第322話 第五章「鈴の遅れ」後編

 音試験は、赤天幕だけでは足りない。

 四十八枚へ広げる。

 隊商民が各鏡へ鈴を持つ。

 同じ音程。

 同じ重さ。

 同じ砂袋。

 全員へ同じ説明をするのは難しい。

 耳が聞こえにくい者には振動板。

 文字が読めない者には三つの絵。

 鏡酔いがある者は、像を布で隠して音だけ。

 裏へ触れたくない家は、表試験だけ。

 ユノの幻を使えば、手順を一度に見せられる。

「使う?」とハル。

 ユノは休憩中。

 弦へ触れない。

「いまは使わない」

「役に立つのに」

「役に立つから、使わない選択も必要です。全員が私の像へ慣れれば、像がない時に動けなくなる」

「さっきの失敗で怖い?」

「怖い」

 完璧な微笑みなし。

「同じ術を使うのが」

「それも。使わなければ責任から逃げられることも」

「難しいな」

「難しいまま、手順を絵へします」

 ユノは紙へ三枚の絵を描く。

 一、鈴を鳴らす。

 二、砂袋を投げる。

 三、聞こえた時に札を上げる。

 絵は下手だった。

 鈴が玉ねぎに見える。

 砂袋が魚に見える。

 人の手が五本指ではなく七本。

「兄さん、絵は演出しない方がいい」とリゼ。

「正直な酷評をありがとう」

「食事の感想だけじゃなく、絵も正直にする」

 ハルが魚みたいな砂袋へ矢印を足す。

「これで」

「飛ぶ玉ねぎになった」とカイル。

「王子、描いて」

「俺は獅子なら」

 描いた獅子は犬だった。

「肖像画より犬歯が大きい」とリゼ。

「王室画家へ言え」

 最終的にエリアが簡潔な図を描く。

 ロロが線を太くする。

 ファルが子どもへ分かる言葉へ変える。

 サミラが鏡裏へ触れない条件を加える。

 手順は、誰か一人の作品ではなくなった。

 ハルは四十八枚を走った。

 走る役は、地図を読まないからではない。

 鏡をくぐった時の段差。

 塩露の冷たさ。

 足元の砂の硬さ。

 出口で最初に聞こえる音。

 彼は一度走った道を、方角ではなく身体で覚える。

「北列三!」とエリアの伝羽。

「北ってどっち」

「黒縄の青結びから三番」

「最初からそう言って!」

 鏡をくぐる。

 白天幕。

 次。

 家畜柵。

 次。

 赤天幕。

「戻った!」

「時刻」

「一時二十八分!」

「入口」

「白縁に欠け二つ!」

「床傷」

「新しい。斜め一本!」

 赤天幕へ戻るたび、同じではない。

 ファルの石が増える。

 水壺が減る。

 砂傷が長くなる。

 日差しが移る。

 時間は進んでいる。

 場所だけが循環する。

 ハルは次へ。

 鏡の中で、ナジュの青鈴が揺れる。

 音は聞こえない。

「待ってろ」

 像へ言う。

「聞こえません」とセレナの伝羽。

「俺が言いたかった」

「記録外の発言です」

「全部記録しなくていい」

「同意します」

 セレナの声が少し柔らかい。

 次の門。

 塩露が多い。

 冷気。

 足元が壁。

 ハルは入らず、砂袋だけ。

 戻る。

「出口向き!」

 エリアの遅延図へ矢印が増える。

 〇・四秒。

 一・一秒。

 無音。

 二・二秒。

 道は、少しずつ有向になる。

 入口から出口へ。

 出口からは戻れない。

 観測面は見るだけ。

「鏡って、全部両方向じゃない」とハル。

「携帯路は、昼夜の熱を逃すため一方向設定が多い」とサミラ。「朝は冷気を入れ、夜は熱を返す」

「生活の空調」

「家畜臭も」

「そこは重要」

 鏡門は、豪華な瞬間移動装置ではない。

 水を運ぶ。

 熱を逃がす。

 病人を担架で通す。

 家畜臭を生活天幕から出す。

 死者を夜砂へ送る。

 文明の大技術は、日常へ入るほど、英雄的な用途から遠ざかる。

 二時十四分。

 ロロの遅延記録器が、一つの異常を出した。

「ゼロ」

