第320話 第四章「美しすぎる地図」後編
測量は、正確だった。
第一透明板には、太陽角。
第二に砂丘輪郭。
第三に天幕の色。
第四に鏡像の時刻差。
第五に観測方向。
第六に通過記録。
第七に塩露。
第八は空白。
エリアは十二枚から四十八枚へ対象を広げる。
赤天幕から見える像だけでなく、その像の中へ映る鏡を追う。
鏡の中の鏡。
その中の別の鏡。
「千枚、全部が千枚を映したら百万?」とハル。
「全組合せではありません」
「よかった」
「観測面の中継が三段なら、最大で数億」
「よくない!」
「実際には路守が束ねています」
サミラの黒縄。
結び目は千。
物理位置ではなく、生活上の順番。
エリアはそれを横へ置き、透明板へ現実の座標を作る。
水車は、砂丘中腹。
赤天幕は南東下部。
治療天幕は日陰側。
家畜柵は夜砂との境。
ゼロスター号の鏡像は空域外縁。
各像は別の角度。
別の時刻。
それでも、太陽と影を計算すれば一つの砂漠へ収まった。
透明板を重ねる。
鏡砂丘が立ち上がる。
白い線で隊商。
金の点で鏡。
青で水。
赤で火。
紫で医療。
「きれい」とファル。
エリアの歩幅が半歩大きくなる。
「まだ完成ではありません」
「嬉しい顔」とハル。
「顔を証拠に」
「右眉じゃなく、足」
エリアは歩幅を戻す。
「身体まで観察しないで」
「地図師を地図にした」
「不許可」
ユノが地図を一周する。
「美しい」
「目的ではありません」
「この線なら、観客は自分がどこにいるか一目で分かる」
「隊商民は観客ではない」
「敬意の語です」
「見るだけの者へする語でもあります」
「厳しい」
「地図を舞台へしないでください」
サミラは透明板を見ない。
黒縄を指で触っている。
「赤天幕は、そこじゃない」
エリアが顔を上げる。
「太陽角、砂丘影、鏡柱三点から測定しました」
「今は」
「今?」
「さっき、家畜路を開けるため、赤天幕を鏡二枚分ずらした」
「申告を」
「した。ファルに」
「私には届いていません」
「隊商は、地図師へ動く許可を取らない」
エリアの顎が少し上がる。
感情を抑える時の姿勢。
「測定中だけ停止を依頼しました」
「水車の風が変わった」
「半刻ごとの更新は」
「砂嵐は、予定表を読まない」
ロロが透明板を覗く。
「位置を直せば」
「直します」
赤天幕の点を動かす。
治療天幕も動いた。
日陰が短くなり、患者を奥へ。
家畜柵は三列変わった。
料理天幕は風下へ。
子どもの寝床は砂温を避けて二枚先。
エリアが直す。
直している間に、また動く。
「止めて」と彼女。
声は命令だった。
サミラが黒縄を握る。
「何を」
「隊商の移動を一刻。全鏡の現在位置を固定します」
「水車が風を逃す」
「一刻なら貯水で」
「家畜の足が焼ける」
「日陰幕を追加」
「日陰幕を動かす路が変わる」
「なら、その路も固定」
「市場の客が来ない」
「救難中です」
「救難中も、食べなければ死ぬ」
エリアは言葉を失わない。
代案を出す。
日陰。
水。
仮設路。
人員。
正しい。
一つずつ正しい。
正しい代案を積むほど、隊商の生活全体が、彼女の地図を完成させるための補助作業へ変わっていく。
ハルが透明板の端を押さえた。
「エリア」
「いま話しかけないで。第四列の時差が」
「赤天幕の鍋、止まってる」
「火路を固定したためです」
「昼ご飯」
「携行食へ」
「子ども、寝床から出てる」
「測定点へ入らないよう」
「水車の音、弱い」
「風向変化」
「地図のために、みんなの今を止めてない?」
エリアの右眉が上がる。
「今を測るためです」
「止めた今は、普段の今じゃない」
「動いたままでは座標が」
「座標がないと助けられない?」
「正確な位置が分からなければ」
「サミラたちは昨日まで、黒縄で暮らしてた」
「そして今、循環へ閉じ込められた」
「だから、全部入れ替える?」
「そうは言っていない!」
声が鋭くなる。
透明板の淡緑線が揺れる。
エリアは地図槍を握り直し、発動を止めた。
月冠祭で条件不足の路図を暴発させ、ハルの左肩を傷つけた。
身体はしつこい教師である。
「……呼吸二」と彼女。
「休む」
「一分」
