第290話 第一章「大地が脱げる」後編
白い旧皮へ、長い鉄杭が打ち込まれた。
一本。
二本。
三本。
王影谷の守備隊が、地面を新しい緑の膜へ縫い付けようとしている。
槌が落ちるたび、地面の遠くで七つの低い音が鳴った。
「止めろ!」
ガンガ・オルバの声が、槌より遠くへ届く。
大柄な身体が、白い外皮の斜面を裸足で下りてくる。濃緑の髪。額の白い一本角。背には巨大な鐘棍ドゥルガ。
守備隊長が振り向く。
「古皮が浮けば町が落ちる!」
「杭は下へ届いてる!」
「届かせている!」
「新しい皮へ刺さってる!」
「地面を留める杭だ!」
「地面じゃない。身体だ!」
言葉がぶつかる。
どちらも人を救おうとしている。
守備隊は町が滑るのを見た。
獣守は杭の下で七頭の拍が跳ねるのを聞いた。
見る場所が違えば、正しい行動が敵になる。
ガンガは胸を二度叩こうとした。
一度で止める。
昨夜、七頭へ触れた逆同調の後、心拍の乱れが残っている。
自分の強い拍を、また周囲へ流さない。
「杭を抜け」とガンガ。
「代案は!」
「町を動かす!」
「どこへ!」
ガンガは答えない。
答えがまだない。
守備隊長はそこを突く。
「行き先もないのに、地面を手放せと?」
「刺したままなら、下の獣が皮を破って動く!」
「動かなければよい!」
「育つなと言うのか!」
「今夜だけだ!」
「身体へ打った杭は、今夜で抜けるのか!」
ハダンが三叉杖で地面を打つ。
声を地面の震動へ変える一命令。
『槌を止めろ』
短い一文だけが、足裏から守備隊全員へ届いた。
槌が止まる。
命令を聞いたからだ。
納得したからではない。
ハダンは右膝を伸ばし、息を吐く。
「三十呼吸だけ止める。抜くか続けるか、その間に下を測れ」
「決定は」と守備隊長。
「三十呼吸後だ」
「誰が」
「今から決める」
「遅い!」
「だから期限を言った!」
即断を信じてきた老女は、即断を捨てていない。
ただし、自分一人の声を永遠の命令へしない。
ネム・オルバが杭の間へしゃがむ。
耳の周りへ薄い骨板。
青灰の短衣。
喉には湿布布。
心拍珠を七つ置く。
異なる心拍を混ぜず光へ分ける譜〈セパレート・ビート〉を、杭の根元へ細く流す。
七色の線が出た。
一本目の杭は黄と青。
二本目は緑。
三本目は赤と白。
どの杭も、同じ一頭へ刺さっていない。
「七頭の間の膜へ通ってる」とロロ。
測定針を当てる。
「古皮を新皮へ留めてるんじゃねえ。七つの新しい背を、古い一枚で縫い合わせてる」
「抜いたら一気に裂ける?」とハル。
「可能性ある」
「残したら」
「動く七頭を互いに引っ張る」
「どっちも悪い」
「災害ってのは、正解の部品を棚から取る仕事じゃねえ!」
「棚ごと落ちてる」
「比喩を現実に寄せるな!」
エリアが地図板へ、杭、亀裂、建物、緑の膜の隆起を重ねる。
「一度に全部抜かない。外縁から一本ずつ。旧皮側へ仮索を取り、建物荷重を別へ逃がす」
「別って」と守備隊長。
「ゼロスター号、守備隊の浮艇、祭務の気嚢。使える浮力を一覧へ」
「町を船へ吊るす気か」
「町全部ではありません。杭一本が受けている分だけ」
「何本」
ロロが補助腕を上げる。
「今見えてるだけで百四十七!」
「三十呼吸で終わらん」とハダン。
「決めるのは開始手順だ」とネムが掠れ声で言う。
喉へ痛み。
すぐ小板へ替える。
『全体の完了を待って決定するな』
守備隊長は七色の光を見る。
剣の柄から手を離す。
「外縁から抜く。再打ち込みは、七脈院と現場隊の二者確認まで禁止」
「記録します」とセレナ。
「命令者、私」
「氏名を」
「今?」
「後から地面が落ちた時、誰も命じていないことにしないためです」
守備隊長は名を言った。
セレナは記録した。
英雄の名ではない。
責任の名だった。
最初の杭を抜く。
仮索はゼロスター号の船腹へ。
