第298話 第五章「一つに揃えない地図」後編

 エリアは灰色の実線を消した。

 消した跡を、透明板から完全には拭わない。

 細い斜線。

『閉鎖。道路台帳と鉱務台帳の不一致』

「失敗を地図へ残す?」とハル。

「後で同じ線を誰かが引かないように」

「見にくくなる」

「はい」

「完成から遠くなる」

「地図は、正しい線だけを集めるものではありません。なぜ通れないかも道の情報です」

 ロロが七地域の基礎台帳を引きずり出す。

 道路。

 鉱山。

 水路。

 墓地。

 家畜移動。

 祭務。

 軍用。

「七枚どころじゃない!」

「全部を重ねないで」とエリア。「交差する場所だけ照合」

「どこが交差するか分かる地図が要る!」

「今作っています」

「循環!」

「地図は循環します」

 ハルが採石穴の上へ現地札を置く。

「ソナが測深役。鉱務の人は」

『避難中』

「じゃ、昔掘った人」

 老人が一人、手を上げる。

『橋の下、南側だけ残柱がある。北へ三歩ずらせば小荷は通る』

「寝台は」

『無理』

「無理を実線」とエリア。

「通れない線を描く?」

「寝台には。歩行者は点線。小荷は二重線」

 同じ場所が、身体と荷によって別の道になる。

 灰色の一本は、三種類へ分かれる。

「最初から全部分ければ」とハル。

「最初から全部を知っている地図はありません」

「地図って、知らないものを隠して完成して見せがち」

「だから、未確認を白でなく斜線にします」

「白だと何もないように見える」

「何も描いていない場所と、何も存在しない場所は違います」

 中央の空白を、ハルは見る。

 そこも、何もないわけではない。

 誰か一人を基準へ置かないため、描かない場所だった。

 七枚へ、住民の希望を描く。

 希望は荷重表に入らない。

 入りたい人数。

 持ちたい物。

 離れたい場所。

 残したい墓。

 同じ家族でも別の行き先。

 線で描けば、希望が命令に見える。

 エリアは、足跡を使う。

 本人が選んだ円から、最初に踏み出した一歩だけを板へ写す。

 まだ歩いていない者には線を引かない。

「予測できない」とロロ。

「予測層は別にします」

「希望層を入れないと荷重が出ねえ」

「希望を推計人数へ丸めれば、本人の変更が見えなくなる」

「でも船は人数で沈む!」

「だから、現在選択、予測幅、実乗船を三層に」

「板が増える!」

「七枚の中へ三層」

「透明すぎて見えねえ!」

「色を」

「ミラが色差を読めない!」

「形を変えます」

 エリアは怒らない。

 ロロも喧嘩しているようで、同じ地図を良くしている。

 現在選択は実線。

 予測幅は点の列。

 実移動は小さな切り欠き。

 色だけに頼らない。

「ネムの心拍板とも重ねる」とガンガ。

「本人の許可がある範囲だけ」とエリア。

「心拍は荷重に関係する」

「個人の心拍を地図へ公開しない」

「群れの平均なら」

「平均へ弱い一人が消える」

 ガンガは黙る。

 次に言い直す。

「七頭の拍だけ。人は、現地聞き手が危険を報告」

「それなら」

 互いに訂正する。

 勝つための会話ではない。

 カイルから中央宮殿船の実収容表が届く。

 公称一万五千二百。

 患者、荷、衛生区画、通路を入れた実収容。

 九千八百。

「五千四百、どこ行った」とハル。

「最初から人ではなかった」とロロ。「立ったまま詰める想定、通路まで人数へ入れてた」

「数字の中に床がいた」

「床を人にするな」

「言葉として」

「分かってるから腹立つ!」

 エリアは中央船を、七つのうち一つではなく、複数路から接続できる移動点として描く。

 中央に置かない。

「宮殿が抗議します」とセレナ。

「地理上、今は移動船です」

「象徴上は」

「地図の層ではありません」

「政治図なら」

「別に作ります」

「全部別」とハル。

「一枚へまとめると、見やすくなる代わりに、異なる理由が同じ線へ潰れます」

「見にくい」

「はい」

「地図って、見やすくするものじゃ」

「見やすくしてよい範囲を選ぶものです」

 エリアの声が速くなる。

 未知の地図を説明する時だけ、年齢が一つ下がる。

「七枚を重ねた時、外周星杭は一致する。でも中央は空白。どの路も、他の路の基準にならない。ナアの遅さを基準にすればミイが皮を裂く。ミイの速さを基準にすればナアの患者が揺れる。中央船の出発時刻を基準にすれば、セトを待つ保留者が置かれる。だから各路は自分の時計を持つ」