「二分」
「交渉?」
「安全条件」
「成立」
エリアは座る。
薄緑の遮光片を外す。
眼を閉じる。
ハルは隣へ座る。
何も言わない。
一分。
二分。
「私は」とエリアが言う。「止まっている地図しか作れないわけではない」
「知ってる。白環杯で走る地図作った」
「なら」
「今の地図、きれいすぎる」
「ユノと同じ批判?」
「違う。ユノは分からない間を埋めた。エリアは、分かるまでみんなを止めた」
「結果は似ている」
「似てるって言ったら怒る?」
「事実なら」
「同じ出口。違う入口」
エリアは目を開く。
「言葉遊び」
「持ち方」
「今は、少し重い」
「じゃ持つ?」
「透明板の左端」
「具体的」
「お願い」
ハルは左端を持つ。
エリアは全板を作り直さない。
最初に、一枚だけ外す。
物理位置の板。
「捨てる?」とハル。
「別にします。今の救難で、最初に見る板ではない」
「何を見る」
「接続順」
サミラの黒縄を中央へ置く。
結び目。
太さ。
色。
誰が使うか。
いつ開くか。
地図ではなく生活の順番。
エリアは一つずつ聞く。
「赤天幕から水車へ、通常何分」
「大人の足で四分」とサミラ。
「物理距離は五十八メートル以上。鏡四枚」
「そう」
「治療天幕から水車」
「担架なら七分。歩ける者なら三」
「家畜」
「通れない。別の低路で十二分」
「水桶」
「二人持ちなら五。大樽は鏡を通らない」
距離が一つではない。
同じ入口と出口でも、人数、荷物、身体、時間で違う。
エリアは通過時間を板へ書く。
すると異常が出た。
地図上で隣り合う赤天幕と青天幕。
物理距離は十メートル。
鏡路では六分。
砂丘の反対側にある治療天幕。
物理距離は二百メートル。
鏡路では一分。
「位置と時間が一致しない」とハル。
「鏡門だから、当然」とサミラ。
「でもエリアの一枚地図では、近い点を近い線で結んだ」
エリアは透明板を見る。
金の鏡点を、現実の位置へ置いた。
その点同士を、像の連続でつないだ。
「接続順を、座標の隣接と混同した」
自分で言う。
「像が隣の景色を映すとは限らない」とセレナ。
「同じ場所を映す鏡が、遠い砂丘にある」とリゼ。
「通過先は、さらに別」とロロ。
正しい像。
正しい座標。
正しい時刻。
それらを一枚へ整然と並べた結果、使えない地図になった。
「美しい」とユノ。
今度は、慰めではない。
「だから危険ですね」とエリア。
「美しさへ罪はない」
「美しさを根拠へした私にある」
「罪ではなく、選択」
「責任を薄めないでください」
「薄めていない。戻れる厚さへ分けている」
ユノの言葉は、ハルと似ていない。
それでも、重すぎる責任の持ち方を変えようとするところだけは似ていた。
エリアは物理位置板へ、大きく書く。
『参照用。救難経路に使用禁止』
「完成を捨てない」とハル。
「失敗記録として残す」
「母さんみたい?」
エリアの指が、三つ編みの地図針へ触れる。
「母は、誤った地図へ赤い訂正線を引きました。私は誤りを隠すため板を捨てそうになった」
「捨てなかった」
「いまのところ」
その時、赤天幕の水壺が空音を立てた。
サミラが振り向く。
「補給、遅い」
通常なら水車天幕から五分ごとに水桶が届く。
移動停止で、路の順番が変わった。
再開させたはずだった。
ファルが第六鏡へ走る。
水車が映っている。
黄色い旗。
回っている輪。
「見える」とハル。
小石を投げる。
戻る。
第七鏡。
水車が映る。
小石は通る。
出た先は、砂穴の壁。
「別の入口」とエリア。
サミラが黒縄を確認する。
青糸の結びが一つ、輪から外れている。
「水車路がない」
「映ってる」とファル。
「見えるだけ」
「さっきまで、どこかから行けた」
隊商の鏡は、止めた後に再開した。
だが全部が元の順へ戻ったわけではない。
水車天幕は風を追って移動した。
その移動先へつながる入口が、循環路から外れた。
像は残る。
経路だけが消える。
遠く、砂嵐の外縁で、青い水車が一度大きく傾いた。
鏡の中の黄色い旗が、三回ではなく、連続して振られる。
緊急。
水車天幕が循環路から消えた。
隊商の水は、六刻から三刻へ減った。