第303話 第八章「子獣の背へ渡れ」前編

人は、大きな仕事をする時、自分も大きな役を欲しがる。

 全体指揮。

 総責任者。

 最終決定者。

 村一つの荷を運ぶ者より、国全体を動かす者の方が歴史へ残りやすい。

 しかし、国全体という場所に人は住んでいない。

 人は一つの家、一つの寝台、一つの鍋、一つの墓、一つの怖さを持っている。

「滑走路にする!」

 ハルは裂けた旧皮を指した。

「何を」とロロの伝羽。

「皮!」

「何へ!」

「道!」

「名詞だけで設計ができるか!」

「ネムの村からルゥの背まで、白い帯が残ってる!」

『角度』とエリア。

「下り十二度、途中で九、最後に上り三!」

『幅』

「一番狭いとこ五リュム!」

『長さ』

「七十くらい!」

『くらいを地図へ入れないで』

「六十八! 多分!」

『多分を付けたら戻りました』

「走って測る!」

『肩』

「二!」

『測るだけ。救助は別班』

「現場に人いる!」

『だから役割を分けます』

 ハルは唇を噛む。

 飛び込めば早い。

 自分が一番速い代償になる癖は、治ったのではない。

 使わないたび、少しずつ別の道が増える。

「測る。救助は誰」

 地面が響く。

 ガンガが、巨大な鐘棍を背負って裂け目へ下りてきた。

「俺だ」

「全体指揮は」

「離れた」

「いいの」

「良くはない。必要だ」

「何人、反対した」

「多い」

「数」

「今は数えん」

「逃げた?」

「村一つへ来た」

「それを逃げたって言う人いる」

「いる」

「ガンガは」

「一人で七頭を聞く方が、今は逃げだ」

 胸を二度叩かない。

 全体へ声を広げない。

「俺は、この村を運ぶ」

 全体指揮を離れる、という言葉は、全体から自由になるという意味ではなかった。

 ガンガの伝羽へ、七方向から声が来る。

『北の荷重を誰が承認する!』

『西の水位、判断を!』

『王候補が持ち場を捨てたのか!』

 ハダンの声も混ざる。

『一つの村へ入れ込みすぎるな。七頭全てを聞け』

 ガンガは伝羽を切らない。

「北は黄珠の岩根守。西は青珠の水守。俺の承認を待つな」

『責任は』

「現地判断は現地。交差する危険だけ共有。記録は残す」

『逃げだと言われるぞ』とハダン。

「言わせろ」

『王位を失う』

「今、一つの村が落ちる」

『国全体も落ちる』

「だから、国全体を俺一人の場所へするな」

 伝羽の向こうで、ハダンが杖を鳴らす。

『一刻。村が渡ったら、戻れ』

「命令か」

『期限付きの役割確認だ』

「誰が延長を」

『ネムと現地聞き手』

「成立」

「ミラがいないのに」とハル。

「便利だ」

「使用料、高いよ」

 白い旧皮の帯を、いきなり人で試さない。

 最初の試験荷は、石袋四つ。

 寝台一台と同じ重さへ近づける。

「近づける、でいい?」とハル。

「患者の体重、寝台、薬箱、介助者二」とロロの伝羽。「合計百八十六キル。石袋は一個四十。四つで百六十」

「二十六足りない」

「山羊一頭」

「試験へ山羊を使うな」とハダン。

「荷袋を足す!」

 乾燥土二十。

 水袋六。

 合計百八十六。

 橇へ載せる。

 第一試験。

 押す。

 十二度の坂で加速。

 九度へ入ったところで、橇の左脚が旧皮の鱗目へ引っ掛かる。

 荷が回転。

 石袋二つが裂ける。

「人なら落ちた」とハル。

「設計変更!」とロロ。

 橇の脚を細くする案。

「鱗目へもっと入る」とエリア。

 広くする案。

「摩擦が増える」とハル。

「前だけ広く、後ろ細く」と村の橇職人。

 名は言わない。

 手だけが速い。

「雪橇と同じ」と彼。

「雪?」とハル。

「北の古皮粉。冬に滑る」

「現地技術」とエリア。

「私の設計じゃない」とロロ。

「今、張り合う?」

「記録上!」

 前脚を幅広へ。

 後ろへ方向を保つ細い竜骨。

 第二試験。

 加速は遅い。

 鱗目を越える。

 最後の三度上りで止まる。

「届かない」とハル。