ロロが操舵輪を握る。
「片帆で百四十七本は無理だからな!」
「一度に一つ」とハル。
「お前が言うと反省文に聞こえる!」
「成長の確認」
「自称すんな!」
カイルと守備兵が索を引く。
エリアの光路が、旧皮の滑る方向を示す。
杭が上がる。
白い皮が半リュム浮いた。
下の濃緑が膨らむ。
生体の痛みを示す響花〈エコー・ブルーム〉は閉じない。
代わりに、七方向へ花弁を開いた。
ネムの心拍珠も、別々に転がる。
「動く」とガンガ。
「どれが」とハル。
「全部」
「同じ方?」
「違う」
ガンガは裸足を地面へ置く。
北から、重い一拍。
西から、水を含んだ遅い一拍。
赤土台から、二度続く拍。
樹冠区から、長い休みを持つ拍。
東塩盆から、乾いた速い拍。
南断崖から、短く跳ねる拍。
タル谷から、遅れて追いつく七番目。
ナア。
ユル。
カラ。
セト。
ミイ。
ドゥ。
ルゥ。
七頭の、国土を背負う巨大翼獣〈ランド・ビースト〉。
昨夜まで一頭の死王の器官として扱われていた生き物たちが、自分の脚へ体重を戻していた。
白い旧皮の下で、七つの背が持ち上がる。
町の広場が北へ傾く。
塩倉が東へ。
吊橋の基部が上へ。
港の古い桟橋が南へ。
地面が一つなら、これは崩壊だった。
地面が七頭なら、進路の違いだった。
「外皮の分離線」とエリア。
昨夜見た白い二本線が、七方向へ枝分かれしている。
「成長記録と一致します。古皮は一枚のまま脱げない。七頭の背に沿って裂け、風へ逃がす」
「止めたら」とハル。
「成長圧が内部へ戻る。どこで破れるか予測不能」
「止めない」
「止めないことと、落ちるままにすることは違います」
「動く中で運ぶ」
「はい」
ハルは赤いマフラーを結び直す。
「配達だ」
「国土規模です」とセレナ。
「宛先七つ」
「差出人は」
「自分で決める」
「荷物は」とロロ。
「町」
「修理代を誰に請求すりゃいいんだよ!」
「七地域で割る?」
「均等に割ったらまた揉める!」
「じゃ後で」
「その『後で』が一番高い!」
笑いは一拍だけだった。
杭を一本抜くごとに、町の形が少し変わった。
二本目では、酒場の看板が斜めになる。
三本目では、共同井戸の水位が半リュム上がる。
四本目では、粉屋の石臼が旧皮側へ滑り、守備兵三人が索で止める。
五本目の前で、作業が止まった。
「下に人!」
杭の影、旧皮と新層の間へ、少年が挟まっている。
歳は十二ほど。
片腕へ、布で包んだ壺。
「何で入った!」と守備隊長。
「酵母!」
「人から運べと言った!」
「これ、生きてる!」
壺の中では、村のパン種が発酵している。
三百年、同じ家々で継がれてきた酸味。
家が落ちても、粉と水があれば、明日のパンを同じ匂いへできる。
「壺を置け」と隊長。
「置いたら旧皮へ落ちる!」
「腕が抜けない!」
新層が呼吸するたび、隙間が狭くなる。
ハルは腹ばいになる。
「名前!」
「リオ!」
「腕、痛み!」
「四!」
「壺は」
「大事!」
「数で!」
「五!」
「腕より上!」
「壺は痛くない!」
「じゃ大事さで聞いた!」
言葉の単位がぶつかる。
エリアが旧皮のたわみを測る。
「次の呼吸で隙間が二十セン開く。七拍後に閉じます」
「杭は」
「今抜けば、旧皮が上へ跳ねる」
「利用できる?」
「危険です」
「できるか」
「二本の仮索を同時に緩め、杭を半分だけ抜けば、少年側へ五セン」
「五センで腕」
「壺は通らない」
リオの顔が歪む。
「壺を割るな!」
「割らない」とハル。
「どうやって」
「中身を移す」
「何へ!」
薬種屋の老女が、救出された寝台から赤い箱を開く。
空いた薬瓶。
「瓶が七割だと言ったね」
「今は頼もしい七割!」
「口を動かす暇に洗いな」
湯はない。
消毒用の高濃度酒。
酒場の店主が瓶へ注ぐ。
「酵母が死ぬ!」とリオ。
