第311話 第十二章「王獣鈴と七重の反響」前編
大事件の翌朝にも、朝食は必要である。
歴史書は王の即位を一行で書き、国の分裂を一頁で書き、戦争の終結を年表へ置く。
その翌朝、誰が鍋を洗ったかは、たいてい書かない。
しかし人が暮らしへ戻れるかどうかは、国名より先に、火が点くか、水が沸くか、薬が足りるか、眠った子どもを起こさず毛布を直せるかで決まる。
歴史が大きな言葉を選ぶ間も、生活は小さな仕事を止めない。
「七つに割るな!」
ロロが叫んだ。
「もう割れた!」とハル。
「パンの話だ!」
ゼロスター号の食堂。
円い固焼きパンが一つ。
皿は六枚。
客員席を入れれば七人。
ノクスを数えれば八。
ハルは、反射的に七切れへ分けた。
ノクスが一切れを前脚で外した。
「ほら!」とロロ。「七個置くと一個外す!」
「じゃ八切れ」
「最初から!」
「パンは元へ戻らない」
「リメイクで」
「食べ物へ術を使うの?」
「使わねえ! 本来動作が何だよ!」
「腹へ入る」
「切ったパンの本来動作を勝手に決めるな!」
エリアはスープを八つの器へ分ける。
「均等ではありません」
「見れば分かる」とカイル。
彼の器が最も少ない。
「負傷者は多く食べるんじゃ」
「薬を飲む量だけ。寝台へ横にならない人は消化負担を減らします」
「罰?」
「調整」
「愛情が乾いている」
「湿ると咳が出ます」
エリア自身の器も少ない。
呼吸一。
右踵一。
左踵一。
休んだ。
休んだから、地図板へ手を伸ばす。
ハルが先に板を遠ざける。
「食べてから」
「更新が」
「現地の七人がしてる」
「検証を」
「食べてから」
「命令?」
「お願い」
「具体的に」
「スープ半分。パン八分の一。呼吸が二になったら中止」
「成立」
ミラが扉から入ってくる。
「私の言葉、使用料」
「また!」とハル。
「今のはエリアだから割引」
「差別」
「信用価格」
「いくら」とエリア。
「地図板一枚の写し」
「用途」
「フリー・ラインの寄港図。七地域のどこが救難費を負担できて、どこが今は受け取る側か、中央を作らず描きたい」
エリアは即答しない。
「写しは渡します。更新権は共有。自由港だけが原図を持たない」
「高い」
「値切りますか」
「成立」
「早い」とハル。
「良い契約は短い」
ジルが後ろから言う。
「短くて濡れても残る契約は、もっと良い」
「紙の匂い嗅いだ?」
「朝食前に嫌な話をするな」
パルは机の下へいる。
匙を一本握っている。
「それ、ここの?」とハル。
「知らない」
「盗った?」
「安全か試した」
「何で匙」
「ご飯食べた後、値段言う家は危ない」
「ここは」
パルは少し考える。
匙を机の上へ戻す。
「まだ来る」
「誰が」
「次の人」
皿の端へ、パンを一口分置く。
まだ来ていない仲間分。
客員席には、ガンガの巨大な鐘棍が立て掛けられている。
椅子へ座れない大きさだったため、ロロが背板を外し、座面を二枚つないだ。
「客員席が毎回別物になる」とロロ。
「人が違うから」とエリア。
「椅子を人へ合わせるの、普通なのに」とハル。
「王宮では人が椅子へ合わせる」とカイル。
「王座、座りにくい?」
「ものすごく。肘掛けが権威の幅で、腕の幅じゃない」
「直せば」
「国へ帰って議題にする」
「王族後乗りより先?」
「いや」
カイルは冗談を止める。
「先に、避難時の乗船順位。王族、高官、船員、患者。全部の順番と、変える条件と、誰が出航を決めるかを公開する」
「反対される」とセレナ。
「される」
「お父上」
「する」
「勝てますか」
「勝つって言葉にすると、父上が敵になる。制度を変える。父上は反対者の一人だ」
「珍しく言葉が長い」とハル。
「歴史へ持ち帰る荷物は、短くすると壊れる」
朝食の途中にも、七地域から伝羽が届く。
北黒棚。
『患者棚の傾き、一・二度まで修正。楔材不足。石はあるが削る刃がない』
西水盆。
『水位、夜間に二セム上昇。白皮堤は持つ。飲用水と田水を分ける桶が不足』
赤隆起。
『流れた豆種、八割回収。混じった小石を子どもが畑境へ並べた。勝手に動かすなとのこと』
高風林。
『吊り家二十七、外縁へ仮設。風膜鹿の通路を一つ塞いだため、昼までに三家移動』
東塩路。
『口覆い布、二百枚不足。乾燥薬は守った。喉痛み、増加なし』
南断崖雲。
『係留船十三。港税の扱い未決。救難船へは徴収しない。いつまでを救難と呼ぶか協議中』
