く』
裏面の擦れ。
薄い炭粉を当てる。
文字が浮く。
『七つ、朝ごと異なる野より来たり、夕ごと異なる野へ帰る』
ラハナの顔から色が消える。
「奉身仔は、固定されていなかった」
「古い儀式の段階では」とセレナ。「本文、床の摩耗、後世の鋲。三点が一致します」
「鎖は」とガンガ。
ラハナは答えない。
オルダが言う。
「歩行の誤差を減らすため、騒擾後に追加された」
「誤差」
「七頭が別々に動けば、足跡の位置がずれる。王が一晩で違う方向へ歩いた記録が出た。群れが『王は我らへ来た』と争った」
「だから鎖へ」
「足跡を統一するためです」
「国の物語を真っ直ぐ歩かせるため、生き物を止めた」
「そうです」
オルダは逃げない。
逃げないことは、正しいことではない。
七十呼吸目。
ネムが、七つの溝へ光を流す。
異なる心拍を混ぜず光へ分ける譜〈セパレート・ビート〉。
光は選択孔へ吸い込まれず、古い歩行溝へ走った。
七方向。
王心卓の外壁へ。
壁の下で、七つの小さな骨板が震える。
「地図」とエリア。
グリムリリーを差し込む。
光の路図が、骨板の裏へ入る。
消されていた古い線を、現在の地図がなぞる。
北岩根。
西湿原。
赤土台。
樹冠区。
東塩盆。
南断崖。
タル谷。
線の端に、一つずつ輪の印。
「拘束場所」とラハナ。
「開示されてなかった?」とハル。
「現行図では、王心管の保守点です。個体舎とは別記録」
「同じ場所を違う名前で分けた」
「分けることで、全体を知る者を減らした」
セレナの声が冷える。
七十五呼吸目。
王心卓の内部で、金属音。
自動選択の遮断板が一枚落ちる。
ドゥの鍵穴が閉じた。
「時間」とラハナ。
ガンガは閉じた穴へ手を入れない。
選択卓の外縁を掴む。
「外せるか」
『壊すなら三十秒!』とロロ。
「壊さないなら」
『三分!』
「二十五呼吸で」
『無茶を単位変換するな!』
ロロの伝羽の向こうで、補助腕が工具を掴む音。
『鋲は後付け! 七本全部、反時計へ半回転! でも一人でやるな! 荷重が偏る!』
七本の鍵。
七人。
ガンガ。
ネム。
ハダン。
エリア。
カイル。
セレナ。
ハル。
「俺は?」とラハナ。
「手順を読む」とセレナ。
「私は」とオルダ。
ガンガは彼女を見る。
「緊急鍵を持ってる」
「使うなと?」
「使わない役を頼む」
役割は、力を振るうことだけではない。
オルダは緊急鍵を握る。
捨てない。
隠さない。
全員から見える卓上へ置き、両手を離す。
「使いません。百呼吸まで」
「その後も、勝手に使うな」
「交渉は後です」
「今、予約した」
八十呼吸目。
七人が鍵を取る。
ハルは左肩を上げない位置。
エリアは右踵へ体重を載せず、卓へ腰を寄せる。
カイルは籠手を外し、素手。
セレナは左眼の単眼鏡を外す。
ハダンは古い膝を曲げず、三叉杖で柄を押す。
ネムは声を使わず、光で順を示す。
ガンガは最も固いナアの鍵。
「順番」とラハナ。
「一、三、六、二、五、四、七。旧歩行順」
「一頭を選ぶ順じゃない」とハル。
「全員が帰る順だ」とハダン。
八十二。
ナア。
ガンガが半回転。
硬い。
力を入れれば折れる。
折れば速い。
壊すことと、開けることは同じではない。
ガンガは力を抜く。
鍵の奥の拍を聞く。
自分へ寄せない。
ナアが前脚を土へ二度擦る、その二度目。
回る。
八十四。
カラ。
ハダンの杖が押す。
古い膝が震える。
「代わる」とガンガ。
「頼んでおらん」
「痛み」
「四」
「撤退」
「五だ」
「四で代われ」
「お前は王か」
「違う。隣だ」
ハダンは一拍、杖から手を離す。
ガンガが補助する。
二人で回す。
八十六。
ドゥ。
閉じかけた穴へ、セレナの鍵。
遮断板が指を挟む。
カイルが盾を出さず、素手で板を持ち上げる。
「王子、指」とハル。
「二」
「嘘」
「三」
「正直になって増えるの変」
「発見だな」
セレナが回す。
八十八。
ユル。
ネム。
喉は使わない。
青い光が一度、水のように揺れる。
鍵が回る。
九十。
ミイ。
エリア。
右踵、四。
「補助」と言う。
ハルが背後から帯を支える。
「四割」
「今は五」
「四・五」
「小数で意地を張らないで」
「成立」
二人で回す。
九十二。
セト。
カイル。
籠手なしの右手へ、古傷の痺れ。
炎を使わない。
力が足りない。
オルダが近づく。
「使わない役」とガンガ。
「緊急鍵を使わない役です」
オルダはカイルの反対側へ手を置く。
「これは?」
「頼んでない」
「拒みますか」
カイルが笑う。
「今だけ、借りる」
二人で回す。
九十四。
ルゥ。
