第327話 第八章「出口から考える」前編

道を作る者は、入口に立ちたがる。

 人を迎え、行き先を指し、ここから始まると宣言できるからだ。

 出口に立つ者は、たいてい後始末を任される。

 通ってきた人数を数え、忘れ物を拾い、戻れない者の名を記録する。

 ゆえに、古い王都の航路院では入口設計官の席が高く、出口監査官の机は地下に置かれた。国が道を権威の一種と考える時、出発を許す者は尊ばれ、無事に出られたかを確かめる者は目立たない。

 しかし遭難現場では、その序列が逆になる。

「入口から考えるのをやめます」

 エリアは、自分の地図を裏返した。

 紙ではない。

 砂面へ浮かべた透明な光の層だった。位置の推定、鏡像の時刻、鈴の遅延、裏面の温度、生活路。重ねれば美しい。美しいが、正しいだけで役に立たない層も混じっている。

 彼女は右手の地図槍グリムリリーを砂へ突き、左手の地図筆で、中心に描いた赤天幕を消した。

「そこ、いま全員がいる場所」とハル。

「知っています」

「消していいの」

「私たちがいる場所を出発点にし続けるから、救いたい場所をこちらへ引き寄せる発想になる。順序を逆にします」

「逆」

「誰を、何を、どの状態で、どこへ出せれば生存できるか。出口条件から戻って、必要な接続を探す」

 エリアは地図の端へ六つの枠を描いた。

 人。

 担架。

 水。

 家畜。

 火。

 記録。

 サミラが黒い結び縄を握り直す。

「記録を火より後へ置いたね」

「燃えてはいけない記録ですか」

「燃えたら困る。けど、人より先に出したら、もっと困る」

「順序を聞いています」

「順序は、誰の家かで変わる」

「では家ごとに」

「家じゃない。天幕」

「正確に言い直します。天幕ごとに、外へ出す必要があるものと、残すものを教えてください」

 サミラは目を細めた。

 エリアが命令形をやめたことに気づいたのである。

 ハルも気づいた。

 気づいたが、口にすると元へ戻りそうなので黙った。

「黙れるんですね」とセレナ。

「気づきを記録しないで」

「記録していません。観察です」

「観察の口が軽い」

「口へ重さの規格はありません」

「ロロなら付けそう」

「誰が俺の口へ量札付けるって?」

 ロロが鏡裏の整備穴から這い出した。頬とゴーグルの間へ砂が入り、四本の補助手がそれぞれ別の布で別の部品を拭いている。

「圧の交代、四人入れた。ナジュたちは二人ずつ外へ出せる。ただし水車天幕が落ちる前に循環を抜くと、赤天幕側へ砂圧が返る。だから出口を考えるなら、出口だけじゃなく、出した後の穴も考えろ」

