第288話 第十二章「大地がひび割れる」後編
「次王を」
王影谷の祭司長が立つ。
怒りでなく、恐怖で声が硬い。
「偽装を終えるなら、正統の王が必要だ。ガンガ・オルバ。七頭を救い、群れの拍を聞き、候補祭を越えた。今こそ角を受けよ」
広場の一部から歓声。
人は、象徴を失うと、次の象徴を急いで作る。
死んだ王の石像は、まだ七つに分かれている。
その前へ、生きた大男が立っている。
絵としては、あまりに分かりやすい。
ガンガは言う。
「受けない」
歓声が途中で止まる。
「なぜだ!」
「今、俺を王にすれば、七頭を一頭へした装置と同じだ」
「人と獣を並べるな!」
「王を役目だけにするな」
「国には中心が」
「中心は要る時がある。今の救難にも、合図は要った。だから、中心をなくすと言ってない」
「なら」
「一人へ固定しない」
ガンガは七つの伝羽を指す。
「二時間ごとに、進行役を替える。北、西、赤土、樹冠、東、南、タル。進行役は結論を決めない。緊急判断は終了時刻を先に書く。沈黙を賛成へ入れない。反対者と損失を残す」
「それで戦が止まるか!」
「止まると約束しない」
「王なら止めろ!」
「止められないことを、王が生きているふりで隠した結果が今だ」
「候補を辞めるのか」
ガンガは自分の角へ触れる。
候補の金環。
外さない。
「今は、王にならない。候補を辞めるかは、候補祭へ参加した群れと話す。ここで勝手に決めない」
選ばないことまで、一人で決めない。
ネムが小板を出す。
『百呼吸』
「またか」と祭司長。
『最初の暫定手続を決める前に』
「今度は何を聞く」
『七頭』
広場は黙る。
命令されてではない。
七つの伝羽も、音量を下げる。
一呼吸。
北岩根で、ナアが土を二度擦る。
二十呼吸。
西湿原で、ユルが水を払う。
三十三。
カラが種庫の外で鼻を鳴らす。
四十一。
ドゥが断崖の風へ短く吠える。
五十八。
ミイが薬草の匂いにくしゃみをする。
六十九。
セトが長い間を置き、吊り根を一つ越える。
八十七。
ルゥが、王像とは反対の方角へ一歩歩く。
百。
ネムが札を下げる。
全員が同じ答えを聞いたわけではない。
だが、七頭が一つの鐘ではないことだけは、誰の演説より長く残った。
最初の暫定手続は、全会一致にならなかった。
北岩根――賛成。
西湿原――条件付き賛成。
赤土台――保留。
樹冠区――賛成。
東塩盆――二時間では短いとして反対。
南断崖――賛成。
タル谷――代表を一人に絞れず、回答なし。
「四賛成、一反対、一保留、一未回答」とラグ。
「可決?」と祭司長。
ネムは首を振る。
『多数決をすると決めていない』
「では何のために聞いた!」
『同じ危険を引き受けられる場所を知るため』
ガンガが続ける。
「賛成した四地域で先に始める。西の条件を明記。赤土と東は、現行の地域判断を続ける。タルは、代表が決まるまで公開広場で話す」
「国が七つに割れる!」
「既に、違う答えだった」
「一つへまとめるのが政治だ!」
「違いを消さず、一緒に動ける場所を探すのも政治だ」
「そんな遅い国は滅びる!」
「速い嘘で八十四年、生きた」
「生きたではないか!」
「七頭を繋いで」
祭司長は黙る。
その沈黙も、敗北とは記録しない。
暫定手続は、国の新憲法にならなかった。
四地域で始まる、二時間の試行になった。
東塩盆は独自の火守会議を続ける。
赤土台は種庫の損失を数えるまで保留する。
タル谷では、王を信じる者、七頭を返したい者、何も決めたくない者が同じ広場へ残る。
まとまらない。
それでも、強制同期の鐘は鳴らない。
ハダンは、夜になる前に歌った。
王影谷の石段。
分けられた王像の前。
三叉杖を置く。
白濁した左眼を隠さない。
古い王歌の旋律。
『王は七つへ歩みを預け』
そこまで歌い、止める。
今の祭歌なら、次はこう続く。
『七つは一つへ帰り、王は永く歩む』
ハダンは歌わない。
