第323話 第六章「裏面の温度」前編

機械には、表と裏がある。

 表は、使う者へ向く。

 裏は、直す者へ向く。

 時計の表には時刻があり、裏には歯車がある。

 船の表には甲板があり、裏には竜骨がある。

 王座の表には王が座り、裏には税と労働と、座りにくい肘掛けを作った職人の名前がある。

 表だけを見れば、機械は魔法に見える。

 裏だけを見れば、人間は部品に見える。

 ロロ・ピクスは、裏を見る仕事で生きてきた。

 だから裏を見せたくない者の気持ちが、最初は分からなかった。

「裏を見なきゃ直せねえ」

「裏を見られたら、直った後に暮らせない」

 ロロとサミラは、青枠鏡の前で向かい合っていた。

 ロロは十四歳。

 サミラは三十代半ば。

 身長差はある。

 声量差はない。

「入口と出口の刻印だけだ!」

「刻印の横に、家名と拒否名がある」

「読まねえ!」

「読める位置に目がある」

「目を閉じる!」

「工具を持って?」

「ゴーグルを遮光にする!」

「右だけ度が入ってるでしょう」

「何で知ってる!」

「表を見た」

「……表だけで分かることも多いな」

「そう言っている」

 四本の補助腕が、本人より先に垂れた。

 ロロは鏡の縁へ手を伸ばしかけ、止める。

 許可なしに触らない。

 工房でなら、故障品を持ち込んだ時点で分解許可があると考える。

 ここでは、鏡は道具であり、家であり、帳簿であり、墓である。

「お前ら、故障した家へ住んでるのか」

「あなたたちは、故障した国へ住まない?」

「住んでる」

「同じ」

「同じにされると腹立つ」

「似ているだけ」

「教育が悪い」

 ハルが横から言う。

「それ、便利な言葉になってない?」

「元はお前らだ!」

 ロロは工具箱を開く。

 触れずに測る物だけを出す。

 細い風車。

 温度で反る二枚金属。

 砂粒の流れを見る黒布。

 塩露を受ける紙。

 鏡の縁へ差す薄い板。

 最後に、丸い銅箱。

「焼きプリン」とハル。

「何で分かった!」

「焦げた砂糖みたいな色」

「温度差を見る私物だ。冷たい方へ白、熱い方へ茶色の線が出る」

「公共機器じゃないから食べ物名」

「そうだ!」

「筋が通ってる」

 リゼが銅箱を覗く。

「構造は?」

「二種の金属板と鏡砂虫の偏光膜。触れずに放射熱を見る」

「精度」

「〇・三度」

「校正」

「朝、沸騰水と夜砂で」

「記録」

「ある」

「見せて」

「一ルク」

「王族価格?」

「学生価格」

「殿下って呼んだら値上げする?」

「倍」

「じゃリゼで」

「成立」

 ユノがヴァイオリン・アルマを胸へ抱えた。

「ロロ、君の工具を私の楽器へ向けないでください」

「温度見るだけ」

「前に『見るだけ』で裏板を三枚外した人の言葉は弱い」

「音がこもってた!」

「外交式典の最中に直さないで」

「壊れた音で外交する方が悪い!」

「音の歪みを含めた演出でした」

「故障を芸術へ逃がすな!」

「兄さん」とリゼ。「あれは故障」

「家族にも逃げ道がない」

 ユノは楽器ケースを自分の背後へ置く。

 鏡には背を向ける。

 ロロには正面を向ける。

「警戒の方向が明確」とセレナ。

「記録しないでください」

「行動事実です」

「感情は」

「推定としても書きません」

「少し寂しい」

「では本人の申告を」

「楽器を勝手に分解されるのが怖い」

「記録しました」

「言わせるのですね」

「証拠のない感情も、本人が話せば本人の言葉です」

 ロロが工具箱を一歩下げる。

「勝手に触らねえ。必要なら聞く」

「ありがとうございます」

「代わりに、弦一本の古い切れ端」

「何に」

「鏡の振動試験」

「切れた日付ごとに保管しています」

「一番古いのでいい」

「古い方が高い」

「何で!」

「記憶価格」

「物へ感情を貼るな!」

「君が工具へ食べ物の名を付けるのと同じでは?」

「同じにされると腹立つ!」

 サミラが黒縄を机へ置く。

「似ているだけ」

「この国、それ流行ってる?」

 鏡裏検査には、順番が作られた。

 一、持ち主を探す。

 二、救難に必要な情報を説明する。

 三、どこまで見せるかを持ち主が選ぶ。

 四、持ち主自身が鏡を回す。

 五、ロロは役割印を読まず、温度、砂、塩露を測る。

 六、必要なら持ち主が役割印だけを口頭で読む。

 七、借金、拒否名、死者名は記録しない。

