第301話 第七章「滑り落ちる森」前編
重さは平等である。
王の石像も、子どもの匙も、空へ落ちれば下へ向かう。
だが、重さの負担は平等ではない。
誰が持つか。
どの橋が支えるか。
どの船腹へ寄るか。
どの地域が「少しだけ」を積み重ねられるか。
合計が同じでも、置く場所が違えば、船は傾く。
森が滑ってきた。
比喩ではない。
白い旧皮の上へ根を張った樹木が、土、菌床、獣道、小屋を載せたまま、斜面を一枚の森として下りてくる。
速度は人の早足。
遅く見える。
家ほどある木が動く時、人の早足は十分に速い。
「右へ!」とハル。
「どっちの右!」とロロ。
「森を見て右!」
「森に顔はねえ!」
「俺の右!」
「最初からそう言え!」
ゼロスター号が、滑る森と救難船団の間へ入る。
片帆が風を受ける。
船腹の古い継ぎ板が鳴る。
ロロは音を三種類聞き分ける。
「船体、二。帆柱、一。俺の喘息、まだ一!」
「最後も報告?」
「お前らが先に聞く前に言った!」
「成長」
「自分の仲間を自分で褒めんな!」
滑る森は、一枚ではなかった。
先頭に白樹の若木帯。
中央に太い胞子樹。
後方に家と畑を載せた根丘。
それぞれが別の速度で滑る。
若木は軽く、速い。
胞子樹は根へ土を抱え、遅い。
根丘は最も重く、止まりにくい。
「三つの森!」とハル。
「一つの森の速度差!」とエリア。
「どっちでも多い!」
『若木帯が二十拍で橙旗二号へ。胞子樹は四十。根丘は一刻以内』
「一刻、長い?」とミラ。
『根丘の質量は、船団全体の六倍』
「短い!」
救難船団は過積載で、急旋回できない。
全船を同じ方へ回せば、外側の船が旧皮へ押し付けられる。
「扇に開け!」とジル。
「中心は!」
「動ける船から外! 動けない三番を軸!」
「三番を置いていく?」と避難民。
「軸は捨てる場所じゃねえ! 全船があいつを中心に逃げる!」
動けない船が、隊形の中心になる。
弱い場所へ全てを集めるのではない。
弱い場所を基準に、動ける側が余分に動く。
青旗一号が北へ。
橙旗二号が南へ。
ゼロスター号が中央の前へ。
係留索は、船ごとに長さが違う。
「全部同じ長さへ!」と若い甲板員。
「切るな!」とジル。「外側は長く、内側は短く! 同じにしたら扇が閉じる!」
平等な索長は、ここでは衝突を作る。
ジルの銅笛が低く三度。
高音を聞き取りにくい彼女は、自分で使う合図を歯の振動へ落としている。
「右外船、二十伸ばせ! 左内船、七巻け!」
「単位!」とハル。
「船乗りの腕幅!」
「人で違う!」
「今はジル基準!」
「中心がいる!」
「索だけだ!」
船団が扇へ開く。
若木帯が、その隙間へ入る。
枝が帆を打つ。
葉が甲板へ降る。
小さな木上家が一軒、根から外れ、ゼロスター号へ向かって滑ってくる。
窓に人影。
「家ごと!」とハル。
『中に二人。外へ出られない』とエリア。
「どうやって見た」
『窓の熱像。片方は寝台』
「船で受ける!」
「船首潰れる!」とロロ。
「横」
「帆柱がある!」
「下」
「船底で家を受けるな!」
ロロの四本の補助腕が船腹の古い防衝材を外す。
「本来は港へ着ける時の緩衝!」
「リメイク?」
「壊れてねえ! 位置を変える!」
防衝材を右舷へ三枚。
ゼロスター号を家と同じ速度へ近づける。
速度差が小さければ、衝突は接岸になる。
「ミラ、若木から勢いを」
「人のいる家からは盗まない!」
「ゼロスター側を速く!」
「船の勢いを盗んで船へ返す?」
「できる?」
「二度手間!」
「できるんだ」
「義足三になる!」
「じゃ使わない!」
ハルはすぐ引く。
ミラが驚く。
「止めないの」
「条件聞いた」
「成長が気持ち悪い!」
代わりに青旗一号の補助帆をゼロスターへつなぐ。
帆二枚で速度を上げる。
家が右舷へ当たる。
防衝材が潰れる。
壁は割れない。
「接岸!」とロロ。
窓を開ける。
中の老人と寝台の女を、家から船へ移す。
「家は」と老人。
「森へ残る!」
「戻れるか」
「分からない!」
「戸締まり」
「今?」
「泥棒が」
「森ごと滑ってる!」
「だから空き巣が楽だ!」
ハルは窓を閉め、内側の掛け金を外から縄で引く。
「これで」
「雑」
「泥棒も森へ追いつかない!」
老人は納得しない顔で、寝台を先に渡す。
家は防衝材から離れ、若木帯と一緒に流れていく。
救ったのは人。
家は、まだ失ったと決まっていない。
森の先端が、橙旗船の係留索へ触れる。