「音が出なかった?」とハル。

「違う。鳴らした瞬間、返った」

「反響?」

「器具の誤差」

 セレナが記録器を別の物と交換する。

 二回目。

 ゼロ。

 三回目。

 〇・〇一秒未満。

 対象は、赤天幕の第八鏡ではない。

 循環路の中腹、細い青枠鏡。

 像には、別の鏡が映っている。

 まったく同じ青枠。

 正面から互いを映し、銀色の回廊が無限に続く。

「向かい合わせ」とハル。

「物理的に?」とエリア。

「像だけでは不明」

 砂袋を投げる。

 鏡へ入る。

 同じ鏡の前へ、背後から落ちる。

「戻った!」

「別の鏡を経由して同じ場所へ出た」とセレナ。

「遅延ゼロ」

「実際には短い。器具以下」

「もう一枚はどこ」とロロ。

 青枠鏡の像へ手を振る。

 像の中の自分が手を振る。

 遅れなし。

 ただし右手を上げると、像も右手を上げる。

 普通の鏡なら左右反転する。

 これは向こうにある別の鏡が、こちらを映している。

「相手側から、誰か見てる?」とハル。

 像の奥。

 無限に続く青枠の一つで、何かが動いた。

 青い鈴。

 ナジュ。

 彼女は二枚の鏡の間を何度も通り、床へ傷を付けている。

「循環核」とエリア。

「核?」

「二枚が互いを入口と出口へしている。遅延がほとんどない。周囲の門路が、この対へ流れ込んで戻される」

「だから、どこから入っても赤天幕へ」

「赤天幕が核とは限りません。赤天幕は複数の出口を受けている中継点」

「青枠二枚が、輪の中心」

 ユノは休んだ耳で、鈴のない像を見る。

「見えているのに、音が届かない」

「観測は相互」とリゼ。「通過は別方向」

「ナジュは、二枚の間?」

「また像と場所を一緒にするな」とロロ。

「訂正。ナジュの像が、二枚の間に見える」

 エリアは遅延図へ、二つの丸を描く。

 矢印が互いへ向く。

 AからB。

 BからA。

 その周囲から、多数の矢印が入る。

 外へ出る矢印は、赤天幕へ戻る。

 循環核。

「外せば」とハル。「輪が切れる」

「簡単」とカイル。

「簡単な案は、だいたい誰かの生活を切る」とサミラ。

 彼女は青枠鏡の持ち主を呼んだ。

 鏡は二家の共同所有。

 一方は治療天幕の冷気路。

 一方は子ども区の夜間避難路。

 二枚を外せば、病人へ冷気が届かず、子ども区から火災時の出口がなくなる。

「でも今、水車へ行けない」とハル。

「だから、切るだけでは救難にならない」

 サミラの黒縄で、青枠の結びは太い。

 生活路が何十本も重なる。

 エリアは透明板へ、循環核の周囲を描く。

 道としては故障。

 生活設備としては中心。

 同じ物が、壊れていると同時に必要だった。

「鏡を外せば、循環は止まる」とロロ。

「半分の生活路も止まる」とサミラ。

「直せば」

「元の接続が分からない」

「裏を見れば」

 サミラが黙る。

 鏡の裏。

 入口、出口、家の名、借金、死者、拒否。

 救難のために必要な刻印。

 救難に必要のない生活。

 ロロは工具を下ろす。

「全部は見ない。温度と砂で、役割だけ分けられるか試す」

「表から?」

「裏へ触れず、縁と空気。必要なら、持ち主が自分で返す」

「返す?」

「鏡を裏向ける。俺は刻印を読まない。温度だけ測る」

 サミラは黒縄の結びを一つ解いた。

「一枚ずつ、持ち主へ聞く」

「遅い」とハル。

「水は三刻」とカイル。

「急ぐから、順番を作る」とエリア。

 循環核の二枚は、互いを正しく映している。

 その像は、最も正確だった。

 遅れ零。

 角度正面。

 時刻現在。

 そして最も役に立たない。

 正しさだけでは、輪から出られない。

 青い鈴が、鏡の中でまた揺れた。

 今度は、ほんのわずかに音が遅れて届いた。

 一拍。

 ナジュが、向こう側から何かを変えた。

 循環核は、完全には閉じていない。