第302話 第七章「滑り落ちる森」後編
森の中央に、小さな学び小屋が載っていた。
教師はいない。
子どもたちはすでに避難した。
中に残っているのは、種の標本箱と、七地域の古い地図。
「置く」とハル。
自分で言う。
誰もいない。
標本箱は重い。
古い地図は、中央宮殿を大きく描き、外縁の村を点にしている。
今の救難へ必要ではない。
それでも、小屋の前で一人の少女が止まる。
「先生が、種を守れって」
「先生はどこ」
「先に子どもを連れてった」
「種は何に使う」
「授業」
「食べる種?」
「昔の。もう畑にない」
失えば、明日の命はすぐには減らない。
十年後、何かを知る道が減る。
「箱全部は無理」とハル。
「一つだけ?」
「選べる?」
少女は箱を開ける。
七つの小瓶。
ノクスがいれば一つ外すだろう。
少女は七つを見て、最も大きな瓶を選ばない。
「これ」
小さな黒い種。
「理由」
「名前が読めない」
「分からないから?」
「分からないのがなくなったら、ずっと分からない」
瓶一つを持つ。
残り六つは小屋へ。
ハルは戸を閉める。
後で戻れる保証はない。
少女は振り返らず橋へ進む。
選んだものと、置いてきたものの両方を覚えている顔だった。
切り倒さない。
滑っている幹同士を、根の繊維で結ぶ。
ロロが船から補助索を撃つ。
「赤い印は踏め! 黄色は腐ってる! 青は俺がまだ見てねえ!」
「青を踏むな、でいいだろ!」
「見てないと危険は違う!」
ハルは一本目の幹へ渡る。
下は新しい濃緑の地表。
柔らかい。
落ちても即死はしないかもしれない。
だが、生体膜を傷つければ七頭のどれかへ痛みが走る。
助かる側が、運ぶ側を踏み抜かない。
「一人ずつ!」
「時間がない!」
「二人ずつなら幹が回る!」
老女が先に行く。
「子どもからじゃないの」とハル。
「向こうで受ける人が要る」
「正しい」
「年寄りを全部最後にするな」
「してない」
「顔がした」
「顔を証拠にするな!」
「流行ってるね、その言葉」
老女は渡る。
骨壺を胸へ抱えず、腰の袋へ固定している。
両手を空けるため。
次に子ども。
祭司長は最後まで黒紐を握る。
「行き先、まだ保留?」
「中央宮殿の返答を待つ」
「森は待たない」
「分かっている!」
「分かった上で待つのと、決められなくて止まるのは違う」
「言葉遊びか」
「違い」
ネムの一語を借りる。
祭司長は幹へ足を置く。
「今は、ルゥ路へ退避する。所属は保留だ」
「成立」
「その言葉は誰のだ」
「遠くの海賊」
「盗んだのか」
「引用」
「許可は」
「高い」
祭司長が初めて笑った。
笑った直後、森が二度目の傾斜へ入る。
第二の傾斜で、白樹の一本が橋の上へ倒れた。
幹は細い。
細いといっても、人の胴三つ分。
祭司長と子どもが向こう岸へ渡った直後、幹が第一橋を押し、二本の渡り木が別々に開く。
「橋、外れた!」
後続は十七人。
寝台一。
山羊二。
種袋四。
ハルは倒木へ飛び乗る。
「切る!」とミラ。
「待って!」
幹の内側から、弱い叩音。
木ではない。
空洞に人がいる。
樹冠区の家は、太い幹の中へ食料穴を掘ることがある。
「誰か!」
叩音、三回。
返事の代わり。
「入口!」
「下」と老女。「根元側。今は地面へ挟まってる」
「切れば」
「中の人ごと落ちる」
倒木は橋を塞いでいる。
中の人を出すまで、十七人も渡れない。
「ロロ、空洞位置!」
『打診音よこせ!』
ハルが幹を右拳で順に叩く。
乾。
乾。
低。
空。
『そこから上へ一・二! 壁厚二十セン!』
「切れる?」
『生木! 普通の鋸で三分!』
「三分ない!」
『リメイクは穴を作れねえ!』
「分かってる!」
ハルは周囲を見る。
胞子樹の破裂で、樹皮が一枚剥がれている。
生木を切らず、空洞の古い換気穴を探す。
「この幹、住居なら煙道がある!」
「上!」と老女。
倒れているため、上は横。
