第310話 第十一章「国の形が変わる」後編
死亡確認十一名について、セレナは数だけを読み上げなかった。
名を公表する許可のある者は名。
ない者は、家族へ伝達済みという事実。
身元未確認は、衣服、持ち物、発見場所。
薬種屋の赤箱を運んだ若い守備兵が一人。
西湿地の水門で、子どもを押し上げた後に流された者が一人。
南港の索を切る途中で、旧皮へ巻かれた船員が二人。
英雄とは呼ばない。
事故原因と、誰がその危険を割り当てたかを別に調べる。
「死者を良い話へしないのか」と上席書記。
「良い話を禁じません」とセレナ。「それで原因を閉じることを禁じます」
「遺族が誇りを求める場合は」
「本人と遺族の言葉を記録する。国家が先に意味を決めない」
ハルは、薬種屋の老女へ目をやる。
彼女は赤箱を膝へ置き、守備兵の名を自分の帳面へ書く。
「この人、薬の瓶が重いって笑ったかい」と老女。
「俺が言った」とハル。
「じゃ、あんたの言葉も書く」
「英雄の台詞じゃない」
「死んだ人の最後を、立派な言葉だけへするな」
ハルは頷く。
記録は墓ではない。
墓に入らない会話も残せる。
救難費の帳簿は、ミラが持ってきた。
赤字。
実際に赤い字ではない。
ミラには赤と緑の区別が難しい。
欄外へ斜線三本。
「フリー・ライン、六百八十七ルク不足。帆布、薬、義足接合材、船首像の腕二本、塩箱一、無償労働――無償って書くと美談になるから、未精算労働百二十七刻」
「救助された人へ請求するのか」と書記。
「しない」
「では誰へ」
「七地域の共同救難費。払えない地域は労働、物資、後日の通行優先権。ただし救助された個人の債務へしない」
「契約へ署名していない」
「だから、今から救助の条件として署名させない。費用を公開して、払う側が参加する」
「善意でよいでは」
ミラの風鈴が鳴らない。
「善意って言葉で、誰が布を買ったか消すな。無料は、重さがないって意味じゃない。受け取った人へ値札を付けないって意味だ」
パルが机の下から言う。
「ミラ、ありがとうだけでいい時ある」
「今その試験?」
「今、みんな助かった」
「まだ所在不明四本」
「じゃ、あとで」
「保留」
「逃げた」
「分類した!」
青旗船と橙旗船の船長は、同じ帳簿へ署名しない。
代わりに、別々の頁へ同じ費目を書く。
救命共同の費用を、統一船団の成立へ利用しない。
二つの帳簿は、中央索で一時的に結ばれる。
紙が濡れても、結びが残る。
結びだけでは金額が分からない。
両方を残す。
政治の会議は、救難の後に始まった。
疲れた者ほど、短い答えを欲しがる。
「ガンガを王へ」
最初の発言は、北岩根の代表だった。
「七頭を救った」
「一人でではない」とガンガ。
「王獣鈴を鳴らした」
「七地域が鳴らした」
「最後に支えた」
「俺は途中で倒れた」
「謙遜は王の美徳だ」
「事実を美徳へ変えるな」
ガンガは裸足で、動く駅の床を一度踏む。
七方向から異なる振動。
一つの国の床ではない。
「俺は即位しない」
ざわめき。
「王位を捨てるのか」と祭司長。
「捨てるには、俺の物である必要がある」
「候補として選ばれた」
「一頭の王を前提にした候補だ。今は七頭いる。七地域の行き先も別だ。前の選び方のまま冠を載せれば、七つを一つへ戻せという命令になる」
「では国がなくなる!」
「形が変わる」
「言葉遊びで民は食えん!」
「だから食料、水、医療、交差路を先に決める。国名と王冠は後だ」
ハダンが三叉杖を鳴らす。
「王がいなければ、次の脱皮で誰が決める」
「各地域が、自分の背のことを決める」
「七地域がぶつかる時は」
「交差する部分だけ、七地域で決める」
「遅い」
「期限を付ける」
「全員が拒否したら」
「共同行動をしない」
「しなければ二地域が落ちる時は」
ガンガは即答しない。
以前なら、王の権限が必要だと言っただろう。
「救命の最小行動だけ、現場拍守が決める。期限と終了条件を先に書く。土地の所属、税、王位まで一緒に決めない」
ハダンの右膝が痛む。
彼女は座らない。
「現場拍守は一人か」
「一地域三人。命令を出す者、異議を聞く者、記録する者。三役を同じ人へ集めない」
「遅い」
「訓練する」
「失敗する」
「俺一人でも失敗した」
言葉が止まる。
ハダンには、反論がある。
同時に、過去の追放者の名がある。
「試す」と彼女。「七日。七日後に自動で失効。続けるなら、各地域がもう一度決める」
「成立」とハル。
「お前が決めるな」と七人が言った。
「今のは引用!」
「許可は」とミラ。
「本人がいる!」
「一ルク」
「高い!」
「市場価格」
笑いが起きる。
拍手にはしない。
ネムが灰色の円を床へ描く。
七地域の代表席。
各席の後ろに交代者席。
中央には、何も置かない。
議題ごとに、最後の七拍を無言にする。
沈黙を賛成へ数えない。
席を離れた地域を、欠席同意へしない。
救命の共同負担だけは、個人の署名資格と切り離す。
土地、墓、税、国境、王位は、今日決めない。
「決めぬことも決めたことだ」とハダン。
ネムが小板へ書く。
『今日は、その意味を間違えていない』
「明日は」
『監査』