 八、検査後、鏡をどの向きへ戻したか本人と別の一人が確認する。

「八つ」とノクス。

 黒い小獣は、手順札を八枚並べる。

 一枚を外そうとして止まった。

「七じゃないから迷ってる」とハル。

 ノクスは八枚目ではなく、ハルの靴を外へ引いた。

「俺が手順外?」

「先に触るからでは」とエリア。

「まだ触ってない」

「顔」

「顔を証拠にしない!」

 第一鏡の持ち主は、老夫婦。

 裏へあるのは家名、塩借り二袋、通行拒否一名。

「拒否名、見られたくない」と妻。

「読まねえ」とロロ。

「夫は読めない」

 夫は視力が弱い。

 妻が印を読む。

 ロロは鏡の裏へ背を向け、銅箱だけを後ろへ差し出す。

「手が後ろ向きで器具見える?」とハル。

「補助腕の感覚で分かる」

「便利」

「便利って言うな」

 銅箱の白線が右へ寄る。

「出口側、冷たい」

「なぜ」とセレナ。

「鏡裏潮から空気が押し出される。塩露が多い。裏の縁に冷え」

 黒布を近づける。

 砂粒が鏡から外へ流れる。

「出口」とエリア。

 妻が役割印を読む。

「外向き三角。出口」

「一致」

 リゼが鏡表へ、触覚札を付ける。

 尖った一つの突起。

「表へ印を付けるの?」と妻。

「救難中だけ。嫌なら外せる」

「敵に読まれる」

「触らないと分からない小ささ。色も鏡砂と同じ」

「子どもが分かる?」

「教える」

「字が読めない人」

「触れる」

「手袋」

「三角は厚くする」

 妻は札を指でなぞる。

「救難中だけ」

「期限、二日。延長は本人同意」

「成立」

 第二鏡。

 持ち主は、若い男。

 裏を見せない。

「理由は要りません」とセレナ。

「でも水路」とサミラ。

「拒否理由を説明する義務はありません。別測定を」

 ロロは表から温度を見る。

 差なし。

 砂は沈む。

 小石は跳ね返る。

「観測面の可能性」

「断定は」

「しねえ。仮札、丸」

 男は黙っている。

 帰り際、ファルへ小さな声で言った。

「あの裏に、母の死者路がある」

 聞こえた者はいた。

 セレナは証羽を伏せた。

 本人がロロたちへ話した言葉ではない。

 見ないことと、聞こえなかったことは違う。

 記録しないことと、価値がないことも違う。

 第三鏡。

 持ち主不明。

「救難中だから強制?」とカイル。

「誰が強制する」とサミラ。

「行政権限を持つ者がいない」

「隊商では、路守が非常時に回せる。ただし後で、持ち主が拒否していたと分かれば、私が損害を払う」

「金だけ?」とハル。

「路守を降りる場合も」

「重い」

「だから勝手に回さない」

 カイルは右籠手を叩かない。

「ルーメンなら、王の印で開けただろう」

「今は?」とエリア。

「期限と監査を付ける。それでも本人不在なら、生命危険の具体性を記録して最小限」

「王子として?」

「救難員としての意見。国へ戻ったら王子として制度へ持ち帰る」

「役割を分けた」とハル。

「成長を毎回数えるな」

 第三鏡は、表試験だけ。

 温度差なし。

 観測面の仮札。

 四枚。

 十枚。

 二十枚。

 入口側は、わずかに温かい。

 砂が鏡へ吸われる。

 塩露は縁の内側。

 鏡面へ近づけた薄紙が、中央へ張り付く。

 出口側は冷たい。

 砂を吐く。

 塩露は外縁。

 薄紙が押し返される。

 観測面は温度差なし。

 砂は自然落下。

 塩露なし。

 薄紙は動かない。

「表だけでも、三種類をかなり分けられる」とロロ。

「かなり」とセレナ。

「百パーセントじゃない。風、日射、直前の通過人数で変わる」

「だから複数証拠」とエリア。

「温度、砂、塩露、音遅延」

「裏刻印は最後」

 サミラの黒縄が少し緩む。

「それなら、見せる家が増える」

「最初から裏全部いらなかった」とロロ。

「あなたが最初に『見せろ』って」

「直す時の癖だ!」

「癖で他人の寝室へ入らないで」

「分かった!」

「本当に?」

「工具を置く!」

 ロロは一番小さなねじ回しを地面へ置く。

「全部」とリゼ。

「全部置いたら測れねえ!」

「一本だけで寝室へ入れる」

「お前、性格悪いな!」

「善意で言ってる」

「それが一番強い!」

 ユノが笑う。

「家族として謝ります」

「本人を謝罪から消すな」とリゼ。

「では、私は笑っただけ」

「笑いも本人」

「逃げ場がない」