泥の下へ埋まった小さな穴。
手を入れる。
届かない。
「パル!」
救難船から、小さな橙色が走ってくる。
「それ、いくら?」
「今?」
「狭い穴」
「パン二つ!」
「三つ」
「成立!」
「ミラの言葉!」
「使用料後!」
パルは身体を畳み、煙道へ入る。
「中、誰!」
低い声。
「おばあさん一。足、挟まってる。あと袋」
「袋は後!」
「本人、先って言わない」
「聞いて!」
パルの声が穴へ消える。
「足、触る? どこ?」
返事。
「膝下だめ。腿なら」
「具体的!」
ロロが倒木の外から根の位置を測る。
『右根を五セン上げれば隙間。全部上げるな、橋が滑る!』
ガンガはいない。
大きな力役がいない時、力を分ける。
ミラの船索。
祭司長の根縄。
ハルの右肩。
老女の杖。
「一、二、空白、三!」
「何で空白!」
「ネム式!」
「今、本人いない!」
「引き直せる間!」
一。
二。
索の角度を修正。
三。
根が五セン上がる。
パルが中の老女の腿を支える。
足が抜ける。
二人が煙道から出る。
老女は袋を抱いている。
「置いてって言った!」とハル。
「中身、何」とパル。
「骨じゃない。匙」
木の匙が二十本。
「家族の」と老女。
「十九本しかない」とパル。
「一本は、死んだ息子が持ってった」
「戻らない」
「だから十九でいい」
パルは何も盗らない。
パン三つのうち一つを、後でこの老女へ渡す気かもしれない。
倒木の空洞を空にした後、ミラが幹の端だけを切る。
橋の二本が再び寄る。
十七人が渡り始める。
森の滑りは速くなる。
根丘が後ろから追いつき、若木帯を押す。
遠くの木々が倒れる音は、波のように連続する。
「全員、頭を下げろ!」
枝が飛ぶ。
ハルは右腕で子どもを庇いかける。
左肩を使わないため、身体を丸め、自分の背ではなく倒木の陰へ押す。
庇うことも、身体を盾にする一種類だけではない。
枝が頭上を通る。
赤いマフラーの端を切っていく。
「短くなった」とハル。
『首は』とエリア。
「一!」
『マフラーは』
「二割!」
『物へ痛み申告をしないで』
「大事さ」
『記録欄を分けます』
失った物を、怪我へ混ぜない。
救難船団の過積載は、人数だけではなかった。
甲板に七つの荷が並んでいる。
薬箱。
種袋。
水樽。
墓札箱。
寝具。
工具。
名を言わない男の木箱。
ノクスが、その前へ座る。
七つ。
必ず一つを外す癖。
右の尾が木箱。
左の尾が水樽。
迷う。
最後に、墓札箱を前脚で押した。
「何してる!」とミラ。
箱が半歩、左へ動く。
傾いていた船腹が、わずかに戻る。
「ノクスが答え?」とハル。
「違う!」
ロロとセレナが同時に言う。
「偶然の操作」とセレナの伝羽。
「今のは手掛かり!」とロロ。「荷重表!」
パルが色紐の束を持って、船から船へ飛ぶ。
「橙一号、右に内結び十二、骨玉七、荷箱五。左は短い紐九、荷箱一」
「人数は」とミラ。
「右四十一、左三十八」
「三人差で、ここまで傾かない」
「箱」とロロ。
「全部量った!」
「量った場所を見ろ! 乗船時に中央で量って、置き場所を記録してねえ!」
「色紐は人の場所」とパル。
「物は」
「持ち主の紐へ結んだ」
「人が移動したら?」
「物は残る」
人数は均等。
荷物は、乗船時の側へ残った。
寝台を日陰へ。
子どもを揺れの少ない中央へ。
医療者を右へ。
人だけが動き、物の重さが片側へ積み上がった。
ノクスが箱を一つ外したから、船は少し戻った。
だが、どの船で、何を、どこへ移せばよいかは、癖だけでは分からない。
ロロの荷重表。
パルの色紐数。
船腹の沈み。
ジルの索張力。
四つを重ねる。
「人と荷を別表!」とロロ。「持ち主から切り離すんじゃねえ。位置だけ別に数える!」
「名前なしで?」と青旗書記。
「紐番号でいい!」
「後で返せる保証が」
「今、沈めない保証を先にしろ!」
ミラが風鈴を鳴らす。