若草地。
『地面を試した者、四十二。ルゥの背へ残った者、九十五。恒久降下、未決』
「順調」とハル。
「七件を一語へ圧縮しないでください」とセレナ。
「じゃ、だいたい生きてる」
「生存と生活再建も分けます」
「朝から言葉が厳しい」
「朝だからです」
ガンガからは、もっと短い報告。
『北棚、一村を聞いた。二人が途中で席を立った。追わず、午後に別の聞き手が行く。未解決』
ネムからは、七行の板写し。
一行目、北棚の質問。
二行目、答え。
三行目、異議。
四行目、修正案。
五行目、空白。
六行目、次に話す時刻。
七行目、記録者の印。
「五行目、送信失敗?」とハル。
「無言の反対余地です」とエリア。
「伝羽に空白を送るの、ぜいたく」
「空白を削ると、賛成だけが速く届きます」
ロロは七つの不足品を工具箱の蓋へ書く。
刃。
桶。
種ふるい。
吊り索。
口覆い布。
係留標。
地面試験杭。
「全部、ゼロスターで運ぶ?」とハル。
「船一隻を新しい中央倉庫にするな」とロロ。「各地域同士で交換できる物を先に繋ぐ。北の刃は南の船工。西の桶は赤の保存壺工。東の布は高風林の織り手」
「俺たちは」
「足りない接続だけ」
助ける側が何でも持つと、助ける側が中心になる。
ゼロスター号は七つの不足を全部積まない。
代わりに、誰が何を余らせ、どの道なら運べるかを一枚ずつ返す。
空域が七方向へ分かれた翌朝、最初に運ばれたのは王冠でも国旗でもなかった。
桶と、刃と、布だった。
脱皮から三日。
所在不明は百七十四から、九へ減った。
名簿の重複。
別路への移動。
匿名乗船。
家族へだけ知らせた者。
残る九人は、数字のままではない。
最後に見た場所。
持ち物。
歩行条件。
本人が名を公表したくない可能性。
中央索の四本も調べられた。
二本は同じ人物が二隻分を持っていた。
一人は義足を抱えた老女で、降りる時に輪を返さず杖へ結んでいた。
一人は名前を言わない男の木箱へ付いていた。
最後の一本だけ、持ち主が分からない。
青三つ編み。
木片一つ。
端へ小さな歯形。
パルはそれを切らない。
「死んだって決める?」とハル。
「決めない」
「生きてるって」
「決めない」
「待つ」
「探す」
待つと探すは同じではない。
結びは、動く駅の連絡板へ残された。
名を求めない。
目撃情報は求める。
空欄は、無関心の穴ではなく、まだ書き込める場所になった。
動く駅は、三日目には市場に似始めた。
誰かが塩豆を並べた。
誰かが濡れた靴を干した。
子どもが旧皮板へ七頭の絵を描き、ナアだけ角を八本にした。
「多い」とネム。
「強そう」と子ども。
「嘘」
「絵」
「嘘の絵」
「想像!」
ハルが割り込む。
「想像は嘘?」
『本物だと言えば』
「本物じゃないって分かるように描けばいい?」
子どもはナアの横へ、小さく書く。
『ほんとうは一本』
角八本の王獣は、そのまま残された。
駅の連絡板には、命令より生活の紙が増える。
『西水盆、乾いた寝具を求む』
『東塩路、湿りを求む。薬草棚が乾きすぎ』
『北黒棚、石工二名貸せる。代わりに温湯』
『赤隆起、種豆を拾った子どもへ返礼の石を用意』
「返礼が石?」とハル。
「次の畑の目印」とエリア。
「もう意味がある」
「意味は後から付くこともあります」
「先に付けると」
「土地を縛ることも」
ハルは地名札を見る。
仮。
十四日。
更新日。
どの札にも、永久とは書かれていない。
人は仮設の場所でも恋をし、喧嘩をし、豆を焦がす。
仮だから本気で暮らさない、とはならない。
むしろ明日変わるかもしれない場所では、今日の鍋を洗う手が必要だった。
ハルは洗い桶へ腕を入れる。
「左肩」とエリア。
「一」
「洗える量」
「八枚」
「六」
「交渉?」
「安全条件」
「成立」
六枚目で、エリアが残り二枚を洗う。
手伝ったとは言わない。
分担表を更新しただけ、という顔をしている。
七地域は、地名を決めなかった。
正確には、仮名だけを決めた。
北黒棚。
西水盆。
赤隆起。
高風林。
東塩路。
南断崖雲。
若草地。
「そのまま」とハル。
「今の特徴だけ」とエリア。
「詩がない」
「所有の物語を先に入れないためです」
「『英雄ガンガが救った緑の王土』とか?」
「最悪だ」とガンガ。
彼は髪へ七本の細い毛房を編んでいる。
