第296話 第四章「自分で選ぶ行き先」後編

 全員の完全合意を待つ時間はない。

 旧皮の分離予測、二刻。

 セトが足を上げたまま耐えられる時間、ネムの観測で一刻半。

 吊根村の全住民が広場へ来るには、最短でも一刻。

「来ていない者をどうする」とハダン。

「沈黙を賛成に数えない」とガンガ。

「では決められん」

「待つ」

「待てば皮が落ちる」

 ガンガは黙る。

 全員を聞く。

 全員が同時に納得する。

 二つを混ぜている。

 ネムは地面へ白い円を七つ描く。

 避難先ごとの円。

 さらに、中央へ灰色の円。

 保留。

 そして、円の外へ細い道を一本。

 後から異議を申し立てる道。

「何だ」とハダン。

 ネムは小板へ大きく書く。

『今決める範囲

 ・最初の移動先

 ・誰と行くか

 ・持てる物

 今決めない範囲

 ・永久の所属

 ・土地の所有

 ・墓樹の最終位置

 ・王位』

「最初だけ決める」とガンガ。

 ネムは頷く。

『期限までに円へ入った者は、その路を選ぶ。

 入らない者は賛成に数えない。

 保留円へ入れる。

 保留者のため、最後の接続路を一つ残す。

 出発後も、交差点までなら変更できる。

 交差点を越えた後の変更は、次の安全地で申請』

「申請という言葉が都市だ」と老女。

 ネムは消す。

『伝える』

「誰へ」

『各路の聞き手』

「聞き手は誰が決める」

 また空欄。

 ネムは七つの円の横へ、聞き手を選ぶ小さな円を作る。

「円が増える」とハル。

『決めることを減らすため』

「増やして減らす」

『道も同じ』

 エリアが聞けば、たぶん喜ぶ。

 本人へ聞かず、答えにはしない。

「期限」とハダン。

 ネムは胸太鼓へ百拍を置く。

 百呼吸では長い。

 今は、七十拍。

 発言しない者の反対余地〈サイレント・ビート〉

 誰も話さない時間ではない。

 話す者は話してよい。

 ただし、最後の七拍だけは全員が声を止める。

 拍手も号令も勧誘も止める。

 自分の足で円へ入る。

「七拍で人生を決めろと」と男。

 ネムは首を横へ。

『七十拍で聞く。最後の七拍で、他人の声を止める』

「入らなければ」

『保留』

「保留のまま皮が落ちたら」

『最後の接続路へ。行き先は、安全条件の残る中から本人が選ぶ』

「選べない者は」

『介助を選ぶ。介助者は代わりに行き先を決めない』

「子どもは」

 広場の子どもが先に言う。

「お母さんと行く。でも、お母さんが墓の方なら、ぼくは鹿の方」

 母親が振り向く。

「一人で?」

「鹿守の姉ちゃんと」

 鹿守が驚く。

「私?」

「だめ?」

「だめじゃない。聞いてない」

「今、聞いた」

 大人の制度より先に、関係が一つできる。

 母親は泣きそうな顔をする。

「同じ場所へ行かないの」

「後で会う」

「保証は」

 子どもはネムを見る。

 ネムは首を横へ。

「ないって」

「怖くないの」

「怖い。お母さんも墓置いていくの怖いでしょ」

 母親は答えない。

 その沈黙を、子どもは賛成にしない。

「まだ聞く?」

 母親は頷く。

 七十拍。

 住民は質問する。

 上層吊り森で家を建てられるか。

 不明。

 中央宮殿の船は墓樹の枝を持ち込めるか。

 一本あたりの長さ制限あり。

 風膜鹿はどの路か。

 自分で上層へ移動を始めている。人の所有物として数えず、繁殖路を空ける。

 病人は。

 北岩棚か中央船の医療区画。ただし本人が湿度を選べる。

 セトと離れた者は樹冠区民でなくなるか。

 今は決めない。

 税は。

 今は決めない。

 祭務は。

 今は決めない。

「今決めないばかりだ!」

 ハダンが杖を鳴らす。

「だから、今決めるものが見える!」

 即断を重んじる彼女が、ネムの手順を守る。

 全てを今決める会議は、何も決められない。

 避難先だけへ範囲を狭める。

 最後の七拍。

 ネムが耳栓を外す。

 静かではない。

 旧皮の裂ける音。

 セトの心臓。

 風膜鹿の蹄。

 泣く子。

 息を止める大人。

 人の声だけが止まる。

 一拍。

 最初の老女が、中央船の円へ入る。

「墓樹の枝を持つ。樹は置く」

 二拍。

 鹿守と子どもが、上層吊り森へ。

 三拍。

 母親は動かない。

 四拍。

 母親が保留円へ。

 五拍。

 若い男たちが上層へ。

 病人二人が北岩棚へ。

 六拍。

 祭司三人が中央へ。

 一人は円の外。

 七拍。

 声が戻る。

 結果。

 上層吊り森、六十八。

 中央宮殿船、三十一。

 北岩棚、九。

 保留、十九。

 円外、五。

「村が割れた」と誰か。

 ネムは書く。

『答えが見えた』

「一つじゃない!」

『最初から』

 ガンガは七つの人数を見る。

