第295話 第四章「自分で選ぶ行き先」前編
沈黙には、意味がない。
正確には、沈黙だけから意味を一つに決められない。
賛成している。
反対している。
怖くて言えない。
言葉を探している。
聞こえなかった。
喉が痛い。
誰かが先に言うのを待っている。
答える権利そのものを拒んでいる。
権力は、沈黙を好む。
好きな意味を後から入れられる空欄だからである。
群衆の拍手は賛成として数え、拍手しなかった者は反対として数えず、会議を欠席した者は同意したことにする。
ネム・オルバは、声を失いかけたことで、沈黙が神秘ではなく身体でもあると知った。
喉が痛い日は、思想まで静かになるわけではない。
ネムの朝は、目より耳から始まる。
遠い地面の二度打ち。
寝台の車輪。
水を沸かす鍋蓋。
誰かが泣くのを隠して鼻から吸った短い息。
聞こえることは、知る権利ではない。
彼は聞こえたものを全部、意味へしない。
仮営地の端で、耳栓を四組並べる。
青――会議。
灰――災害音。
薄緑――幼獣の近く。
黒――完全遮音に近い休養。
黒を手へ取り、戻す。
休むべきだと分かっている。
今、休めば兄が代わりに話すとも分かっている。
「黒」とガンガが言う。
ネムは見上げる。
「頭痛、昨日三。今日は」
指を二本。
「橋の向こうで四になる」
ネムは小板へ書く。
『予知術を得た?』
「足音で分かる」
『まだ歩いてない』
「お前は無理する時、右足から立つ」
ネムは自分の足を見る。
右から立っている。
『観測は正しい。結論は違う』
「黒を使え」
『命令?』
ガンガが止まる。
「提案」
『理由』
「今日、お前が倒れたら、沈黙を代弁する者がいない」
『倒れないため、灰。黒は会議を聞けない』
「俺が説明を」
『代弁』
「説明だけ」
『結論が先』
「直す」
『練習は後』
ガンガは不満そうに、しかし手を引く。
ネムは灰色の耳栓を選ぶ。
黒を選ばないことが正しいとは限らない。
自分で選んだというだけだ。
その選択の結果、頭痛が四になれば、次は黒を使う責任も自分にある。
朝食の発酵根菜を、ガンガは大皿へ置かなかった。
最初から小皿へ分ける。
体格の大きい自分へ多く。
ネムへ少なく。
ハダンへ塩を別。
ハルへ、走る分を多く。
「均等じゃない」とハル。
「必要量」
「俺、ガンガの半分」
「身体が半分に近い」
「百九十対百六十四。半分じゃない」
「動く量」
「俺の方が走る」
「だから根菜を足した」
「最初から計算済み」
「体格で全部決めたと思ったか」
「顔が」
「顔を証拠にするな」
ネムは自分の皿から一片をハルへ移す。
「食べない?」
小板。
『喉へ酸味』
「ガンガ、必要量」
「本人の申告が後から来た。直す」
大柄な王候補が、配った皿をもう一度組み替える。
最初の公平を守るため、本人の体調を無視しない。
小さな朝食でできないことを、国土規模の避難ではもっとできない。
樹冠区へ向かう吊橋は、橋ではなく振り子になっていた。
片側の支柱が白い旧皮へ残り、もう片側はセトの濃緑の新層へ付いている。旧皮が持ち上がるたび橋は空へ引かれ、新層が沈むたび落ちる。
上。
下。
斜め。
同じ場所へ戻らない。
ネムは橋の入口で耳栓を青から灰へ替えた。
青は会議。
灰は災害音。
吊り索の軋み。
住民の叫び。
セトの胸拍。
遠くで剥がれる旧皮の低音。
全部を同じ大きさで聞けば、頭の内側が割れる。
「音、いくつ」とハル。
ネムは指を三本。
「頭」
二本。
「喉」
二本。
「橋」
ネムは小板へ書く。
『橋に痛みは聞けない』
「ロロなら聞く」
『ロロへ聞け』
「今いない」
『なら、分からない』
「正しいけど冷たい」
『板は温度を持たない』
ハルが笑う。
ネムも口元だけ動かす。
小声の冗談は好きだ。
大声の笑いは、耳の奥へ針になる。
橋の向こうでは、ガンガとハダンが待っている。
ガンガはネムを先導者にしようとした。
『ネムが話す』
そう伝羽へ送った。
ネムは即座に訂正した。
『話さない。手順を出す』
ガンガは一拍置き、送り直した。
『ネムが手順を出す。話す者は各自』
少し学んだ。
すぐ正しくなるほど、兄は器用ではない。
ネムも、すぐ許せるほど静かではない。
「橋、次の下がりで渡る」とハル。
ネムは首を振る。
「違う?」
床へ指先を二度。
セトの拍。
長い。
休み。
短い。
橋は下がった後、セトが次の一歩を出すと右へ跳ねる。
ネムは三つの心拍珠を裏返す。
一――橋が下がる。
二――セトがためる。
空白――まだ。
三――足が着く。
「空白で渡る?」
頷く。
「何も起きない時」
首を横へ。
『起きないと決めている時間』
「違い」
『待つのも行動』
ハルは左肩の固定帯を確認する。
「じゃ、空白で」
橋が下がる。
一。
セトの胸が膨らむ。
二。
住民が「今だ」と叫ぶ。
ハルは走らない。
空白。
橋が最も静かになる。
二人は渡る。
中ほどで、古い根が一本切れた。
橋が落ちる。
