第321話 第五章「鈴の遅れ」前編
光は、速い。
音は、遅い。
この差は、文明に長く利用されてきた。
遠雷を見てから音を待てば、嵐までの距離が分かる。
砲火の光と爆音の間を測れば、敵の位置が分かる。
花火を見てから歓声が届くまで待てば、祭りの中心が分かる。
人間は、速いものを真実だと思い、遅いものを遅れてきた真実だと思う癖がある。
だが速い像が行き先を語らず、遅い鈴だけが通路を語る世界では、待つことが測量になった。
「水、一人三杯から二杯」
サミラが赤天幕の入口へ札を掛けた。
文字だけではない。
杯二つの絵。
触れば分かる二本の刻み。
子ども、発熱者、授乳中の者は三。
大柄な者は必要量を申告。
家畜は種別。
鏡の清掃用水は停止。
「均等じゃない」とハル。
「必要が違う」とサミラ。
「ガンガと同じ」
「角の大男?」
「知ってる?」
「王獣の背が割れた報せは届いた。市場の木駒も」
ファルが八本角の王獣駒を見せる。
「本当は一本」とハル。
「絵は八」
「知ってるならいい」
ハルは自分の杯を半分にして、隣の子どもへ渡そうとした。
サミラが手首を止める。
「あなたは走る」
「子どもは」
「寝る。必要量が違う。自分を一番安い水袋にしないで」
「誰に聞いた」
「見れば分かる」
「顔を証拠に」
「肩の固定布、擦り傷、走り方。顔はいらない」
エリアが水を一口飲む。
「正しい配分です」
「味方がいない」
「あなたの身体側にいます」
「身体と俺を別会計にしないで」
「では本人として飲みなさい」
ハルは飲む。
水はぬるい。
少し塩。
鏡砂が一粒、底で光る。
生活の水を減らした時間から、救難の時計が始まる。
水車天幕へ届く道はない。
だが像は見える。
黄色い旗は今も振られている。
「目で追うのをやめる」とハル。
「見ること自体を?」とセレナ。
「道を選ぶ時だけ。音で追う」
ファルの青鈴を手へ持つ。
小さな鈴。
路番が危険を知らせる音。
「鏡の光は、観測面でも来る」とハル。「音は?」
「通過路なら空気と一緒に来る」とロロ。「観測面は光だけ。古い映像筒と同じなら」
「断定は」とセレナ。
「試す!」
「それを先に言ってください」
ロロは工具箱を開く。
四本の補助腕が、ばね、針、薄紙、砂時計を出す。
「何作る」とハル。
「音の遅れを目で見る。お前ら『聞こえた』『聞こえない』で喧嘩するだろ」
「しない」
「もうしてる」
薄紙へ黒い煤を塗る。
鈴の振動で針が線を刻む。
もう一本の針は、ユノの弦の開始音を刻む。
「名前」とハル。
「遅延記録器」
「普通」
「工具に食い物の名前を付けるのは俺の私物だけだ。これは隊商へ渡す公共機器」
「良い区別」
「修理費は公共価格」
「無料じゃない」とサミラ。
「一ルクでも取る」
「水で払う?」
「今は水を取れねえ。砂避け布と、鏡砂虫の抜け殻」
「何に使う」
「遮光膜」
「成立」
危機の最中でも、対価を決める。
無償でなければ親切でない、と言う者もいる。
しかし無償の親切は、しばしば作り手の食事と休息を見えなくする。
ロロは自分の工具を無料にはしない。
無料にしないから、相手も使い方へ口を出せる。
第一試験。
赤天幕第一鏡。
向こうは青天幕。
ファルが鏡のこちらで青鈴を鳴らす。
青天幕側の協力者が、音を聞いた瞬間に黄鈴を鳴らす。
像の中では、協力者がこちらとほぼ同時に顔を上げる。
黄鈴の音は、一・八秒後。
「反応時間込み」とセレナ。
「人間を挟むと遅い」とロロ。
「人間が悪い言い方」とハル。
「機械よりばらつくって話!」
第二試験。
鏡の向こうへ、鈴を紐で吊るす。
こちらから細い砂袋を投げ、鈴へ当てる。
袋が鏡へ入った瞬間をユノの一音で刻む。
向こうの鈴音が戻るまでを記録。
「私の音を基準に?」とユノ。
「音程が安定してる」
「光栄です」
「右手使わず、一音だけ」
「楽器の扱いが医師より厳しい」
「工房は壊れた後も請求が来る」
ユノは左手で弓を持つ。
本来とは逆。
弦を一本だけ鳴らす。
白い音。
砂袋が入る。
向こうの鈴。
遅延、〇・六秒。
「門の中にも距離がある」とハル。
「鏡裏潮の通過長」とエリア。「物理距離とは別」
「光は」
「観測面の中継光はほぼ同時。少なくとも今の器具では差を測れません」
「見える近さと、通る長さが違う」
「はい」
第三鏡は観測面。
砂袋は跳ね返る。
鈴音なし。
第四鏡。
砂袋は入る。
別の鏡から戻る。
鈴音、一・二秒。
第五。
二・七秒。
第六。
観測のみ。
第七。
砂穴出口。
〇・四秒。
第八。
赤天幕反対側。
〇・一秒。
第九。
観測のみ。
第十。
雲中像。
小石は戻る。
音なし。
第十一。
ナジュを映す。
通過先は赤天幕。
〇・一秒。
第十二。
ゼロスターを映す。
通過先は雲中。
二・三秒。
「遅延が、通過先の組合せを示す」とエリア。
透明板へ、音の秒数だけを書く。
位置は書かない。
像も書かない。
〇・一。
〇・六。
一・二。
二・七。
「音の地図」とハル。
「遅延図です」
「見えない道」
「目で見る必要はありません」
「エリアが言うと、地図の反乱」
「地図は視覚だけではありません。触図、音図、歩数図」
「何でも地図にする」
「世界が、位置関係を持つので」
ユノが片耳を押さえた。
一瞬だけ。
すぐ手を下ろす。
リゼは見逃さない。
「耳鳴り」
「一」
「音程差」
「右が半音より少し低い」
「休む」
「低音なら測れる」
「兄さんの『なら』は、限界を条件へ言い換える時に出る」
「君の観察は家族へだけ鋭すぎる」
「他人には本人が申告する機会がある。家族は隠す」
ユノは弓を置く。
「一刻休みます」
「本当に?」
「いまの私に聞かれたから」
リゼは返事をしない。
肯定の代わりに、ヴァイオリン・アルマを受け取り、ケースへ裏向きに置く。
鏡へ背を向けて眠る兄のため、楽器も鏡面を下へする。