古い裏面の文を入れる。
『七つは異なる野より来たり
七つは異なる野へ帰る』
祭司たちがざわめく。
「勝手に歌を変えるな!」
「戻した」
「どちらが古いか、まだ」
「だから、俺の名を付ける」
ハダンは続ける。
『歌い手、ハダン。
王歴三百二十年の旧文をもとに、今日この節を歌う。
正統とは断定しない』
歌の中へ注釈を入れる。
美しくない。
長い。
祭で覚えにくい。
歴史としては、正直だった。
さらに一節。
『十七年前、オルバの群れは一頭を療舎へ送り
帰らぬ一頭を探さなかった
送り手の一人、ハダン』
広場から怒声。
「今さら歌えば済むか!」
「済まん」
「ナアを返せ!」
「返すと俺が決めん」
「責任を取れ!」
「取る。だが、許されたことにはせん」
石眠り村の老女が、伝羽越しに言う。
『その歌を、うちの村では歌わない』
「分かった」
『消せと言わないのか』
「お前の村の歌を、俺が決めん」
『なら、こちらは別の歌を作る』
「聞く」
『聞いても、賛成ではない』
「知ってる」
ネムが小板へ小さく書く。
『伝播』
ハルが読む。
「何が?」
『言い方』
「良い病気」
ネムは首を傾げる。
『病気にしない』
「訂正」
ロロは、王心の保守図を七冊に分けた。
同じ写しではない。
北岩根版。
西湿原版。
赤土台版。
樹冠区版。
東塩盆版。
南断崖版。
タル谷版。
「中央図一冊の方が管理しやすい」とラハナ。
「管理する側はな」とロロ。
「分散すれば、更新差が出る」
「差が出たら、差を記録する」
「事故になる」
「中央だけ最新で、現地が古い方が事故になる!」
図面の各部へ、番号と痛み名を併記する。
第一骨路。
北の重い呼吸。
第二圧弁。
西の水の拍。
第三空気嚢。
赤土の二度打ち。
「保守員が詩を読むことになる」とラハナ。
「詩じゃねえ。場所を間違えない言葉だ」
「地域で呼び方が変わったら」
「空欄を足す」
ロロは一冊ごとに、現地呼称欄を作る。
図面が汚くなる。
線が増える。
注釈が増える。
更新者の名が増える。
見やすい一枚から離れる。
「修理費」とハル。
「取る」
「誰から」
「暫定会議!」
「まだ四地域しか始まってない」
「なら四地域へ四分の一ずつ――いや、使う設備量が違う。北二、南二、他」
「お金ない地域は」
「払える時期を決める。無料にはしねえ」
「どうして」
「無料って言うと、次も俺一人がやることになる。費用を残せば、工具、人、紙、時間が必要だって見える」
「高くする?」
「実費!」
「ロロの寝不足代」
「入れる!」
「高そう」
「八時間分!」
「寝てない時間を売るの?」
「もう黙れ!」
咳が出る。
二回。
ロロは話を止め、吸入筒を使う。
以前なら、言い争いで隠した。
「喘息、二。五分休む。俺が休んでる間、勝手に図面へ足すな」
「じゃ休んだ後、現地の人と足す」とハル。
「それはいい!」
ロロは壁へ座る。
機械鳥ピコが頭へ乗る。
「重い」
ピコは降りない。
「こいつの宿泊費も入れる」
エリアの地図には、七頭の欄が三つずつあった。
過去呼称。
制度呼称。
現在名。
過去呼称へ、ナア、ユル、カラ、セト、ミイ、ドゥ、ルゥ。
制度呼称へ、第一から第七奉身仔。
現在名は空白。
「旧名をそのまま使う村もある」とハル。
「あります」
「ルゥは、あの子がルゥって呼んだら耳を動かした」
「一回の反応です」
「嫌じゃないかも」
「かもしれません」
「空白のまま?」
「反応記録を横へ置きます。名前欄は急がない」
「空白って、寂しい」
「決められて埋められるよりは」
エリアは地図板を膝へ置く。
両踵、五。
靴を脱ぎ、冷たい布で巻く。
ハルが手を出す。
「船まで背負う?」
「肩三・五の人へ頼みません」
「右側なら」
「私の体重を片側だけで持つ提案をしないで」
「じゃ、腕」
「地図板を持って」
「エリアは」
「カイルの腕を借ります」
カイルは既に右腕を固定している。
