第300話 第六章「無契約救難路」後編
三隻目の船倉で、結びのない人が見つかった。
パルが見つけた。
正確には、匙が一本減ったため探した。
船倉の水樽と乾燥根菜箱の間。
大人二人。
子ども三人。
全員、輪を持っていない。
「密航」と甲板員。
子どもが身を縮める。
パルは甲板員を睨む。
「避難」
「数に入ってない」
「だから見つけた」
ミラが降りる。
義足の音を小さくする。
「名前はいらない。結びを取って」
大人が首を横へ振る。
「後で金を取る」
「救難は先」
「結びが契約だ」
「違う」
「印を付けたら、降りられない」
首へ札を掛けられ、積荷として売られた経験があるのかもしれない。
パルと同じとは限らない。
ミラは自分の右小指の船長契約刺青を隠さない。
「結びは船の数。あなたを所有しない。降りる時、返せる。返さなくても追わない。ただ、今持たないと、この船が何人分重いか分からない」
「名前を」
「聞かない」
「罪を」
「今は聞かない」
「敵船から来た」
「救命共同の時間だ」
「後で」
「後で事情を聞く必要があるなら、先に理由を説明する。逃げる権利まで約束はできない。危険があるなら止める。でも、救助費を命の借りにはしない」
完璧な安心を言わない。
大人は三つ編みの輪を取る。
子どもへ一つずつ。
パルが中央索へ五つ結ぶ。
「五人、増えた」
「最初からいた」と子ども。
「数に増えた」
「人は増えてない」
「そう」
パルは訂正する。
「船が知った」
五人を数へ入れた直後、最年少の子が倒れた。
息が浅い。
唇の周りへ赤い腫れ。
「何を食べた!」と船医。
大人は答えない。
「名前じゃない! 食べ物!」
「乾燥根」
「種類」
「知らない」
パルが子どもの袖へ鼻を近づける。
「青豆粉」
「どうして」
「匂い。船倉の箱、破れてる」
船医が注射具を出す。
「過去に同じ腫れは」
大人が首を横へ。
「ない、か、言わない?」とミラ。
「分からない」
「薬へ同意を」
船医が紙を出す。
大人の顔が固まる。
「署名はしない」
「未成年の緊急投薬です。保護者の承認が」
「名前を書けば追われる」
「書かなければ薬を打てない」と船医。
制度が、救命の入口でまた紙になる。
「緊急性」とミラ。
「高い。気道が閉じ始めている」
「本人の意思」
子どもは話せない。
目は開いている。
ミラは薬具を見せる。
「これを腕へ刺す。痛い。息を開く薬。嫌なら、握ってる紐を離して」
子どもの手には三つ編みの輪。
離さない。
「同意と断定できる?」と船医。
「完全ではない。だが本人へ説明し、拒否の動きを決めた」
「法的には」
「緊急救命の記録へ、医師判断、本人への説明、保護者が署名を拒んだ理由、証人二人。名前欄は空白」
「後で審査される」
「私の名を責任欄へ」
「船長ではない」
「救難操舵手ミラ・ベルウェザー。前科欄は別紙!」
「多い」とパル。
「今そこ!」
船医は投薬する。
子どもの身体が一度強く震える。
呼吸が戻る。
すぐ元気にはならない。
「効いた」と大人。
「経過観察。次の二刻、同じ粉へ近づけない」
「借りは」
ミラの風鈴が鳴らない。
「救命費をあなたの借りにしない」
「じゃ、ただ?」
「ただ、じゃない。費用はある。船医の時間も薬も減る。でも、子どもの首へ付けない」
「誰へ付ける」
「帳簿へ」
大人は理解した顔をしない。
それでよい。
理解できなければ救助を取り消す制度ではない。
パルは子どもの輪へ、豆形の小さな木片を足す。
「何」とミラ。
「青豆だめ」
「医療情報を全員へ見せる?」
「本人が外せる」
子どもへ尋ねる。
「この印、付ける? 船医だけ見る袋へ入れる?」
子どもは印を見て、輪へ残す。
名前がなくても、身体条件は本人の選び方で伝えられる。
匿名は、何も知らせないことではない。
船医が帳簿へ薬量を書く。
「在庫、あと十四回」
「十四人しか助けられない?」とパル。
「同じ症状なら」
「十五人目」
「別の方法を探す」
「なかったら」
船医は答えない。
ミラは薬の費用を、救難帳簿へ大きく書く。
無料にしたから、在庫まで無限になるわけではない。
受け入れを断らない制度ほど、残りを正確に数えなければ、最後の一人へ嘘をつく。
過積載は、最後の一人で突然始まるのではない。
船は、少しずつ沈む。
甲板が一セン下がる。
舵の反応が遅れる。
帆が風を受ける角度が変わる。
排水口から水が戻る。
乗っている者は、まだ飛んでいるから大丈夫だと思う。
