第319話 第四章「美しすぎる地図」前編
地図は、動かない世界を好む。
山はそこにある。
川はそこを流れる。
町は、その点にある。
地図師が眠っている間も、山は歩かず、川は翌朝だけ別の海へ行かず、町は地図の余白へ引っ越さない。
もちろん現実の山は崩れ、川は曲がり、町は焼け、国境は人間の都合で動く。
それでも地図は、いったん止めた世界を紙へ置く。
止めなければ、線を引けないからである。
鏡砂の隊商は、止めることで壊れる世界だった。
エリアは赤天幕の床を四区画へ分けた。
実物の砂を置く区画。
鏡像を写す透明板。
通過記録を並べる区画。
分からない物を置く空白。
ハルは最後の区画へ座った。
「そこは未確定情報です」
「俺、未確定?」
「どこへ座ればよいか聞かずに座った行動が」
「人間まで地図記号にしないで」
「では移動してください」
「どこへ」
「私の右」
ハルは移動する。
「近い」
「透明板を押さえる役です」
「役だった」
「何だと思ったの」
「空いてたから」
「未確定のままでいなさい」
エリアは白い日傘の内側から、薄い透明板を十六枚取り出した。
公爵家の航路板。
一枚は軽い。
重ねれば、光、風、地形、通過権、危険、所有、時刻を別々に描ける。
「一枚へ全部描くんじゃない」とハル。
「情報を混ぜないためです。必要なら重ねます」
「今回、何枚」
「最低八」
「美しい地図って重い」
「美しさは目的ではありません」
ユノが白いヴァイオリンの弓を磨きながら言う。
「美しいと言われる地図師は、だいたいその言葉を否定する」
「あなたは否定しないのですか」
「美しい演奏は目的です。ただし、何のための美しさかは別」
「さっき、そのためにハルが落ちた」
「妹がいると、反省へ脚注を付ける隙がありません」
「脚注を悪者へしないでください」とトーヴ。
彼は赤天幕の端で、十二枚の鏡の出典札を版番号順へ並べている。
リゼは鏡光で頭痛一。
面紗の下へ薄色眼鏡。
ユノは右手薬指二から一へ下がったが、演奏を一刻休止。
ハルの左肩二は冷却後一。
カイルの肋部一。
ロロの喘息零、右眼疲労一。
エリアの右踵一、左零、呼吸一。
セレナは全員の申告を一枚へ書く。
「地図と関係ある?」とハル。
「誰が、どの区画を測れるかに関係します」
「身体も地図条件」
「能力を地形より固定して考えないでください」
エリアは遮光片を下ろす。
「第一段階。十二枚の像を、太陽角、影、砂丘輪郭、天幕模様で位置合わせします」
「物理位置?」とサミラ。
「はい」
「接続順じゃなく」
「まず、現実の配置が必要です」
「隊商は動く」
「測定中だけ止めてください」
サミラの黒縄が一度揺れた。
「どれくらい」
「二刻」
「家畜路は半刻で変える。昼砂が熱くなる」
「では半刻ごとに更新します」
「水車は風を追う」
「位置変更前に申告」
「子どもの寝床は影を追う」
「同じく」
「市場は客を追う」
「同じく」
「死者路は、太陽を追わない」
「固定ですね」
「夜だけ開く」
エリアは一瞬止まる。
「では、昼は位置だけ」
「位置だけ測っても、路は分からない」
「分けて測ります」
サミラは反対を続けなかった。
反対しないことは賛成ではない。
エリアはそれを知っている。
知っていたが、測量を始めた。
鏡砂丘を歩くには、地面を信用しすぎてはいけない。
光を強く返す斜面は、表面が硬い。
暗く見える場所は、砂粒の裏が上を向き、足を置くと流れる。
銀色の細い虫が集まる鏡は、表面が滑らかで、足場にはならない。
鏡砂を磨く銀脚虫〈ミラー・スキッパー〉。
六本の脚で鏡面を走り、砂膜を食べ、光の筋だけを残す。
ノクスが一匹を追う。
鏡へ映った七匹の虫を見て止まる。
実物を見失う。
「また像に負けた」とハル。
「ナァ!」
ノクスは虫でなくハルを追った。
エリアは垂直砂丘へ地図槍を打つ。
測定点一。
風向。
砂温。
鏡柱の角度。
淡緑の路図が、測った点だけを結ぶ。
「右へ三歩」とエリア。
「俺の右?」
「地図の右」
「地図の右って誰の」
「現在、私と同じ向きです」
「先に言って」
「いま言いました」
「一歩目の前に」
「まだ歩いていません」
「気持ちでは歩いた」
「気持ちを座標へしないで」
ハルは三歩。
四歩目で足場が流れた。
「三歩!」
「勢い!」
身体が横へ滑る。
エリアの路図が足元へ伸びる。
ただし光の道は床ではない。測定した安全線を示すだけ。
ハルは線の上にある鏡柱へロープを投げる。
右手で掴む。
左肩は上げない。
「一、二」
「三を言わない時の方が危険です!」
「数える余裕がなかった!」
エリアが槍を支点に、ロープを引く。
呼吸一から二。
「息」
「二。十拍」
「俺が登る」
「手伝ってではなく?」
「エリア、ロープ固定して」
「具体的。受領」
ハルは鏡砂を蹴る。
五歩。
鏡柱の陰へ上がる。
エリアは呼吸を整える。
右踵一。
左一。
呼吸一。
「踊るより難しい」とハル。
「比較対象の経験が短すぎます」
「十一秒」
「失敗時間を正確に言わないで」
「借り、まだ一曲」
「今回の鏡砂では足を踏めば滑落します」
「じゃ、返す場所じゃない」
「なぜ少し残念そうなの」
「鏡の国だから」
「地理と舞踏を短絡しないで」
ユノが下から声を上げる。
「サリフでは、地図も舞踏譜も同じ語源ですよ」
「助け舟?」とハル。
「砂舟です」
「沈む」
「砂へ沈む舟は、こちらでは普通です」
「常識が多い!」
ユノは鏡柱の下にいる。
登らない。
右手を休めながら、ハルとエリアが見た景色を透明な幻へ置く。
今回は未知を埋めない。
鏡柱の向こう側は、白い欠けのまま。
リゼが欠けへ太い白縁を付ける。
「見えない場所が、前より目立つ」とハル。
「空白は隠すと穴。表示すると境界」とリゼ。
「詩?」
「標識」
「似てる」
「一緒にしないで」