「左なら空いてる」
「王子を杖にするの、外交上どう?」とハル。
「公務外使用」とカイル。
「使用って言わないでください」とエリア。
「では、同行」
「採用」
ハルは地図板を持つ。
エリアはカイルの左腕を借りる。
三人で歩く。
誰も一人で全部を持たない。
カイルは、救援の提案書を自分で書いた。
『アークレイ王国は、薬、浮力錨、橋梁技師、記録紙を提供する』
そこまで書き、止める。
「代価」とガンガ。
「実費の一部。支払時期は協議」
「領土」
「要求しない」
「国境誓術の管理権」
「要求しない」
「救援船の駐留」
「期間と場所を、各地域と別々に決める」
「王国印を押せば、後で変えられない」とエリア。
「変えられる条項を入れる。三十日ごとに更新」
「三十日を過ぎたら」とハル。
「自動終了」
「ミラが好きそう」
「終了条件のある契約だからな」
カイルは提案書へ一文を足す。
『救援は、領有、保護国化、王位推薦への同意を意味しない』
「そこまで書く?」とハル。
「書かなければ、後の王が書いてないことを利用する」
「自分も王になるかもしれない」
「だから、自分へ効く文にする」
王子は自国の善意を信じすぎない。
善い王が永遠に続くという制度は、王の生存偽装と同じほど脆い。
ガンガは提案書を読む。
「受けるとは言わん」
「提案だ」
「聞いた」
「賛成ではない?」
「覚えたな」
「旅は教育的だ」
「王子が言うと侵略に聞こえる」とハル。
「台無しだ」
夕方、自由港から伝羽が来た。
青い旗。
橙の旗。
二隻の救難艇が、同じ沈没船の左右へいる。
青旗は、救助後に費用と身元確認へ署名する仕組み。
橙旗は、署名も名乗りも救命条件にしない仕組み。
船上で、ジルが濡れた帳面を振っている。
『青の艇が商人十二人。橙が子ども三人と名乗らない大人一人。救難は完了』
後ろでパルが叫ぶ。
『燃料棚が空!』
ミラは二つの旗の間へ立っていた。
義足の膝を、甲板の縁へ掛ける。
『憲章は?』とハル。
『裂けたまま』
『直さないの』
『裂けた紙を一枚に貼れば、どっちの文字が上になる』
『二枚にする』
『今はそうしてる。青は帳簿を残す。橙は入口を残す。どっちも燃料を食う』
『仲直りは』
『喧嘩をやめることと、同じ規則に戻ることを一緒にするな』
ジルが横から言う。
『船長、燃料代』
『分かってる!』
『分かってるは支払いじゃない』
『誰の言い方だ!』
パルが無言でミラを指す。
『私か!』
伝羽の向こうで笑いが起きる。
青と橙。
二つの旗は、どちらも降りない。
『そっちは』とミラ。
「国が裂けた」とハル。
『物理か、比喩か』
「両方」
『面倒だな』
「そっちも」
『こっちは赤字が面倒なだけだ』
ジルが帳面を見せる。
『だけではない』
『通信を切るぞ』
『費用を記録してから』
伝羽が切れる。
暮らしは、遠くでも続いている。
ゼロスター号がいない場所で、別の失敗をし、別の勘定を取っている。
祭礼側は、ノクスへ新しい首輪を用意した。
白い布。
金の刺繍。
『王誓を見抜く獣』
「見抜いてない」とハル。
「破約の匂いを追った」と祭礼係。
「真実か嘘かは分からない」
「それでも役に立った」
「役に立つ名前を付けるの?」
「称号だ。誇りになる」
「誰の」
「国の」
「ノクスのは」
祭礼係は首輪を見下ろす。
「獣に誇りが」
ハルは怒鳴らない。
「付ける?」
ノクスへ聞く。
白い首輪を床へ置く。
自分の赤い布環も置く。
「白。赤。どっちもなし」
祭礼係が口を挟む。
「赤はただの古布だ」
「静かに」
「選ばせるふりをして、慣れた赤へ誘導している」
正しい指摘だった。
ハルは赤い布環を一歩遠くへ置く。
白も同じ距離。
自分も下がる。
ノクスは白へ近づく。
匂いを嗅ぐ。
金の刺繍を前脚で一度押す。
祭礼係が笑う。
「選んだ」
ノクスは白い首輪を咥える。
振る。
谷の泥水へ投げた。