「再配置! 水樽二、左。墓札箱は中央。薬箱は温度で分ける。木箱は」
名を言わない男を見る。
「動かしていい?」
男は一拍迷う。
「俺も一緒なら」
「右から左」
「中は開けるな」
「開けない」
「約束か」
「口約束。ジルとパルが聞く」
男が頷く。
木箱を動かす。
船が戻る。
別の船も同じように配る。
過積載そのものは残る。
ただし、一隻ずつ沈む危険は下がる。
「十四人分、多い」とパル。
「人を下ろさない」とミラ。
「物を全部捨てない」とハル。
「船を増やす」とジル。
「どこから」
滑る森が答えた。
古皮の樹木、その根へ絡まった浮き嚢。
昔、森の集落が雨期に使った仮桟橋が、土の下から出ている。
「直せる?」とハル。
「本来動作の痕跡がある!」
ロロの目が光る。
壊れた機械の動きを戻す術〈リメイク〉。
根に埋もれた浮き嚢が膨らむ。
存在しなかった船は作れない。
かつて人を乗せた桟橋を、もう一度だけ浮かせる。
仮桟橋は、三十年前の雨期に一度だけ使われた。
森の集落が水を受け、家畜と子どもを根丘から逃がした時のものだ。
その後、浮き嚢は土へ埋まり、港台帳からも消えた。
「本来動作の痕、薄い!」とロロ。
右眼へ単眼鏡。
左手に工具。
補助腕二本で根をどけ、一本で吸入器。
「嚢の弁が三つ。二つ固着。一つ裂け!」
「戻せる?」とハル。
「裂けた一つは戻らん! 本来の形が残ってねえ!」
「二つで」
「浮力、十六人分ぎり!」
「十四なら」
「揺れ込み十五!」
「一人余白」
「余白を人で埋めるな!」
ロロは第一弁へ術を流す。
壊れた機械の動きを戻す。
弁が、三十年前に開いた軌道をなぞる。
錆が逆へ飛ぶわけではない。
失われた部品が生えるわけでもない。
残った歯が、まだ覚えている範囲だけ。
空気が入る。
右の浮き嚢が膨らむ。
ロロの呼吸が二へ。
「交代」とハル。
「術の途中!」
「何拍」
「十二!」
「十二後」
「分かった!」
先に撤退条件を言う。
十二拍。
第一弁、開。
ロロは術を切り、吸入器を使う。
第二弁は、橙旗船の古参整備手へ任せる。
「俺の機械じゃ」とロロ。
「森の桟橋だ」と整備手。
「今から直す手順、聞いた?」
「見た」
「弁を二度回すな!」
「一度」
「圧が戻ったら」
「閉める」
「できるじゃねえか」
「お前だけが工具を持ってる顔するな」
ロロは口を閉じる。
自分だけが直せると思う癖は、ハルの自分だけが走れる癖と似ている。
「任せる」と言う。
第二弁が開く。
仮桟橋は、根と土を落としながら浮いた。
完璧な船ではない。
屋根なし。
舵なし。
移動力なし。
それでも、十四人と一人分の余白を、一時的に支えられる。
「十四人、桟橋へ!」
「誰を」とミラ。
「保留者と、次の船へ乗り換えられる歩行者」とエリアの伝羽。
「選ばせる!」
ミラが呼ぶ。
「一時桟橋! 屋根なし、揺れ大、次の合流は未定! 移る者!」
手が上がる。
全員ではない。
十四人より多い。
「先着?」
「違う」とハル。「今いる船の荷重位置で決める。右側から何人、左から何人」
「人を重りにするのか」と祭司長。
「人は重い。重さをないことにしない。行くかは本人」
説明する。
十六人が移る。
桟橋が浮く。
救難船団は水平へ戻る。
森の中央で、音がした。
裂ける音。
白い旧皮が、根の深い線に沿って二つへ分かれる。
右の森は、ルゥの新しい草地へ。
左の森は、ユルの湿地へ。
その間が開く。
ネムのいる村の後半――薄翠と青の色紐をまだ分け終えていない区画が、中央の古皮へ孤立した。
「距離!」とハル。
エリアの返答。
『現在四十リュム。拡大中。路図の印なし』
「船で」
『新地表の隆起。上空風が逆』
「森を橋に」
「もう二つへ分かれた!」とロロ。
裂け目の向こう。
ネムが胸太鼓を一度打つ。
長く。
聞こえた。
まだ賛成ではない。
薄翠の村が、古皮ごと孤立する。
ルゥは向こう側で、前脚を上げたまま待っていた。