「七つの時計」

「はい。接続点だけ、時刻を翻訳する」

「時差みたい」

「あなたの故郷にも?」

「ある。国ごとに時間が違う」

「空が一つでも」

「同じ太陽でも」

 エリアの歩幅が半歩大きくなる。

 好奇心。

「地球の時差地図を」

「帰ったら見せる」

 ハルの口が止まる。

 帰る。

 約束にすると、誰かを待たせる言葉。

 エリアは急いで返事をしない。

「帰路が見つかり、あなたが行くことを選び、私が同行または地図の共有を選べる時に」

 条件を増やす。

 約束を弱くするのではない。

 誰か一人の断言へしない。

「長い」

「短くすると」

「見つけたら、一緒に見る」

「それなら」

 エリアは右手で口元を隠す。

 心から笑った。

 七枚の写しを、七地域へ送る。

 写しと言っても、同じ物ではない。

 北へは厚い石粉板。

 水へ濡れる西には油布。

 赤土へは焼き板。

 樹冠へは根糸で編んだ巻図。

 塩風路へは腐食しにくい骨片。

 南港へは結び目と切れ込み。

 若草地へは、まだ大きく空いた薄板。

「原図と違う」と書記。

「同じ情報を、同じ形にする必要はありません」とエリア。

「変更が発生した時、照合できない」

「変更時刻と変更者を共通記号で残す。内容は現地の媒体へ」

「中央原図を正本とすべきです」

「中央が落ちたら」

 書記は黙る。

「原図はゼロスター号にも置く。七地域にも置く。正本を一つにしない」

「どれが本当の地図か」

「時刻と目的が同じなら、全部。違うなら、その違いを比較する」

 ハルは若草地用の薄板を持つ。

「白い」

「現地で書き足します」

「俺が書いたら迷う」

「あなたは位置を報告。線は現地の聞き手」

「信用が具体的に狭い」

「だから任せられます」

「褒められた?」

「範囲内で」

 ハルは笑う。

 エリアは、彼の赤いマフラーへ小さな測量環を結ぶ。

「何」

「方向標」

「俺の方向音痴対策」

「いいえ。あなたがどこにいるか、こちらが知るため」

「帰れるように?」

「見失った時、探せるように」

 ハルは環を指で鳴らす。

 軽い音。

「探すって、約束?」

「任務上の手順」

「逃げた」

「条件を付けた」

「ミラとネムが増えてく」

「あなたが周囲から学びすぎるの」

「エリアも」

「私は地図へ入れているだけ」

「人から入った線」

 エリアは返さない。

 代わりに、彼の固定帯を一段締める。

「肩、今」

「一・五」

「小数は禁止」

「二未満」

「言い換えても同じ」

 測量環と固定帯。

 行き先を決める道具と、無理を止める道具が、同じ赤い布へ付く。

 写しを受け取った現地の聞き手たちは、すぐに地図を直した。

 北は寒気の流入を一本追加。

 西は水門の深さを訂正。

 赤は種庫の位置を二十歩ずらす。

 樹冠は風膜鹿の路を、人の路より先に描く。

 東は喉の弱い者の休息点。

 南は、船籍のない船も係留できる仮索。

 若草は、最初の井戸候補へ大きな疑問符。

「疑問符は地図記号?」とハル。

「今から」とエリア。

「正式?」

「暫定」

「正式な暫定」

「言葉遊びをしないで」

「制度が先にしてる」

 七枚の地図は、描き手を一人失った。

 その代わり、現地の七人と、彼らから聞くさらに多くの手を得た。

 エリアは自分が描かなかった線へ署名を求めない。

 誰が見たか、誰が検証したかだけを残す。

 地図は、彼女の作品から、避難する人々の共有作業へ変わり始める。

 七枚の地図は、完成しなかった。

 完成させる前に、地面が変わった。

 最初はルゥの若草地。

 濃緑の新層が、中央から盛り上がる。

 丘ではない。

 成長する背骨の隆起。

 次にカラの東台。

 赤土の下から新しい肋状の地形が出る。

 最後にセトの上層路。

 吊り森へ向かう根橋の間へ、厚い新皮の壁が立つ。

 エリアの地図で、三つの接続路が同時に赤く点滅した。

「交差不能」とロロ。

「迂回」とハル。

「一つ目は二刻。二つ目は荷車不可。三つ目は地図外」

「地図外なら、見に行く」

「今、あなたが行けば更新役が偏ります」

「じゃ誰」

 エリアは伝羽を七地域へ開く。

「現地の人に、描き足してもらう」

「路図を使えない」

「歩ける場所を言葉、結び目、足跡で返してもらう。私だけが地図を描く必要はありません」

「正確さ」

「私が検証する。最初の観測は、そこにいる人が早い」

 公爵家の航路士が、自分の地図へ他人の線を入れる。

 樹冠区から、鹿守の足拍。

 赤土台から、ソナの測深記録。

 若草地から、ヤッカの短い伝羽。

『隆起の左、柔らかい。右、古い根。子どもは右。荷は左へ板を置けば通る。ルゥは左を嫌がる』

「理由は」とエリア。

『不明』

「不明のまま記載」

 七枚の線が変わる。

 中央の空白は、そのまま。

 誰の道も基準にしない地図が、初めて動き始めた。

 その直後、新地表の隆起が三つの路を完全に切った。

 七方向の避難は、作った瞬間の正解を失った。

「更新」とエリア。

 踵、三。

 呼吸、二。

「交代」とハル。

「まだ」

「三で言う約束」

「路図は」

「俺が持つ。描けないけど、消えるまで三十拍」

「次の担当」

「現地の七人」

 エリアは一拍だけ迷う。

 地図槍をハルへ渡す。

「落とさないで」

「命より大事?」

「命を載せているので」

「重い」

「十三・四キルです」とロロ。

「そっちじゃない」

 エリアは座る。

 七枚の透明板の中央には、何も描かれていない。

 空白は、欠落ではない。

 次に誰かが、自分の道を書き足すための場所だった。