「可愛げがない」
『制度に不要』
ガンガは、自分の王冠候補帯を外す。
捨てない。
七席の外、記録棚へ置く。
「保留」と言う。
「ミラが増えた」とハル。
「分類は便利だ」
「契約料」とミラ。
「燻し根菜」
「まだその通貨!」
暫定会議は、成立した直後に試された。
西水盆から、発熱者百四十。
東塩路には解熱根がある。
ただし塩風で乾かす途中で、今運べば三割が傷む。
北黒棚には保温炭。
南断崖雲には船。
赤隆起には保存壺。
四地域の物を一つへ集めれば、薬を運べる。
「命令を」と西代表。
全員がガンガを見る。
ガンガは見返す。
「議題を言え」
「東の薬を西へ」
「それだけか」とエリア。「必要量、損失、返却、東の患者分」
薬師が計算する。
「五十束。運搬損失十五束。東の予備を下回る」
「全部は出せない」と東代表。
西代表の顔が歪む。
「人が熱で」
「東にもいる」
「人数は西が多い」
「多い方へ全部なら、少ない者は毎回後だ」
正しさが衝突する。
ネムが七拍の沈黙を置く。
発言しない者の反対余地〈サイレント・ビート〉。
一拍。
二拍。
五拍目で北代表が手を上げる。
「保温炭を増やせば、運搬中の傷みを一割へ落とせる」
六拍目、南。
「船は出す。ただし帰路で西の湿草を東へ運ぶ」
七拍目。
赤代表は何も言わない。
「賛成ではない」とネム。
赤代表が頷く。
「保存壺を出せば、うちの種壺が減る。今は数を確認できない」
「では壺なしで」と西代表。
「損失が増える」と薬師。
ガンガは命令しない。
「二十束を先に運ぶ。壺は既存五。北炭を追加。二時間後に西の熱と東の残量を再確認。次の三十束は、その数字で決める」
「誰の案」とハダン。
「今、出た条件を並べた」
「王の裁定では」
「提案だ」
七地域が一つずつ答える。
賛成五。
保留一。
反対一。
「全会一致ではない」と上席書記。
「反対地域へ負担を課していない」とネム。
反対した赤地域は、保存壺を出さない。
それでも薬運搬を妨げない。
二十束が駅へ載る。
制度は最初から美しく動かなかった。
だが、誰か一人の怖さを全地域の命令へ変えず、最初の薬は出発した。
日没前、動く駅は最初の解体へ入った。
約束どおり、一日で外す。
ロロが浮き桟橋の下へ潜る。
「右嚢、空気抜く! 左はまだ!」
補助腕が三本。
四本目は喘息薬の吸入器を持つ。
「呼吸」とハル。
「二!」
「交代」
「あと留め具一つ!」
「三になってからじゃ遅い!」
「お前に言われると腹立つ!」
「教育の成功」
「自称すんな!」
ロロは浮き嚢の圧を抜く。
その時、床下から音が返った。
鐘。
一つではない。
七つ。
近いのに、遠い。
「王獣鈴の欠片は」とロロ。
「ゼロスター号の三重箱」とセレナ。
「じゃ、下の音は別だ」
ノクスが床の上で七枚の石片を並べている。
いつものように一枚を外そうとする。
右の尾が止まる。
一枚ではない。
七枚全部の下から、同じ振動が来ている。
「ノクスは答えにしない」とハル。
「分かってる!」とロロ。「荷重表! 旧皮板の密度、ここだけ低い!」
エリアが七枚地図を重ねる。
中央は空白。
その空白の真下に、旧皮の七列浮力嚢が集まっていた痕。
「空洞」とエリア。
「前から?」
「新層ではなく、古皮の内側。脱皮で外へ出た」
セレナが証羽を開く。
「切断痕なし。人工扉あり。開閉摩耗は古い。封印文は」
文字が剥げている。
ガンガは読めない。
祭司長が近づく。
「王を呼ぶ鈴、ではない」
「何と」とネム。
「王が分かれる時、七つの道を忘れぬための器」
「伝承にあったか」とハダン。
「歌の末尾。『王の耳、地へ伏せる』。王冠を伏せる比喩だと思われていた」
「思われていた、は誰が」とセレナ。
「祭務の注釈」
「原文と注釈を分けて記録します」
扉を開く。
無理にこじ開けない。
七地域から一人ずつ、開けることへ同意する。
反対は二地域。
「中身が危険なら」と北代表。
「閉じたまま、空洞ごと運べない」とロロ。
「開けた後に所有を主張する者が出る」と西代表。
「所有は別議題」とガンガ。
「別にしたまま奪われる」
ミラが風鈴を鳴らす。
「七つの封印札。開ける鍵は一つにしない。開封記録を七冊。物が出ても、持ち主を今決めない」
「空賊の提案か」と書記。
「盗まれ方を知ってる専門家」
反対した二地域は、条件付き保留へ変える。
扉が開く。
白い古皮の粉が落ちる。
空洞の奥へ、黒銀の金属が横たわっていた。
鐘とも、角とも、巨大な耳骨とも見える。
人の背丈を越える弧。
七本の深い溝。
中央に、一片だけ欠けた場所。
ゼロスター号の三重箱が、遠くで鳴った。
箱の中の欠片と、空洞の金属が、同じ間隔で七度震える。
第二の天鍵たる王獣鈴〈ビースト・ベル〉。
完全な器は、王宮の宝物庫になかった。
王の死体の奥でもない。
国が一つの形を失い、七つの道へ分かれた後、古い皮の内側から現れた。
誰も勝利品へ手を伸ばさない。
七地域の代表が、同時には近づかない。
ガンガは冠を置いたまま、鈴の前へ座る。
「これも、今は保留だ」
王獣鈴は返事をしない。
七本の溝へ残った風だけが、七つの異なる長さで鳴った。