「乾かす!」と老女。「酒を残すんじゃないよ!」
ロロの補助腕が細い管を隙間へ入れる。
「壺を開けられる?」
「右手は動く!」
「蓋を半回転。全部開けるな。ガス抜ける!」
「酵母に詳しい?」
「機関室にも発酵燃料がある!」
「パンと船が親戚!」とハル。
「黙って瓶持て!」
壺から、白い泡種を少しずつ吸う。
一本。
二本。
三本。
全量ではない。
壺へ残る。
「全部!」とリオ。
「全部を待ったら腕が潰れる!」と老女。
「でも」
「三瓶あれば育て直せる。味は少し変わる」
「同じじゃない」
「生き残るってのは、同じままって意味じゃない」
老女の声は優しくない。
だから嘘がない。
次の呼吸。
仮索を緩める。
杭を半分。
隙間が開く。
「今!」
ハルが少年の右手を掴む。
左腕は使わない。
守備隊長がハルの腰帯を引く。
リオの腕が抜ける。
壺は旧皮の隙間へ落ちる。
割れる音はしない。
見えなくなる。
リオは泣かない。
三本の瓶を胸へ押し付ける。
「同じパンになる?」
老女は答える。
「育てる人次第だ」
セレナが記録する。
救出一。
右腕圧迫、医療へ。
パン種三瓶回収。
原壺、所在不明。
生活の損失を、救命の欄へ混ぜない。
杭は百四十七本あった。
全てをゼロスター号で支えることはできない。
守備隊の浮艇。
祭務の気嚢。
空になった穀物袋へ熱風を入れた即席浮き袋。
セトの吊り根から借りた風膜。
使える浮力を、エリアが一枚の表へ並べる。
「均等に一本ずつ」と書記。
「均等では落ちます」とエリア。「杭ごとの荷重が違う」
「公平性は」
「同じ数を割り当てることではありません」
薬種屋の区画は、患者と瓶で重い。
広場は石像で重い。
空き倉は軽い。
「石像を先に外せ」と隊長。
祭司が反発する。
「王の像だ!」
「王は昨日、死んでいたと分かった!」
「だからこそ」
ガンガが鐘棍を石像の前へ置く。
「像を守るか、下の七頭を守るか、同じ言葉にするな」
「像は民の記憶だ」
「記憶は重い。だから重さを量る」
ロロが秤索を掛ける。
「三百八十キル」
「浮き袋二つ」とエリア。
「患者区画一つ分」と老女。
祭司は像を見上げる。
「壊すな」
「壊さない」とハル。
「どこへ」
「旧皮の平らな所。後で行き先を決める」
「戻す保証は」
「ない」
祭司は目を閉じる。
「なら、王の顔を下へ向けるな」
「条件、了解」
像を横にし、顔を空へ向ける。
浮き袋二つが患者区画へ回る。
杭を抜く。
新層が膨らむ。
石像は白い旧皮の上へ残り、少しずつ遠ざかる。
後に回収されるかもしれない。
雲海へ落ちるかもしれない。
今は、患者の寝台が一つ多く支えられる。
百四十七本目まで、誰も一つの命令だけでは動かなかった。
杭を抜く者。
索を緩める者。
新層の痛みを測る者。
建物から人を出す者。
失った物を記録する者。
次の杭へ行かず休む者。
作業の途中で、守備隊長は三度命令を撤回した。
一度目は、井戸を先に切り離そうとして水路を見落とした。
二度目は、石像を捨てると叫び、祭司の条件を聞かなかった。
三度目は、全員へ走れと言い、寝台搬送者を転ばせかけた。
撤回のたび、声は小さくなった。
小さくなっても、指揮は消えなかった。
最後の杭が抜ける。
白い旧皮は、新しい七つの背から離れた。
町は、まだそこにある。
同じ「そこ」ではない。
七頭が、歩き始めた。
ナアは北へ。
ユルは西の湿った雲へ。
カラは赤い新地表へ。
セトは樹冠を高い風へ。
ミイは乾いた東へ。
ドゥは南断崖を外側へ。
ルゥは、遅れて、誰も名前を付けていない草地へ。
七つの方向。
一つの国が、七つに壊れたのではない。
少なくとも、その瞬間には。
七つの生き物が、初めて別々に歩いた。
その上へ載った人間の国が、まだ一つのままでいようとしていた。