「押しが足りない」とガンガ。

「強く押せば第一試験みたいに回る」

「途中で足拍を入れる」と橇職人。

「乗ってる人が?」

「介助者が、左右の縄を交互に引く。橇の竜骨が向きを直す」

「乗客も操る」

「運ばれるだけにしない」とネムの小板。

 第三試験。

 介助者役はハルとガンガ。

「俺、乗る」とハル。

「肩」とエリア。

「測るだけ!」

「乗るのは測るだけではありません」

「じゃガンガ」

「重すぎる!」とロロ。

 橇職人が乗る。

 自分で作った道具を、自分で試す。

 ガンガが押す。

 力を半分にする。

 橇職人が左右の縄を引く。

 十二度。

 九度。

 旧皮が風で持ち上がる。

 橇は一度浮き、竜骨で戻る。

 三度の上り。

 止まりかける。

 向こう岸の村人が、餌歌の拍で索を引く。

 橇がルゥ側へ着く。

「成立」とガンガ。

「一回」とエリア。「再現確認」

「厳しい」

「人を載せるので」

 第四試験。

 風向きが変わる。

 失敗。

 第五。

 成功。

 第六。

 成功。

 成功率三分の二。

「人を載せられない」とハル。

「風向き条件を付ける」とエリア。「帯の端へ風見布。赤切れ込みが上なら中止」

「色だけじゃなく切れ込み」とミラの遠い声が伝羽へ入りそうな設計。

 風見布を三角へ切る。

 風が変われば形で分かる。

「六回で全部分かったと思うな」と橇職人。

「分からないまま、条件を狭くする」とエリア。

 最初の人を載せるまで、試験は六回。

 時間は減った。

 危険も、分からない形から、止める条件を言える形へ少し変わった。

 王候補が、一つの荷を担ぐ。

 歴史に残りにくい役を選ぶ。

 滑走路にするには、白い帯が滑りすぎた。

 乾いた場所は氷のように速い。

 湿った場所は橇の底を吸う。

 旧皮の血管跡は、横向きの段差になる。

 ロロは現地へ来られない。

 救難船団の桟橋修理と、七枚地図の器具保守。

 だから、伝羽越しに模型を作る。

 木片。

 布。

 匙。

「匙が橇?」とハル。

『匙の丸みが橇底!』

「人を豆にする?」

『豆を人にするな! 重心だ!』

 匙へ豆四つ。

 布を十二度に傾ける。

 滑る。

 途中の湿りへ、匙が止まる。

「本番も止まる」

『布の裏へ細縄を三本。橇底には横じゃなく縦の骨。湿りを切る』

「切ったら皮を傷つける」とラハナ。

『刃じゃねえ! 丸い骨!』

「材質」

『森の仮桟橋の竹肋。先端へ羊毛』

「山羊毛ならある」と村人。

 山羊十二頭が、こちらを見ている。

「抜く?」とハル。

「生きた山羊から今?」

「刈る」

「脱皮中に散髪か」と祭司長。

「毛が目へ入ってる」と羊飼いの少女。

 少女は山羊へ近づく。

 前から触らない。

 肩へ声を掛け、首の下を撫で、毛刈り鋏を見せる。

「使うよ」

 山羊が嫌がれば別の個体へ。

 三頭から少しずつ。

 十二頭全部を同じ量だけ刈らない。

「山羊にも選ばせる?」とハル。

「逃げなかった子から」と少女。

「逃げられない綱では」

「綱を緩める」

 災害中に、山羊の同意という大きな言葉は使わない。

 逃げる余地を残す。

 人間ができるのは、その程度かもしれない。

 羊毛を橇底へ巻く。

 試験荷。

 人ではなく、空の水樽四つ。

「壊れていい物?」とハル。

「空でも樽は必要」と村人。

「じゃ何を」

 祭司長が王像の台座を指す。

「石」

「大事じゃない?」

「像はもうない」

「台座は」

「王を置くための物だ」

「また置く?」

 祭司長は答えない。

「今は、橇を試す重りにする」

 王の台座を四つに割る。

 歴史を壊したのではない。

 石として使うことを選んだ。

 橇へ載せる。

「押す」とガンガ。

「半分!」とハル。

「まだ押してない」

「半分の練習!」

 ガンガは指一本で押す。

 橇が動かない。

「半分以下」とハル。

「力の単位が分からん」