「選ばなかった」とハル。
次に赤い布環。
咥える。
首へ通さない。
口に持ったまま、ゼロスター号の方角へ歩く。
「赤を選んだ?」
二本の尾が左右へ開く。
「持つだけ?」
右の尾が一度上がる。
「首へは付けない?」
ノクスは答えず、布を甲板の自分の寝場所へ置く。
その横へ座る。
称号の首輪を拒み、古布を所有物として持った。
そう見える。
セレナは記録する。
「白首輪を泥水へ投棄。赤布環を船内へ運び、横へ座った。称号への理解は不明」
「好き、は?」
「観測ではありません」
ハルはノクスへ聞く。
「好き?」
ノクスは「ナァ」と鳴く。
「赤が?」
「ノゥ」
「場所?」
二本の尾が、甲板を叩く。
「船?」
尾は動かない。
「今ここ?」
一度。
「今ここが好き」
「翻訳」とセレナ。
「質問の結果」
「『今ここ』への肯定反応」
「それで」
ハルは笑う。
「十分」
七頭へ、最初の食事が運ばれた。
七脈院の飼養表では、全て同じだった。
『王息草、十二束。塩塊、一。水、体重比一割』
役目が同じなら、食事も同じ。
同じものを食べれば、同じ身体になる。
同じ身体になれば、一頭の王として扱いやすい。
実際には、ナアは乾いた草を噛まず、根に付いた土だけを舐めた。
ユルは水へ草を沈めてから食べた。
カラは種を選り分け、黒い粒を残した。
セトは一口ごとに長く止まった。
ミイは塩へ近づかず、薬草の葉を欲しがった。
ドゥは風上へ立たなければ口を付けなかった。
ルゥは、誰かが見ている間は食べなかった。
「同じ王息草なのに」と肺守の一人。
「同じじゃない」とネム。
声を使って、喉が痛む。
すぐ小板へ替える。
『食べ方が違う』
「好み?」とハル。
セレナが口を開く前に、ハルが続ける。
「一回だから断定しない」
「学習しましたね」
「褒めて」
「観測します」
「そこは褒めて」
ガンガは七つの食事記録を見る。
「王なら、同じものを食うと思ってた」
「誰が」とハル。
「俺が」
「ガンガ、王になったら何食べる」
「肉」
「今も食べてる」
「量が増える」
「王位の目的が食費」
「違う。質問が悪い」
ロロが帳面へ書く。
「餌表も七枚。現地で更新。王息草って一括名は残すけど、食べた量、残した部分、食べる時の姿勢を別欄」
「修理図だけでは」とラハナ。
「生き物を繋ぐ設備なら、食事も保守情報だ」
「保守と呼ぶのか」とネム。
ロロは止まる。
「生活情報」
『採用』
「すぐ採点するな」
ハルはルゥの草束を、選定舎から離れた岩陰へ運ぶ。
左肩は固定したまま。
片手で一束ずつ。
「そこへ置く?」
ルゥへ聞く。
若獣は近づかない。
「こっち?」
右へ半歩。
耳が動かない。
「もっと遠く?」
左耳が一度動く。
ハルは五歩下がる。
草を置く。
さらに自分も離れる。
ルゥは、全員が別の方を向いた後で草へ行く。
一口。
噛む。
七脈院の表では、摂食開始。
ハルの目には、誰にも見られず食べるのが好きかもしれない一頭。
どちらも記録する。
どちらも、今は名前へしない。
七頭が食べる間、地面は小さく揺れ続けた。
王が国を養うという言葉は、多くの年代記へある。
その夜、国の側が初めて、王と呼んできた七頭へ何を食べたいか尋ねた。
答えは一つではなかった。
夜。
替皮の亀裂は、止まっていなかった。
ただし、地図へ載るようになった。
白い旧皮。
濃緑の新層。
反り上がる方向。
家屋。
井戸。
避難面。
エリアは全てを一枚へ描かない。
地形図。
生活図。
痛み図。
権限図。
別々に作り、重ねる時だけ重ねる。
ハルは船縁へ座る。
左肩は固定帯。
痛み、三。
走らない。
ノクスは赤い布環の横。
エリアが隣へ来る。
両踵へ冷却布。
歩幅は小さい。
「待ったね」とハル。
「何を」
「ノクス」
「はい」
「間に合わないかと思った」
「はい」
「抱えて出た方が正しかったかもしれない」
「結果だけなら、本人が自分で出ました」