「出た人がいた場所へ、何が入るか」とエリア。

「正解。空席は空じゃねえ。圧力が予約してる席だ」

「予約取消料は?」とハル。

「お前の労働百八十時間」

「高い!」

「機械はお前の善意で回らねえんだよ!」

「俺も善意だけじゃ百八十時間働けない」

「じゃ現金」

「善意で」

「経済が一周した!」

 笑いが起きた。

 一拍だけ。

 水車天幕が映る鏡の中で、青い輪がさらに傾いた。

 笑いは止まる。

 サリフの砂嵐は、遠くから見ると一枚の壁に見える。

 内部では壁ではない。

 細い流れが幾千もあり、それぞれが別の速度で、別の粒を、別の高さへ運ぶ。人は「嵐」という一語でまとめるが、嵐の側は一つにまとまっていない。

 災害を名詞で呼ぶのは、たいてい生存者である。

 巻き込まれている者にとって、災害は動詞の連続だ。

 砂が入る。

 綱が緩む。

 水が減る。

 子が泣く。

 鏡が回る。

 人が選ぶ。

「残り五十二分」とセレナ。

「正確すぎる一刻」とハル。

「一刻は幅のある生活語です。救難期限には不適切です」

「五十二分で、水車天幕を含む生活区を安全な出口へ出す」とカイル。「誰から聞く」

「全員です」とエリア。

「時間がない」

「だから全員へ同じ長い会議はしません」

 エリアは六つの枠を、さらに分けた。

 歩ける者。

 歩けない者。

 鏡酔いがある者。

 鏡像を拒む者。

 手荷物を捨てられる者。

 捨てられない物がある者。

 家畜を連れて出る者。

 家畜を先に出す者。

 水を運ぶ者。

 水の場所へ移る者。

「分類が多い」とカイル。

「人が多いのです」

「最短で一つに」

「一つにした時、誰が外れますか」

「……聞いた俺が悪かった」

「悪い質問ではありません。急ぐ時ほど、一つへまとめたくなる。その誘惑を確認できました」

「褒められた?」

「注意しました」

「王太子への注意が褒め言葉に聞こえる病気になってきた」

「回復しないでください」とハル。

「なぜだ」

「扱いやすい」

「臣民が率直すぎる」

「臣民じゃない」

「そこは毎巻確認するのか」

 エリアは三つの聞き取り班を作った。

 サミラとセレナは各天幕の住民数、歩行能力、持出し希望、鏡裏の閲覧許可を確認する。

 カイルとトーヴは、共同物資、身元記録、火種、薬、家畜の移動条件を整理する。

 リゼとロロは、光過敏、鏡酔い、幻像拒否、担架幅、砂圧に耐えられる門の寸法を測る。

「私は?」とユノ。

 白いヴァイオリンを抱えた少年は、いつもの完璧な微笑みで問うた。

「見せないでください」とエリア。

「何を」

「解決した景色を」

「まだ作っていません」

「作れる顔をしています」

「顔まで出典を求められるとは」

「その微笑みはどの時点の観測に基づきますか」

「外交教育十四年分」

「廃棄してください」

「王家の教育費が泣く」

「泣く権利はあります。進路を決める権利はありません」

 ユノの口元は笑ったまま、目元だけが一瞬ほどけた。

「承知しました。では、僕は何を」

「住民が自分の出口を選ぶために、何が見えれば選べるのかを聞いてください。映像を見たい人だけでなく、見たくない人にも」

「幻を使わない相談役」

「あなたは幻だけの人ではないでしょう」

「それは、ずいぶん危険な期待だ」

「期待ではありません。役割の依頼です。断れます」

「……受けます」

 エリアは頷いた。

「ハル」

「走る」

「まだ頼んでいません」

「俺に頼むこと、だいたい走る」

「違います」

 エリアは地図針を一度抜き、差し直した。

 頼る時の癖。

「私の図へ、あなたが実際に踏んだ段差、手を置いた縁、匂い、風向きを入れて。座標ではなく、身体で覚えている順序が必要です」

「それならできる」

「できますか、ではなく、手伝ってください」

 ハルは返事を急がなかった。

 急ぐ現場で、返事だけ一拍遅らせた。

「うん」

 その一拍を、エリアは見た。

 見たが、地図へは書かなかった。

 千扉隊商には、同じ意味の「家」がなかった。

 赤天幕の家は、寝床だった。

 青天幕の家は、水車と洗濯場だった。

 黄天幕の家は、祖先の名を結んだ縄が下がる場所だった。

 緑天幕の家は、山羊と人が夜だけ同じ床で寝る場所だった。

 白天幕の家は、市場が開く間だけ成立し、日暮れには布ごと畳まれた。

 定住者は家を場所で考える。

 隊商民は家を、関係がほどけずに持ち運ばれる状態として考えた。

「この鏡を置いてはいけない」

 六十代の染色師が言った。

 サミラが聞く。

「なぜ」

「裏に夫の名がある」

「夫は」

「三年前、別路へ行った。死んではいない。戻ってもいない」

「鏡は何に使う」

「染桶の入口」

「命より大事?」とハル。

 染色師は彼を見る。

「命へ、その質問をさせるのかい」

 ハルは黙る。

「持って出たい」と言い直した。「でも、重さと時間がある。持てなかった時、何を残したい」

「裏の名を写す。鏡は置く」

「写していい?」

「私が写す」

「分かった」

 別の天幕では、九歳の子が三匹の砂山羊を全部連れていくと言った。

「一匹なら担架路へ入る」とロロ。

「三匹」

「幅が」

「三匹」

「二匹を後便」

「三匹」

「話が進まねえ!」

 リゼが子の前へしゃがむ。

「三匹とも、同じ鏡を通る必要はある?」

 子は首を横へ振った。

「どれが先」

「白。臆病だから」

「残りは」

「黒が茶色を追う」

「なら三匹です。一本の道でないだけ」

 ロロが頭を抱えた。

「要求を分解すると数が減ると思ってた。増えた」

「現実は簡約版ではありません」とリゼ。

「お前、十四で言うことが史官」

「史官が四十一で十四歳みたいなことを言う可能性も考えて」

 遠くでトーヴがくしゃみをした。

「悪口の風向きが来ました」

「重度近視なのに聞こえすぎ」とハル。

「記録者は都合の悪い部分だけよく見え、よく聞こえるものです」

「自白?」

「戒めです」

 聞き取りは、会議ではなかった。

 一人へ三問。

 何を先に出すか。

 どこへ出たいか。

 何を見せられたくないか。

 三問で人間の全部は分からない。

 だから三問の答えを、人間の全部として扱わない。

 それが今回の規則になった。

 サミラの黒縄へ、細い色糸が増えていく。

 赤は歩行者。

 青は水。

 緑は家畜。

 白は担架。

 黒は非公開物。

 無色は、まだ決めていない。

「無色が多い」とカイル。

「決めていないのに、決まった色を付ける方が多かったのさ」とサミラ。

「期限はある」

「期限までに決められない人は?」

「代理判断」

「誰が」

 カイルは口を閉じた。

 王族は、代理判断の訓練を受ける。

 災害では誰かが決めなければならない、と教えられる。

 それは正しい。

 ただし、正しいことは一つではない。

 決める必要と、決められた人が後で拒否できる権利は、同時に成立する。

「緊急時は救命優先で仮に出す」とカイル。「行き先は最寄り安全区。本人が意思表示できた時点で変更可能。私物は処分せず、保管番号を付ける。代理決定者の名と理由を残す」

「王子らしい」とサミラ。

「褒めている?」

「王子らしいだけ」

「この空域、評価語の温度が分からない」

「温度計を当てるか?」とロロ。

「人の裏面を測るな」

「鏡で学んだ」