制度も同じである。
例外を一つ受け入れる。
次も断れない。
救命を優先する。
その正しさが重なり、誰も全体の重さを言えなくなる。
「三番船、喫水に相当する浮力線、下限まで四セン!」
ジルの声。
「中央索、何人!」
「三百九十二!」とパル。
「船台帳は三百四十一!」
「五十一差!」
「結びの重複?」
「移船した人、前の船の結び残ってる!」
「何人」
「分からない!」
「結びで数える制度だろ!」
「二つの船団で色と形が同じ!」
東組の青三つ編みと、西組の青三つ編み。
片方は木片一つ。
片方は骨片一つ。
暗い船倉では見分けにくい。
さらに、輪を二つ取った者がいる。
離れた家族の席を確保するため。
輪を取らず乗った者もいる。
中央索の数は、実人数より多いかもしれない。
少ないかもしれない。
「名前を取れば」と東組の船長。
「今から全員へ聞く時間はない」とミラ。
「匿名をやめろ!」
「名前がなくても数えられる手順を直す!」
「直してる間に沈む!」
「だから、まず荷を捨てる!」
積荷。
救難索。
予備帆。
水。
食料。
医薬。
避難民の私物。
「誰の荷から」とジル。
難しい問い。
共同物資を捨てれば、後の救助が減る。
個人の荷を捨てれば、弱い者へ損失が集中する。
「所有者確認できる荷は、本人へ聞く。無主荷は用途を確認。船の装飾から!」
「装飾なんか積んでねえ!」
「船首像!」
「船霊だ!」とジル。
「重さ八十!」
「死者の名が裏に!」
「板だけ外す!」
「傷つけるな!」
「私がやる!」
ミラが工具へ手を伸ばす。
ロロがいない。
だから、船首像の構造を知るジルへ任せる。
「ジル。名前板を残して、像を外せる?」
「できる。十二分」
「時間は四分」
「なら腕だけ二本。三十キル」
「やる」
死者を捨てない。
像の全てを守るため生者を沈めない。
腕二本を外す。
船板の裏の名は残る。
個人荷の持ち主へ聞く。
「この樽、捨てられる?」
「娘の冬衣」
「娘は」
「別船」
「連絡できる?」
「分からない」
「残す」
次。
「この箱」
「塩」
「食用?」
「契約金」
「命の後に精算できる?」
「できる」
「捨てる」
持ち主が自分で箱を押す。
白い塩が空へ散る。
一つずつ聞く。
遅い。
船は沈む。
「四セン、二!」
「他船へ移す!」
「東組は満載!」
「西組、余裕二十人分!」
「契約がない」と西組。
「救命共同!」
「荷の分まで言ってない!」
「人だけ!」
「移した後、戻すのか」
「安全地で本人が選ぶ!」
「費用」
「後!」
「誰が払う」
「生還後、公開する!」
風鈴が鳴らない。
ミラは契約成立と言わない。
西組の船長は長く睨む。
「二十人。荷なし。救助時間だけ」
「同じ索へ手を掛ける」
ジルの言葉を使う。
移船。
パルが結びを切らず、中央索からほどいて移す。
「人の結び、切らない」と彼女。
「急げ!」
「ほどく方が、誰が移ったか分かる!」
速い切断は、記録を失う。
十九人。
二十人目は、義足を外した老女。
「持てない」と甲板員。
「義足も人の一部」とミラ。
「本人は」
「持ってく」
老女が言う。
「身体へ付けない。抱く」
「二人分の重さに近い」と甲板員。
「だから、二十人目を二人分として終わり!」
「十九人しか」
「身体を席へ合わせるな!」
老女と義足が西組へ移る。
浮力線が一セン戻る。
「まだ下限三!」
「人数じゃない」とパル。
船倉の床へ耳を当てる。
「右が重い」
「船体歪み?」
「結び、右に集まってる」
避難民は、出口に近い右舷へ寄っている。
名前を取らない制度の問題ではない。
恐怖で、人が一方へ集まった。
「全員、左へ十歩!」と甲板員。
人々が一斉に動く。
「待て!」
一斉移動で船が揺れる。
ミラは声を下げる。
「三列。結びの形ごと。三つ編みは左へ二歩。平結びは中央。木片二つは動かない。自分で歩けない者は、誰に触れてほしいか言って」
指示を分ける。
船が水平へ戻る。
浮力線、二セン。
助かった、とは言えない。
上空で、白い森が動いた。
樹冠区の旧皮に載っていた森林区画。
根ごと剥がれ、巨大な斜面を滑ってくる。
進路は、救難船団。
「森!」
パルが叫ぶ。
ジルの銅笛が三度。
「全船、回頭!」
「三番船、過積載で旋回できない!」
ミラは義足を立てる。
右膝、三。
接合部、三。
風盗上限、一割。
分裂した船団は、同じ索へ手を掛けたばかり。
救難路は、人を拒まなかった。
その正しさの重さで、今、森から逃げ切れない。