「結果が違ったら」
「その時の情報で、選択を検討します」
「セレナみたい」
「悪口ですか」
「褒めた」
「なら、語尾が軽い」
雲海の向こうで、七つの灯。
七地域の伝羽。
ナアは北の草地へ伏す。
ユルは水の浅い場所へ。
カラはこぼれた種を鼻で寄せる。
セトは吊り根の下で長く止まる。
ミイは薬草のくしゃみを続ける。
ドゥは崖から離れない。
ルゥは王影谷の外、名前のない草地へ座る。
「父さんを待ってた時」とハル。
エリアは急いで答えない。
「待つ以外、何もできなかった」
「今も、思いますか」
「待つのは何もしないことだって」
「今日は、出口を空けました」
「待ちながら、選択肢を置いた」
「はい」
「父さんにも、出口を置けたのかな」
「分かりません」
「そこは、たぶんって言わないんだ」
「あなたのお父様が、どこにいて、何を選べたかを知りません」
「正確」
「ですが」
エリアは地図板を開く。
世界の裏側へ続く空白。
まだ線はない。
「地図へ空白を残すことは、諦めることではありません」
「勝手に道を描かない」
「はい。見つけた時に、訂正できるようにする」
ハルは赤いマフラーの端を触る。
ノクスは自分の赤布へ前脚を置く。
二つは似ている。
同じ意味にはしない。
「エリア」
「はい」
「船まで戻るの、手伝う?」
「もう船上です」
「部屋まで」
「地図板を持って」
「また」
「それが一番助かります」
「成立」
「その語を、そろそろ返してください」
「誰に」
「ミラへ」
「借りた覚えない」
「無断使用」
「引用」
「許可は」
「ない」
「盗み」
二人で笑う。
少し離れた机で、セレナが最後の記録箱を閉じた。
白棚の偽装記録を焼かない。
灰棚の秘密記録だけを正典にもしない。
黄棚の保守記録へ、全ての責任を押しつけない。
三色の封印を別々に残し、箱の外へ新しい札を付ける。
『この記録群には、意図的な偽装、当時正確だった生活情報、後世の追記が混在する。引用時は出典色と年代を示すこと』
「長い札」とハル。
「短くすると、また一色になります」
「誰か剥がしたら」
「七つの写しへ同じ文を送ります」
「全部剥がされたら」
「剥がされた事実を、残った人が記録する」
「終わらない」
「歴史は、終わらせる仕事ではありません」
セレナは封印の日付を書き、自分の名の横へ空欄を一つ残した。
次に訂正する者のための欄。
誰かが間違いを見つけることを、失敗ではなく前提にした。
その時。
大地の外縁から、音がした。
今までで最も長い。
七地域の伝羽が、同時に空を映す。
白い線。
翠獣環の端を、地平線に沿って走る。
一本。
次に、その内側へ平行な二本目。
エリアが立とうとする。
踵が痛む。
「地図板」とハル。
支えるのでなく、彼女が描ける位置へ持つ。
ロロが船室から飛び出す。
「規則的!」
セレナが確認する。
「旧記録の替皮線と形状一致。破壊ではなく、外皮分離の可能性が高い。ただし落下範囲不明」
ガンガとネムが甲板へ来る。
ハダン。
カイル。
ラハナ。
オルダは監督二名の間から、遠くを見る。
誰も王へ祈らない。
誰も、祈る者を止めない。
外縁の白い大地が持ち上がる。
幅は町一つ分。
長さは、視界の端から端まで。
裏側には、濃緑の新しい膜。
白い旧皮は風を受ける。
空域全体が、長年着ていた衣を脱ぐように。
ゆっくり。
音を立てて。
雲海へ向かって剥がれ始める。
ハルは零星針の封印箱へ触れない。
何が起きるか、針に答えを求めない。
七つの心音を聞く。
同じではない。
それぞれの場所で、それぞれの速さで鳴っている。
死んだ王の足跡は、もう生まれない。
代わりに七頭の足跡が、別々の方角へ続いていた。
その上で、大地はひび割れた。
壊れるためか。
育つためか。
今は、まだ誰も決めない。
白い外皮の最初の一枚が、雲海へ落ちた。
濃緑の新しい大地が、夜の下で初めて呼吸した。