第299話 第六章「無契約救難路」前編
海難法の古い原則に、「助けた船は助けた者のもの」というものがある。
救命の報酬として、漂流船の積荷を受け取る。
船体を曳いた費用として、所有権の一部を得る。
死者しかいなければ、発見者が船を継ぐ。
嵐の海で働いた者へ報いるための規則だった。
やがて、救う前に値段を決める者が現れた。
沈みかけた船へ契約書を投げ、署名できない者を置いていく者が現れた。
救助費を命の借りへ変え、払っても減らない債務へする船長が現れた。
善い制度が、悪い人間だけに壊されるとは限らない。
善い理由を守り続けた結果、救われる側が制度の外へ出ることもある。
自由港を出る前、ミラは三枚の紙へ同じ文を書いた。
『翠獣環救難。救命のみ共同。船団統一、港憲章への同意、過去債務の承認を条件にしない』
一枚は青旗船団。
一枚は橙旗船団。
一枚は自分の救難艇。
同じ文なのに、返事は三つとも違った。
青旗。
『参加。費用は七地域へ請求。匿名者の乗船不可』
橙旗。
『参加。費用は各船負担。中央台帳への登録不可』
救難艇。
『燃料不足。義足用塩除け布不足。参加するなら誰か買って』
「最後だけ生活!」とミラ。
「生活が一番先に船を止める」とジル。
「燃料、何刻」
「往復なしで八。片道なら十一」
「帰りを数えて」
「救難で帰りを後にした奴が成長した」
「褒め方が腐ってる」
「保存が利く」
パルは机の下で、匙を六本並べている。
「七本目は」とミラ。
「青旗の会議室」
「盗った?」
「借りた」
「許可」
「安全なら返す」
「順番が逆!」
「契約も、助けた後に値段言う」
ミラの口が止まる。
自分の制度へ、十一歳の言葉が先に穴を開ける。
「だから今回は、先に値段を言わない」
「後で言う?」
「費用は公開する。助けた人の借金にはしない」
「誰が払う」
「まだ決めてない」
「船、出る?」
「出す」
「決めてないのに」
「決める前に死ぬ人がいる」
パルは六本の匙を袋へ戻す。
「じゃ、一個返す」
「何で一個」
「全部返すのは、まだ」
信頼も、船団も、制度も、一度で全部は戻らない。
青旗船団は、ミラを船長と呼ばなかった。
橙旗船団の一部は、今も呼んだ。
「船長、進路」
「違う」
「元船長」
「それは過去の役職」
「風鈴脚」
「子ども向けの呼び名!」
「ミラ」
「最初から!」
呼び方だけで、船団の分裂が見える。
青旗は文書を重く見る。
橙旗は口約束と古参の掟を重く見る。
ミラはどちらにも完全には戻れない。
「救命だけ共同」と彼女はもう一度言う。
「その後、港の票へ数えるな」
「救助に来た実績は票になる」と青旗の船長。
「自分で語るなら。助けられた人の感謝を、政策への署名にするな」
「お前が言うと、過去が笑う」
「過去が笑えるなら、生きてる」
風鈴を鳴らす。
回答ではない。
出航合図。
青と橙と、印のない救難艇が、同じ港から別々の間隔で空へ出た。
「署名はいらない! 名前もいらない! 乗るなら結びを一つ取れ!」
ミラ・ベルウェザーの声が、南断崖の空へ飛んだ。
左右で丈の違う赤茶のコート。
銅色の短い髪。
片耳の風鈴ピアス。
左膝下の星晶義足。
義足の小帆が開く。
港の係留索を滑り、彼女は三隻目の救難船へ着地した。
着地と言っても、右足で止まらない。
義足の帆が横風を受け、甲板を半周し、積荷箱へ肩をぶつける直前に索を掴む。
「停止距離、甲板一枚!」とジル。
「計算済み!」
「ぶつかる箱までか!」
「ぶつかってない!」