枝が絡む。
船が引かれる。
ミラが帆刃サルベージを投げ、枝を切ろうとする。
「切るな!」とエリアの伝羽。
「じゃ巻かれる!」
『幹の下に人!』
枝の隙間へ、薄翠の色紐。
タル村からルゥへ向かっていた避難民が、森に押されている。
ハルは船縁へ足を掛ける。
「一、二――」
三を言う前に、左肩が痛む。
助けを求める時だけ、三が出ない。
「ロロ、索!」
一瞬。
ロロの顔から冗談が消える。
工具名ではなく、名前で呼ばれた。
「右腰へ一本! 肩で受けるな!」
補助腕が索を投げる。
ハルは右腰へ結ぶ。
「エリア、着地点!」
『白樹の根元、三歩左。測定済み。道を出す』
「ミラ、船を止めて!」
「止まってる物から勢いは盗めない!」
「止めてる船を止めて!」
「日本語が壊れた!」
「意味は通じた!」
「三割増しで通じた!」
ミラは橙旗船から風を借り、ゼロスター号へ返す。
借りた勢いを返す風鈴札が鳴る。
船の横揺れが一拍だけ消える。
ハルは飛ぶ。
左腕を上げない。
右手で枝。
両足で幹。
白樹の根元へ着地。
路図の光が足の下へ出る。
滑る森の中で、光だけが止まって見える。
「薄翠の紐、こっち!」
避難民が顔を上げる。
墓守の老女。
骨壺。
子ども二人。
保留の黒紐を握った祭司長。
「ルゥ路は!」と老女。
「今、森の向こう!」
「今って何分!」
「分からない!」
「正直で役に立たないね!」
「道は作る!」
「それを先に言いな!」
木を橋へする。
木は、橋になるために生えていない。
幹は丸い。
樹皮は濡れている。
枝は歩幅と関係なく出る。
根は、渡る者を待たずに別の方向へ滑る。
人が橋と呼ぶ時、木の側の条件は消えやすい。
「生きてる根を切らない」とエリア。
「倒れた枝だけ」とハル。
「腐朽確認」とロロ。
「時間ない!」
「腐って落ちる方が時間なくなる!」
ロロが枝へ小さな打診槌を当てる。
乾いた音。
鈍い音。
空洞音。
「白印、荷重二人。二重白、一人。斜線は踏むな!」
「色だけ」とミラ。
「形も入れる!」
白印の横へ、一本刻み。
二重白へ二本。
斜線へ深い×。
「見えない人には」とハル。
「踏み縄の結び!」
一本結び。
二本結び。
切れ目。
地図で作った読み分けが、森の橋へ移る。
第一橋は、二本の幹を並べた。
一本だけなら回る。
二本を根繊維で結ぶと、互いの回転を止める。
「人も?」とハル。
「今、比喩へ行くな!」とロロ。
「二人で渡ると」
「荷重が増える!」
「支え合いが万能じゃない」
「当たり前だ!」
老女が先に渡った後、子ども二人。
一人は靴を脱ぐ。
「滑るよ」とハル。
「靴底、泥」
「裸足も樹液」
「どっち」
ガンガなら足裏で分かる。
ここにいない。
ハルは自分で幹を触る。
「右の木、樹液。左は乾いてる。左へ足、右は手だけ」
「手も滑る」
「布を巻く」
赤いマフラーを外しかける。
エリアの伝羽。
『固定帯と一緒です。外さないで』
「見えてる?」
『測量環が動きました』
「監視」
『捜索手順』
子どもの袖を裂いた布ではなく、積荷の麻布を使う。
マフラーを最も安い道具へしない。
第二橋の途中で、胞子樹が破裂した。
白い粉が雲になる。
「口を覆え!」
ハルは自分の口より先に子どもへ布を渡す。
喉が焼ける。
ネムの寄生胞子の話が頭へ来る。
同じ胞子とは限らない。
「種類!」とハル。
エリアが伝羽越しにラハナへ送る。
『胞子色、乳白。臭気』
「甘い! 腐った果物!」
『発芽胞子ではなく、防御胞子の可能性。吸入で咳。皮膚刺激』
「可能性!」
『目をこすらない。濡れ布。風上へ』
森は滑っている。
風上も動く。
エリアの路図が、風向きの変化へ合わせて短く点滅する。
「青線へ!」
「青が見えない!」と南港の男。
「三角刻みの縄!」
地図の読み分けが、また救難へ使われる。
ハルは咳をする。
呼吸、二。
「申告」とエリア。
「喉二、肩二!」
『交代』
「橋の中央!」
『次の受け手へ』
「いない!」
「いる!」
祭司長が前へ出る。
黒い保留紐を腰へ結び、子どもの手を取る。
「私が渡す」
「橋の使い方」
「見た」
「一人ずつ」
「聞いた」
「子ども、手を引っ張らない。本人に握らせる」
「細かい!」
「大事!」
ハルは橋の横へ移り、後続の足場だけを見る。
助ける役を渡す。
祭司長は不満そうに、それでも指示どおり自分の手を差し出す。
子どもが握る。
二人は渡る。