ナアの灰緑。
ユルの青緑。
カラの赤茶。
セトの深緑。
ミイの白。
ドゥの紫黒。
ルゥの薄翠。
一つの太い房にしない。
七本を並べ、途中だけ細い結びでつなぐ。
「王冠より似合う」とハル。
「王冠を見たか」
「候補帯」
「違う」
「似てる」
「お前の赤い布を首輪と言うようなものだ」
「これはマフラー」
「違いを説明しろ」
「首輪は誰かが付ける。マフラーは自分で巻く」
「なら、候補帯は長老たちが付けた」
「外した」
「今は保留棚」
「じゃ、王冠じゃない」
「最初からそう言った」
「言葉で勝った顔」
「顔を証拠にするな」
「流行語」
ガンガは笑う。
胸を二度叩かない。
考えるための拍を、自分だけの合図へ戻している。
「即位しないで、何する」とハル。
「七地域を回る」
「王じゃなく」
「聞き手」
「全員の拍を」
「一度には聞かん」
「聞き落としたら」
「戻る」
「間に合わなかったら」
「別の聞き手へ頼む」
「ガンガ一人じゃなくていい」
「一人でない方が、王より難しい」
「どうして」
「失敗を誰かのせいへしやすい」
「じゃ記録」
「セレナが喜ぶ」
「喜びません」と遠くから声。
「聞こえてる?」
「記録上必要です」
「やっぱり教育が悪い」とエリア。
王獣鈴の共同保管札を作る会議は、救難会議より長かった。
危機が去ると、人は所有を話す余裕を取り戻す。
「王家の祭具」と中央祭務。
「七頭の身体から出た」と七脈院。
「自由港が欠片を運んだ」とミラ。
「買ったのはゼロスター号」とロロ。
「買ってない」とハル。「競売で護送した」
「護送費は未精算」とミラ。
「今そこ?」
「所有の話で費用を消すな」
「地球から来たハルが天鍵を集める」と王脈院の一人。
ハルは首を横へ振る。
「集めるけど、俺の物にはしない」
「矛盾しています」
「持っていくのと、持ち主になるのは違う」
「持ち去れば同じです」
「じゃ、持ち去らない」
会議が止まる。
ロロが顔を上げる。
「何」
「必要になるまで、ここへ置く?」
「次の空域への反応を確かめるには、船へ近づける必要が」
「じゃ、一緒に運ぶ。船に預ける。でも所有欄は空白」
「空白では法的責任が」
「保管責任は書く。所有を今決めない」
エリアが透明板へ欄を分ける。
所有者。
保管者。
使用承認者。
運搬責任者。
停止を求められる者。
記録者。
一つの「持ち主」へ全部を入れない。
暫定十四日。
保管場所――ゼロスター号船腹懸架架。
運搬――ゼロスター号。ただし航路変更時、七地域へ観測事実を送る。
使用――観測のみ。命令出力禁止。
承認――七地域のうち五地域と、保管船、外部記録者。
停止――一地域でも具体的危険を示した場合、一度停止して再検討。
所有――未決。
「五地域で使えるなら、二地域を無視できる」と西代表。
「停止権を一地域に」とネムの小板。
「悪用される」と中央書記。
「使う権限は広く、止める権限は狭く?」とハル。
「逆です」とエリア。「使用には複数。停止は一地域でも可能。ただし理由と再検討期限を公開」
「一人で永遠に止められる?」
「二十四刻で再審査。停止した地域が参加できない場合、危険条件が消えたかを外部記録者が確認」
「複雑」とガンガ。
「複雑な物を、一人の王へ預けて簡単にしてきた」とネム。
「文字で長い」
『読む』
「練習中だ」
ガンガは一行ずつ読む。
都市人より遅い。
誰も代わりに要約しない。
読めないことと、同意できないことを同じにしない。
最後に、ハルへ札が渡される。
「名前」と書記。
「どこへ」
「運搬責任者」
「俺一人?」
「船長はロロ」
「船長じゃねえ、機関士兼整備士兼操舵代行!」
「長い」
「役職を勝手に減らすな!」
ハルは自分の名の横へ、全員の名を書かない。
『ゼロスター号乗員。各役割は船内台帳参照』
「逃げた」とミラ。
「分けた」
「少し成長」
「上から」
「義足分高い」
「物理で返すな!」
共同保管札は七本。
色だけでなく、切れ込み、穴、結び目の形を変える。
ミラにも読める。
文字を読めない者にも確認できる。
視力の弱い者は触れて分かる。
七本を一つの束へ固めない。
王獣鈴の七溝へ、一地域ずつ別の位置で結ぶ。
ハルは最後の札を付ける。
所有欄は空白。
空白は、誰でも奪ってよいという意味ではない。
まだ誰の物と決めていないことを、全員が見張る欄だった。