「箱が逃げた!」
積荷箱は、パルが六指で引いていた。
「救助代、一箱」とパル。
「請求先が私?」
「箱を助けた」
「箱に払わせな」
「箱は署名できない」
「この制度の弱点を十秒で突くな!」
パルは橙色の大きすぎる甲板服から、結び紐を何本も出した。
青い輪。
三つ編み。
端に木片一つ。
「これ、三番船。色だけじゃなく、三つ編みと木一個」
「赤緑差への配慮が成長したな」とジル。
「ミラ、赤と緑まちがう」
「間違えない。切れ込みで見てる」
「色で見てないなら、色まちがう」
「論理が子どもの形して刺してくる!」
署名なしで使える救難路〈フリー・ライン〉。
自由港で始めた時、規則は一文だった。
『救命は契約より前、精算は生還より後』
契約できない者も救う。
登録のない子どもも、敵対船も、支払い能力のない避難民も、先に乗せる。
その一文は美しかった。
美しい一文は、運用の欄が空いている。
誰を何人乗せたか。
どの船へ移したか。
同じ人が二度数えられていないか。
救難費を誰が負担するか。
匿名のまま家族を探すにはどうするか。
危険人物をどう扱うか。
船が沈みそうな時、誰を下ろすのか。
答えは、嵐のたびに増えた。
今日の嵐は風ではない。
空域が皮を脱いでいる。
南断崖の旧港が、白い皮ごと剥がれていた。
係留肋が空へ持ち上がり、港へ繋がれた船を上から引く。
下ではドゥの新しい背が南へ短く跳ねる。
上へ引く旧皮。
前へ進む若獣。
その間で、船団が二方向へ裂かれる。
「港索、切断まで百二十拍!」
ジルの銅笛。
右耳の上半分が欠け、高音が聞こえにくい彼女は、笛を音より歯の振動で確かめる。
「東組、四隻! 西組、三隻! フリー・ライン二隻! 救助艇五!」
「旧船団を東西で呼ぶな」とミラ。
「別れた側が名を決めてない」
「私の船団でもない」
「じゃ、元お前を船長と呼んだ面倒な奴ら東と、今も呼ぶもっと面倒な奴ら西」
「長い!」
「紙へ書け!」
「濡れる!」
「だから結び目だ!」
ミラが自由港憲章を作ろうとした時、船団は割れた。
全取引を契約へ置き換える案へ反発した者。
契約を明文化しなければ古参の口約束に新人が縛られると主張した者。
救難費を共同金から出すことへ賛成した者。
敵対船へ公金を使うなと怒った者。
どちらかが悪い一枚絵ではない。
今も、東組と西組は同じ議場へ入らない。
だが今日は、同じ空へ来た。
契約が成立したからではない。
「救命だけ共同!」
東組の船から、赤い旗。
「積荷と費用は後!」
西組から、黒い切れ込み旗。
「救助者の所有権主張なし!」とミラ。
「お前が言うな、元空賊!」
「元を付けるなら正確!」
風鈴ピアスを鳴らす。
「救命共同、成立!」
ジルが銅笛を噛む。
「成立じゃねえ。今だけ同じ索へ手を掛けた」
「言葉が長い」
「短い契約で船を割った奴が言うか」
ミラは返さない。
本気で傷つくと、金額を小数まで言う。
今は金額を言わない。
風鈴だけが一度鳴る。
匿名乗船の数え方は、パルが作った。
船ごとに、色、編み方、木片数の違う結び。
乗る者は一つ取る。
同じ形の結びを、中央索へ一つ作る。
船を移る時は、自分の輪を返し、中央索の結びも移す。
名前はいらない。
年齢も、出身も、罪状も聞かない。
「一人一個!」とパル。
「子どもは母と一つで」と避難民。
「だめ。一人一個」
「家族だ」
「沈む時、家族で一人分の重さにならない」
「縁起でもない」
「重さは縁起で減らない」
パルは右手の六本指で、二つの輪を同時に作る。