「豆一個分」

「俺を匙の模型へ入れるな」

 指二本。

 橇が滑る。

 乾いた区間を越え、湿りで一度遅くなる。

 丸い骨が皮を切らず、水膜だけを分ける。

 最後の上り三度で止まる。

「足りない」とハル。

「上りで引く索」とロロ。

『ルゥ側へ二本。一本は人、一本は荷。切れた時に両方落ちない』

「二本を同じ場所へ?」

『別の根!』

 ルゥの背へ、自然脱落した角皮の突起が二つ。

 ラハナが痛覚反応なしを確認。

 索を取る。

 試験二回目。

 石台座がルゥの背へ届く。

 誰も歓声を上げない。

 次は人が乗る。

 成功を祝うより、失敗条件を読む。

「乾燥区間、速度六。湿り、二。上りで索張力三十。帯が十五度を越えたら中止」とロロ。

「今十二」とエリア。

「残り三度」

「時間で」

「地面へ聞け!」

「地面は時刻を答えない」

「なら二十七台、先に行け!」

 百三十七人。

 橇二十七台では足りない。

「往復」とハル。

「帯は一方向。戻りは人だけ走る」

「俺が戻す」

「肩」

「走るだけ」

「回数上限」

「五」

「三」

「四」

「三」

「交渉成立?」

「成立じゃなく命令!」

「エリアは命令する?」

「安全条件です」

「長い命令」

「三往復」

 ハルは頷く。

 三回後、別の走者へ地図札を渡す。

 自分だけが道を知る形にしない。

 孤立した古皮には、百三十七人。

 ネム。

 祭司長。

 墓守。

 種袋。

 寝台三。

 山羊十二。

 ルゥの背までは、裂け目六十八リュム。

 百三十七人分の荷は、百三十七通りではなかった。

 家族で一つ。

 個人で一つ。

 村全体で一つ。

 誰の物か分からないもの。

 最初に減らされたのは、祭務会館の長机だった。

「会議に要る」と祭司長。

「板だけ外す」とロロの伝羽。

「脚も要る」

「新地で作れる!」

「この脚へ歴代祭司の名が」

「名板を外せ!」

 祭司長は机の裏を見る。

 確かに名が刻まれている。

 脚ではなく、裏板へ。

「知らなかった」と彼。

「守ると言った物を、見てなかった?」とハル。

「儀式では上しか見ない」

「上に何」

「議題」

「下に歴史」

「言葉遊びか」

「机がしてる」

 裏板だけを外す。

 長机の天板は橇の滑り板へ使う。

 過去の会議を支えた板が、今度は村人を運ぶ。

 各人へ、持てる重さが伝えられる。

 歩ける者、十キル。

 橇へ載る者、私物二キル。

 寝台患者、医療物資を優先。

「二キルで人生を選べと」と男。

「人生じゃない。最初の移動で持つ物」とネム。

「置いたら盗まれる」

「戻れないかもしれない」

「なら人生だ!」

 ハルは反論しない。

「何を持ちたい」

 男は木箱を開ける。

 衣服。

 工具。

 亡父の角飾り。

 娘の最初の靴。

 税の領収札。

「領収札は」とハル。

「土地を払った証拠」

「土地が動いても?」

「だから要る」

 重量は軽い。

 問題は、制度がその紙を後で認めるか。

 セレナが写しを取る。

「原本は本人。写しを七地域共有記録へ。税権利の有効性は現時点で未決」

「今、言い直した?」

「記録は訂正できます」

 男は領収札、工具一つ、娘の靴を選ぶ。

 角飾りは置く。

「亡父より娘?」と誰か。

「比べるな」と男。

 選んだ順番が、愛の順位になるわけではない。

 墓地の土は、一握りずつ布へ入れる。

 全員が持つわけではない。

「土を持てば墓を運んだことになる」と言う者。

「ならない」と言う者。

「死者は場所へいる」と残る者。

「名前を持てばよい」と離れる者。

 祭司長は中央命令を待ちながら、自分の母の墓土を取らない。

「なぜ」とハル。

「母は、生きている私が行く場所へ付いてくる人ではなかった」

「仲悪い?」

「良かった」

「じゃ」

「良かったから、勝手に連れていかない」

 他の家族は、逆の理由で土を持つ。

 同じ愛情から、違う行動が出る。