第289話 第一章「大地が脱げる」前編
災害には、災害を受ける側の名前が付く。
川があふれれば洪水。
山が崩れれば山崩れ。
火が町へ移れば大火。
川にとっては水位の変化であり、山にとっては重さの移動であり、火にとっては燃える物が続いただけである。自然は自分の行為を災害と呼ばない。
だからといって、自然だから受け入れろという話にもならない。
成長した獣が古い皮を脱ぐ。
獣にとっては生理である。
その皮の上へ家を建て、井戸を掘り、墓を作り、税務所を置き、三百年分の「ここ」を積み上げた者にとっては、国土の消失だった。
後世、翠獣環の歴史家はこの日を、翼獣の皮ごと動く大地替え〈グレート・シェッド〉と書く。
その時点で現場にいた者たちは、そんな整った名を知らない。
夜明け前、ハルは地面へ耳を付けて起きた。
自分から付けたのではない。
寝袋ごと、地面が耳へ来た。
白い旧皮が一度ゆるく持ち上がり、次に沈み、彼の右頬をぺたりと叩いたのである。
「起き方が土地任せ」とエリア。
すでに外套を着ていた。
白い日傘は閉じたまま。右踵一。左踵一。呼吸一。
「土地じゃないらしい」とハル。
「昨日、あなたが言いました。王獣の古い外皮」
「地面だと思って寝た」
「認識更新が睡眠に負けたのね」
「寝具へ歴史を要求しないで」
仮営地は、死王谷を出たばかりの旧祭路に置かれていた。
前夜まで、ここは一頭の巨大な王獣の背だと考えられていた。
その下から七つの心拍が見つかり、死んだ王の身体の中で育てられていた七頭の若い国土獣が解放された。
王獣の死。
国家的偽装。
七頭の存在。
一晩で受け取るには多すぎる事実だった。
それでも朝になると、人は湯を沸かす。
ロロが携帯炉へ鍋を置き、乾燥根菜を放り込んだ。
「七人分!」
「六人と一匹」とカイル。
「ノクスを一匹で数えるな。あいつは俺より食う」
ノクスは鍋の横へ、ゆで卵を七個並べていた。
右の尾で一つ。
左の尾で一つ。
前脚で二つ。
七つを確認すると、必ず一つを列から外す。
「また」とハル。
「古代竜の宇宙的規則かもしれん」とロロ。
「朝食の好みです」とセレナ。
「証拠は」
「外した一個を毎回自分で食べます」
「強い証拠」
ノクスは殻ごと噛み、咳き込み、殻だけ吐いた。
「学習は」とエリア。
「選択的」とセレナ。
その時、鍋の湯面が七方向へ小さく割れた。
波紋は同心円ではない。
北へ重い一筋。
西へ遅い揺れ。
赤土側へ二つ続けて。
樹冠側には長い間。
東へ細かく。
南へ跳ねる。
最後に、若草側へ遅れて一つ。
ガンガが裸足を白い地面へ置く。
「七頭が、体重を移してる」
「歩く?」とハル。
「まだ。起きた」
「国土の起床時間」
「寝返りかもしれん」とハダン。
老女は塩を七粒、掌へ並べている。
「脱皮暦なら、今年はまだ二十日先だ」
「王獣が一頭なら」とネムが小板へ書く。
「七頭へ分かれたから早まった?」
『分からない』
ネムの返答は短い。
分からないことを、神託の形へ整えない。
エリアは旧皮のひびへ細い測量針を刺した。
昨日見た二本の白線。
夜のうちに、幅が三倍になっている。
「裂け目の縁が乾いていません」と彼女。「壊れて開いたのではなく、内側から押し分けられています」
「新しい地面が出る」とハル。
「新しい皮です」
「その上へ町を移せば」
「今は柔らかい。荷重を載せる時期が分からない」
「古い方を留めれば」
守備隊の槌音が、遠くで鳴った。
答えを待たず、誰かはすでに同じことを考えていた。
旧皮を杭で留める。
地面が崩れるなら、固定する。
何百年も人が災害へしてきた、正しい反応である。
ただし今回は、固定される側が地面ではなく、育っている身体だった。
最初の悲鳴が町側から上がる。
鍋が傾く。
根菜が一つ、空へ跳ぶ。
ノクスが食べる。
ハルは寝袋へ片足を残したまま走り出し、三歩目で転び、寝袋を蹴り捨てた。
「準備!」とエリア。
「起きてた!」
「身体が!」
「今、起きた!」