ハル。
最も新しい鍵。
最も軽く回るはずだった。
動かない。
「何で!」
ロロの声。
『新しいからだ! 後付けの選択爪が二重! 右へ一度押してから左!』
「先に言って!」
『今見えた!』
ハルが右へ押す。
左肩が上がる。
「痛み」とエリア。
「二」
「形」
「引っ掛かる」
「右手へ替えて」
「届かない」
ガンガが代わるのは速い。
だが、ハルは首を振る。
「俺がやる」
「理由」
「ルゥが一番近くで、ずっと他の六頭を吸ってた。俺が選んだんじゃない。でも俺、最初にルゥだけ助ければって言った」
「罰にするな」とガンガ。
「違う。届ける」
「何を」
「一頭じゃないって手順」
ハルは身体を低くする。
肩を上げず、腰から回る。
右へ押す。
爪が外れる。
左へ。
九十六。
鍵が回る。
七つの歩行溝が、全て光る。
九十七。
卓の外縁が持ち上がる。
後付けの金属枠が割れ、下から古い骨板が現れる。
七つの輪。
七つの地名。
七つの鎖の断面図。
九十八。
王心卓は選択台ではなかった。
七頭の帰還を確認する道標だった。
後の時代が、その上へ一頭を選ぶ装置を載せた。
九十九。
タル谷から、ようやく返答。
祭司長ではない。
息舎でルゥを見ていた子どもの声。
『ルゥ、鎖から離れようとしてる。近づくと蹴る。管を外すと倒れる。どうしたらいい』
反応。
同意ではない。
だが、嫌がる場所は分かる。
ガンガは答える。
「今は管を切るな。鎖を外す準備をする。お前は離れていい」
『離れたら、誰が見る』
「見たいなら残れ。怖いなら離れろ。どっちも役目を捨てたことにしない」
百。
ネムが最後の呼吸を吐く。
沈黙が終わる。
全員が同じ答えになったわけではない。
反対は残った。
保留も残った。
分からないも残った。
その残り方ごと、ガンガは言う。
「一頭を選ばない」
オルダが緊急鍵を見る。
「候補の正式決定として?」
「今の危機に対する決定。期限は二時間。七頭を別々に生かし、七地域へ負担を返す。二時間後、同じ問いをもう一度する」
「王位は」
「決めない」
「国境誓術は」
「落ちた場所ごとに知らせる」
「統一命令は」
「出さない」
「失敗したら」
「俺の名も記録しろ。だが、俺一人の失敗にはするな。選んだ地域、反対した者、作った手順、止められなかった者、全部」
セレナが記録する。
「緊急判断。決定者ガンガ・オルバ。共同実施者と反対者を別記。終了時刻、二時間後」
オルダは緊急鍵を取る。
誰もが身構える。
彼女は鍵を、自分の首へ下げた封印環から外した。
卓へ置く。
「王脈院長代理として、強制同期の中断を命じます。中断の成否を保証しません」
「保証を求めてない」とガンガ。
「責任を減らす言葉ではありません」
「分かってる」
「嫌いです、あなたたちが」
「俺も、お前の決め方が嫌いだ」
「私ではなく?」
「まだ分けられない」
「正直ですね」
「今は」
古い骨板へ、七つの拘束場所が現れた。
北岩根――医療棚の下、冬眠槽。
西湿原――学校裏、水圧舎。
赤土台――種庫南、二重床。
樹冠区――橋市中央、吊り根の檻。
東塩盆――塩井第七口、乾燥房。
南断崖――検疫所下、係留肋。
タル谷――王心直下、選定舎。
七つの鎖。
同じ形ではない。
同じ鍵ではない。
同じ痛みではない。
ロロが伝羽の向こうで、七班の手順を読み上げる。
『一番、ナア。二番じゃねえ、次はカラ。歩行順だ。番号で間違えるなら痛み名も言え。北の重い呼吸、赤土の二度打ち、断崖の短い跳ね、西の水の拍、塩盆の乾いた戻り、樹冠の長い間、タルの遅い七番!』
「長い」とハル。
『間違えて一頭止めるより短い!』
エリアが路図を七方向へ分ける。
線の端へ、地上の班が灯を返す。
バルグ。
シア。
種庫の管理者。
橋市の聞き手。
塩盆の火守。
検疫所の船工。
タル谷の子どもと肺守。
中央班。
ハル。
ノクス。
ガンガ。
ネム。
ハダン。
エリア。
カイル。
ロロ。
セレナ。
「出発」とセレナ。
「まだ二十五分」とラハナ。
「二十五分しかない」とハル。
「同じ数字」とエリア。
「走る方に言うと短い」
「歩いて」
「今は走る」
「左肩」
「二」
「三になったら」
「言う」
「先に」
「二・五で言う」
「小数で意地を張らない」
「それ、さっき俺が言われた」
七つの扉が開く。
死んだ王の体内へ、七方向の道が伸びる。
国は一頭を選ばなかった。
だから今度は、一頭ずつ違う場所まで迎えに行かなければならない。
ガンガは最も大きな声を出さない。
ただ、七班へ同じ一言だけ送る。
「別々に、生きて戻れ」