首の後ろに荷札の焼印痕。
人へ番号札を付ける商人を嫌う。
それでも今日は、人を数える。
「これ、値札じゃない」と彼女。
「じゃ何だ」
「乗ってるって船に教える」
「船へ?」
「人に聞くと、名前いる。船は重さだけで沈む」
「人を重さにするのか」
パルの指が止まる。
難しい問い。
ミラが助けようと口を開く。
パルが先に答える。
「重さだけにしないため、結びを返す」
「返す?」
「降りたら取る。死んだら、勝手に切らない。いなくなったって残す」
ジルの船霊信仰。
死者の名を船板の裏へ刻み、海へ物を捨てて弔わない。
名前が分からなくても、結びを残す。
数は人ではない。
だが、数から消さないための印にはなる。
避難民は輪を取る。
救難路は、南断崖から樹冠区の下へ伸びた。
セトから離れる三十一人。
保留者の一部。
中央船へ向かうが、旧橋を使えない者。
フリー・ラインの船が、吊り根の下へ入る。
「上から皮!」
白い旧皮の大板が、帆のように落ちる。
ミラは義足帆を開く。
移動物から勢いを盗む風術〈スティール・ゲイル〉。
周囲の運動量を一時的に奪い、自分の速度へ変える。
使えば速い。
奪われた側は遅くなる。
落下する旧皮から勢いを盗めば、皮は一瞬止まり、ミラは加速する。
だが、盗んだ勢いを身体と義足が処理しなければならない。
台風金庫の一件で、右膝と腰を傷めた。
時間は経った。
傷は一ではない。慢性的な接合部痛は残る。
「使用上限」とジル。
「一枚、三割!」
「盗んだ後どこへ返す!」
「返す術はまだない!」
「なら船へ入れるな!」
「私が滑って索を切る!」
「右膝」
「二!」
「接合部」
「二・五!」
「小数の悪癖が来た!」
ミラは旧皮から三割を盗む。
世界が遅くなる。
白い板の落下が鈍る。
義足が風を噴く。
甲板から係留肋へ。
肋から吊り根へ。
吊り根の先、古い港索。
一、二、三。
ハルの数え方が移っている。
「誰の癖だ!」
自分で怒鳴る。
帆刃を一閃。
港索が切れる。
船団がドゥの新層側へ解放される。
旧皮は再び落ち始める。
ミラの身体へ、盗んだ勢いが残る。
止まれない。
「右舷、空けろ!」
甲板員が退く。
ミラは一隻目の帆へ乗る。
二隻目の索へ。
三隻目のマストへ。
速度を船団の進行へ分けたい。
だが風盗は、奪った勢いを正確に返す術ではない。
ジルが二本の索を投げる。
二点の張力を一度だけ均等にする結索〈イーブン・ライン〉。
ミラの腰索と、救難船の主帆索。
「一度だけだ!」
「十分!」
張力が均等になる。
ミラの勢いが、船の帆へ分かれる。
救難船が前へ出る。
ミラは甲板へ落ちる。
右膝、三。
接合部、三。
腰、二。
「申告」とジル。
「全部三以下!」
「具体的に!」
「右三、接合三、腰二。次の風盗、旧皮一割まで」
「次を入れるな!」
「撤退条件は四!」
「船長じゃなくなっても、自分の命令だけは聞かねえな!」
「船長じゃないから命令じゃない!」
「言葉で怪我を減らすな!」
パルが机の下から顔を出す。
「ミラ、血」
義足接合部へ赤い線。
「塩かぶれ」
「値段」
「今聞く?」
「親切の値段」
パルが布を持っている。
ミラは硬貨へ手を伸ばす。
止める。
助けられた後、対価を払わず「ありがとう」だけを受け取る。
それが自然にできる日は、まだ先かもしれない。
今日は一歩だけ。
「布を借りる。返す時、洗う」
「ありがとうは」
「……ありがとう」
パルは布を渡す。
「成立?」
「保留!」
「逃げた」
「分類した!」