「セトを出すには、どの拍を」

 ネムは上層吊り森を選んだ者へ太鼓を渡す。

『自分たちの足』

 六十八人が、慣れた出発拍を打つ。

 同じ強さではない。

 子どもは速い。

 老人は遅い。

 鹿守は踵を二度。

 セトは、長い間を置く。

 前脚を下ろす。

 上層吊り森へ、一歩。

 中央を選んだ三十一人は、セトから離れる索路へ向かう。

 北へ九人。

 保留十九人のため、最後の橋を残す。

 吊根村は、二つどころか四つへ分かれた。

 それでも、誰も「残ったから賛成」と数えられなかった。

 円へ入った後に、暮らしが分かれた。

 選択は足を一歩動かせば終わるものではない。

 同じ家の四人が、上層吊り森、中央船、北岩棚、保留へ一人ずつ入っている。

 家は一つ。

 鍋は二つ。

 寝具は三組。

 祖母の骨を巻いた墓樹は一本。

「鍋、大きい方は中央」と母。

「船に共同炊事場がある」と娘。

「なら吊り森へ」

「根橋を運ぶ方が重い」と父。

「北は寒い」と祖父。

「鍋を四つへ割る?」とハル。

「料理が漏れる」とガンガ。

「比喩」

「現実も」

 ネムは床へ、物の札を置く。

 鍋大。

 鍋小。

 毛布三。

 墓樹の枝。

 発酵壺。

 刃物。

 種。

 家族名を付けない。

 行き先の円へ、持ちたい人が自分で札を動かす。

 鍋大へ、吊り森と北岩棚の手が同時に来る。

 母と祖父。

「祖父さんは煮込みしか食べない」と母。

「お前は焼けばいい」

「吊り森で火が使える時間、短い」

「北は共同鍋がある」

「誰が言った」

 北行きの聞き手へ問う。

『患者用の小鍋。一般用は未定』

 祖父は鍋から手を離す。

「小さい方で足りる」

「無理だ」と父。

「食べる量を減らす」

「それを選択と呼ぶな」と母。「物が足りないから減るだけ」

 言葉が刺さる。

 祖父は怒る。

「では私を中央船へ入れろ!」

「行き先を鍋で変えるの?」

「鍋で生きてきた!」

 人の行動原理は、王位や信仰だけではない。

 毎朝、自分の手へ合う取っ手。

 亡妻が焦がした底。

 冬に何人分の粥を作れるか。

 鍋は荷物であり、生活の記憶であり、食べる能力でもある。

 ネムは鍋を取り上げない。

 空拍を七つ置く。

 誰も説得しない時間。

 祖父が言う。

「鍋大は吊り森へ。小は北。私は、北の共同炊事を手伝う。足りないなら作る側へ入る」

「作れるの」とハル。

「五十年、家族へ作った」

「聞き手へ登録」とネム。

 北路の役割札へ、炊事一。

 物の不足が、人の役割を生む。

 美談にしすぎない。

 祖父は鍋大を手放した顔をしている。

 墓樹は、もっと難しかった。

 根へ巻かれた骨片を外せば、祖先の位置が変わる。

 樹ごと運べば、吊り根を傷める。

「枝を一本ずつ」と鹿守。

「骨片は」と老女。

「本人の家が選ぶ」

「死者へ聞けない」

「生きてる時の言葉は」

「ここを離れん、と」

「ここが皮だと知っていた?」

「知らん」

 知らなかった条件の約束を、どう守るか。

 ネムは答えを出さない。

『今決めるのは、落下前の扱い。永久の墓地ではない』

 骨片を、行き先ごとへ分ける案。

 反対。

 樹の枝を持ち、骨片は旧皮へ残す案。

 反対。

 根元の土と骨片を一つの籠へ入れ、保留路で運ぶ案。

 十二家が賛成。

 七家が反対。

「全員同じ墓樹」と祭司。

「だから一つへする?」とガンガ。

「分ければ冒涜だ」

「一つの籠へ入れるのも、別の場所へ動かす」

「では残す」

「皮が落ちる」

 言葉が円を回る。

 ハダンが杖の泥を落とす。

「時間だ」

 ネムは発言しない者の七拍を置く。

 最後に、家ごとではなく、骨片ごとに小さな布袋へ分ける。

 袋は一つの籠へ集める。

 今は同じ保留路を通る。

 安全地へ着いた後、各家がどの場所へ置くか決め直せる。

「死者を荷札にした」と老女。

 怒っている。

『仮』

「仮で死者が生き返るか」

『仮だから、後で変えられる』

 老女は納得しない。

 それでも自分の夫の袋を、自分で籠へ置く。

 決定の正しさと、決定した人の悲しさは別に残る。

 保留の十九人にも仕事がある。

 橋を最後まで残す者。

 どの路へも属さない荷を数える者。

 行き先を変えた者の結びを付け替える者。

「保留は何もしない場所じゃない」とハル。

 ネムが頷く。

『決めていない範囲を守る』

「難しい仕事」

『だから人数が要る』

 村は割れた。

 同時に、離れた後も会うための仕事が生まれた。

 最初の別れは、英雄的な旗ではなく、鍋の焦げ、墓袋の結び、発酵壺の取り分から始まった。

 セトの背が動く。

 旧皮がまた一枚、雲海へ滑り出す。

 村は一つの行き先を選ばなかった。

 自分で選んだ複数の行き先へ、同時に歩き始めた。