白い地面が、街路の向こうで立ち上がる。
「脱げる!」
凪野ハルは、ほとんど悲鳴のように言った。
「見れば分かる!」
ロロ・ピクスの返事も、ほとんど悲鳴だった。
「分かることを声に出すのが報告!」
「お前は感想を報告に混ぜる!」
「大地が脱げる、どこが感想!」
「大地って主語がでかい!」
「今はでかい方が合ってる!」
白い外皮が、町の端から立ち上がっていた。
幅は街路三本分。
長さは夜の向こうまで。
石造りの二階家、乾燥棚、井戸の上屋、石像の台座。それらを載せたまま、古い地面が湿った布のようにめくれ、風を受けて空へ立つ。
裏側には濃緑の新しい膜。
柔らかく、温かく、呼吸するたび波打っている。
その上へ、石の家が滑り始めた。
「下がって!」
エリア・ルーンベルグの白い日傘が、細身の地図槍グリムリリーへ変わる。
石突きが地面を打つ。
光の線が、白い旧皮の上へ三本走った。
「青線の内側! 建物の進行方向へ背を向けない! 子どもを抱いている人は、抱えたまま跳ばない!」
「道、どこまで持つ!」とハル。
「測った範囲で百二十歩。旧皮が四度以上傾けば消える!」
「四度って体感で!」
「食卓の豆が転がり始める程度!」
「分かりやすい!」
「あなた向けに落としました!」
「知性を落とされた!」
会話している間にも、豆どころか石臼が転がった。
ハルは走る。
左肩、二。
昨夜より一つ上がった。固定帯は外していない。腕を頭より上へ出さなければ走れる。
赤いマフラーが風へ伸びる。
旧皮の傾斜を横切り、薬種屋の軒へ飛びつく。右手。右足。左足。左腕は梁へ掛けない。
「中、何人!」
「三人!」
「店主と、孫と、寝台の人!」
「薬箱も!」
「人から!」
「薬がなければ、寝台の人が死ぬ!」
「じゃ薬箱一つ! 何個ある!」
「七!」
「一つ!」
「どれ!」
「寝台の人に今使ってるやつ!」
全てを救うと言わない。
全てを捨てろとも言わない。
一つを選ぶために、何を守るかを聞く。
店主が赤い箱を投げた。
ハルは受け取る。
重い。
「薬じゃなく石入ってない?」
「瓶だ!」
「瓶が七割!」
「薬は瓶へ入れる!」
「正論が重い!」
寝台は木枠ごと外す。
ロロの四本の補助腕が窓へ伸びた。
「脚を畳む! 留め具、右二、左一!」
「左右で数が違う!」
「前の修理工へ言え!」
「お前じゃないの!」
「俺なら揃える!」
「揃ってれば正しい?」
「今その話すんな!」
ロロの左手が工具を回す。
壊れた機械の動きを戻す術〈リメイク〉は使わない。
寝台は壊れていない。
急いで外す必要があるだけだ。
術を使えば速い。
速い代わりに、何を本来の動作と見なしたかが残る。
人を運ぶ道具を、勝手に「運び出されるための物」へ作り替えない。
「外れた!」
寝台を窓から滑らせる。
カイル・アークレイが下で受けた。
「王太子の新しい公務、寝台受け!」
「履歴書へ書く?」とハル。
「公式には王国間医療協力!」
「長い!」
「王族は行為を長く書いて偉く見せる!」
「自分で言うな!」
カイルは右腕の盾籠手を使わず、左肩へ寝台を担ぐ。
本来の利き腕。
礼法で矯正された右ではなく、私的な動作へ戻りやすい左。
寝台の老女が、王太子の赤金の髪を掴んだ。
「落としたら呪うよ」
「生きてる間に叱ってくれ」
「王子かい」
「今は脚」
「細い」
「国へ帰ったら増税で鍛える」
「呪う」
「もう叱られた!」
寝台を青線へ運ぶ。
その背後で、薬種屋の壁が旧皮の傾きへ耐えきれず、ゆっくり外へ倒れた。
誰も下にいない。
薬箱は六つ残った。
店主は振り返る。
ハルは「仕方ない」と言わない。
「赤箱はある」
「他は」
「残った」
「分かってるよ」
「名前と中身、後で記録する」
「記録したら戻るか」
「戻らない」
「じゃ何になる」
「失ったって言える」
店主は返事をしなかった。
沈黙を納得へ変えない。
セレナ・クロウが黒い証羽へ、薬箱六、倒壊一、人員三救出と記す。
その横へ、未確認の欄を残した。