ハルの右手が索を掴む。
ネムの左手がハルの鞄帯を掴む。
「肩二!」
先に申告する。
ネムは太鼓を一度。
向こう岸のガンガが鐘棍を横へ出す。
ハルが掴む。
ネムは掴まない。
自分の細い太鼓を橋索へ通し、体重を分散する。
「持つ」とガンガ。
手を伸ばす。
ネムは首を横へ。
「落ちる!」
首を横へ。
「意地を張るな!」
ネムは小板を出せない。
代わりに、ハルが言う。
「持たれたくないんじゃなく、今は索で行ける!」
「なぜお前が」
「見た!」
「代弁するな!」
「じゃ聞け!」
ガンガが止まる。
「ネム。手が要るか」
ネムは一拍考える。
右手だけを差し出す。
ガンガは右手を掴む。
身体を抱えない。
ネムは自分の足で岸へ上がる。
助けを受ける形も、本人が選べる。
「遅い」とハダン。
杖で泥を落としている。
「だが落ちなかった」
ネムは小板へ書く。
『遅い間に、橋の切れ方を見た』
「見た結果」
『帰りは使わない』
「それを先に言え」
『今、分かった』
「若い者は、分からんことを分からんと言うのに時間を使う」
『年長者は、分からんまま決めるのが速い』
ハダンが短く笑う。
「その口で喉が痛いのは惜しい」
『文字なら長い』
「知っている。読む方の膝が痛い」
樹冠区の吊根村には、地面が三つあった。
セトの新しい背。
剥がれかけた白い旧皮。
その二つの間へ吊られた、根と板の生活層。
家は根へ結ばれている。
市場は三本の橋を渡る。
墓は土へ埋めず、祖先が植えた樹の根へ骨片を巻く。
村を移すとは、家だけを運ぶことではない。
死者の位置、獣の繁殖路、朝に最初の光が当たる食卓、子どもが落ちずに学校へ行ける橋を、どこへ置き直すかという話だった。
広場へ百三十二人。
残りは家、風膜鹿の囲い、避難作業。
大声が先に来る。
「上層の吊り森へ行く!」
「外部群の狩場だ!」
「中央宮殿なら船がある!」
「王を生かしたふりをした宮殿へ戻るか!」
「嘘と船の浮力は別だ!」
「墓樹を置いていけと言うのか!」
「生者が落ちれば墓が増える!」
言葉は互いを押す。
ネムには、声の内容より身体が聞こえる。
吊り森を叫ぶ男は、右脚の拍が遅い。長距離を歩けない。
中央宮殿を求める女は、恐怖より怒りが強い。死王谷で王脈院へ家族記録を拒まれた人かもしれない。推測はする。答えには使わない。
墓樹を守る老女は、心拍が安定している。死ぬ覚悟をしている、とは言わない。覚悟と循環器の状態は同じではない。
ガンガが前へ出る。
「七つの行き先を――」
ネムが太鼓を一度。
止める。
「俺が説明する」
二度。
ネムは小板へ書く。
『お前の説明は、結論が先』
「時間がない」
『だから順番を決めた』
「俺は何を」
『質問へ答える』
「それだけか」
『難しい』
ハルが横から言う。
「ガンガ、答えを一つにする癖あるし」
「お前は質問を増やす癖がある」
「役割分担」
「胸を張るな」
ネムは七枚の薄板を出す。
エリアが急造した透明地図。
まだ一つに重ねていない。
板ごとに、行き先が一つ。
一枚目。
北岩棚。
新層が厚い。医療設備あり。寒い。坂が多い。ナアの歩みは遅い。到着まで長いが揺れは少ない。
二枚目。
南西水受け盆地。
水がある。湿地生活に近い。ユルの背は傾きやすい。乾燥食料は傷む。
三枚目。
東赤台。
乾いている。種庫と畑を作りやすい。水は少ない。カラの加速が速く、吊り家は補強が必要。
四枚目。
上層吊り森。
セトの身体条件に最も合う。根橋を移しやすい。外部群との境界は未合意。風膜鹿の繁殖路と重なる。
五枚目。
塩風路。
薬草乾燥に向く。塩害。子どもの喉へ負担。ミイの歩みが速い。
六枚目。
南係留空域。
船への接続がよい。陸地が少ない。ドゥの跳ねで家屋固定が難しい。
七枚目。
西北若草地。
中央に近い。王心鐘から遠い。水と土の長期状態は不明。ルゥの歩みは遅い。
別枠。
中央宮殿の避難船。
船内設備あり。収容上限。出発時刻あり。七頭と離れる。戻れる保証なし。
ネムは利点だけを先に出さない。
危険だけで脅さない。
順番を毎回変える。
最初の板で利点を先に言ったなら、次は危険を先に。
説明の並びそのものが、選択を誘導する。
完全に中立な順番はない。
だから、順番も記録する。
「上層吊り森以外は、セトと離れる」と若い鹿守。
ネムは頷く。
「セトを捨てるのか!」と別の男。
ネムは首を横へ。
小板。
『離れることを、捨てると決めない』
「戻れるのか」
『保証できない』
「なら同じだ!」
『同じとは書かない』
「言葉で逃げるな!」
ネムは板を下げる。
喉を押さえる。
声を一度だけ使う。
「違う」
掠れた一語。
「捨てるは、戻らないと決める。離れるは、今、別の場所へ行く」
喉に痛み。
三。
続けない。
ハルが水を渡す。
対価を聞かない。
ネムは受け取る。
飲んだ後、小板へ書く。
『あとで種を一袋』
「対価?」
『交換』
「ミラが増えた」
『種は増える』
「上手い」