第329話 第九章「空白を残す幻」前編

幻術は、嘘を作る技術だと思われがちである。

 これは半分だけ正しい。

 もう半分は、見たいものを選ぶ技術だ。

 戦場では敵兵を増やす。

 祭では空に花を咲かせる。

 恋人同士なら、離れた相手の顔を夜の窓へ映す。

 王家なら、敗戦の煙を勝利の祝砲へ整える。

 同じ術でも、用途によって罪の名は変わる。

 詐欺。

 慰撫。

 舞台。

 外交。

 記録。

 そして救援。

 ユノ・ヴァレントは、救援のための幻を作ったことがなかった。

 救援に見える幻なら、数え切れないほど作ってきた。

 泣いている群衆へ、無事な避難所を映した。

 対立する使節へ、握手する未来を見せた。

 母を失った妹へ、記録の中の母が笑う像を見せようとした。

 どれも争いを止めるためだった。

 どれも、見る者が本当に選んだ像ではなかった。

「弓、逆」とリゼ。

 ユノは白い弓を持ち替えた。

「わざとだよ」

「緊張してる」

「自然な緊張を演出していた」

「自然な演出という言葉、兄さんの人生みたいに自己矛盾」

「人生を一文で批評しないでくれる?」

「長くすると脚注卿になる」

 トーヴが、五歩離れた場所で眼鏡を押し上げる。

「脚注は本文への批評ではなく、本文が隠した前提を可視化する装置です」

「聞いてた」とリゼ。

「聞こえる距離で言いましたね」

「試した」

「兄妹で人を試さないでください」

「王家教育」とユノ。

「私は工芸学校教育」とリゼ。

「僕だけ家の悪習を背負わされた」

「捨てれば」

「いま捨て方を習っている」

 ユノはアルマを顎へ当てた。

 右手の薬指が、完全には伸びない。

 弦を押さえる時、他の指より半拍遅れる。その遅れを隠すために、彼は運指を美しく組み替える癖を身につけた。

 傷を隠す技術と、音楽を作る技術が、同じ手の中にあった。

 耳鳴りは今、右で高い線、左で低い線。

 二本の聞こえない弦が、頭蓋の内側で鳴り続けている。

「耳」とリゼ。

「右二、左一」

「片頭痛」

「一」

「指」

「曲げ一、伸ばし二」

「中止条件」

「耳四、頭三、指三。僕が『まだできる』と言った時は一段加算」

「合理的」

「妹の不信が医学へ昇格した」

「家族だから信用しない」

「ひどい言葉なのに、少し安心する」

 リゼは答えなかった。

 彼女は答えないことを、答えの欠如ではなく、権利として使う。

 ユノは昔、その沈黙を埋めた。

 慰めの言葉。

 母の映像。

 取り戻せる記憶。

 家族なら望むはずの未来。

 今は待った。

 砂がアルマのひびへ触れる。

 リゼが先に口を開いた。

「一分待てた」

「採点されていた」

「合格ではない」

「知っている」

「でも、前よりまし」

「それは採点?」

「観測」

 セレナの言い回しが移っている。

 旅とは、風景を持ち帰るだけではない。

 同行者の口癖が、自分の中へ勝手に入ってくることでもある。

 救援像は、鏡へ映さなかった。

 最初にそれを決めたのはリゼである。

「鏡へ映すと、現実の像と幻の像が同じ枠に入る。見分けを縁色だけへ頼ることになる。光過敏の人、色覚差のある人、砂で縁が欠けた人には危険」

「では空中へ」とユノ。

「空中も現実」

「哲学が救難時間を食べる」

「救難だから哲学が要る。何を現実と呼ぶかを間違えたら人が落ちる」

「正論は時計を止めない」

「時計に正論を急かす権利もない」

「二人とも、ここへ出してください」

 エリアが赤天幕の床へ、白い布を四枚広げた。

 一枚目には出口条件表。

 二枚目には身体順序図。

 三枚目には温度と遅延の測定値。

 四枚目は空白。

「最後は」とユノ。

「幻専用面。現実の景色を映さない、曇り布です。ここへだけ表示する」

「見る時、足元へ視線が落ちる」

「歩きながら読ませない。出発前に選び、途中は触覚札と音で確認する」

「幻は案内役ではなく、選択表」

「ええ」

「それなら、術を使わない方が」

「百八十二人が、二十九分以内に、別々の表を読む時間はありません」

「術を使えと言いながら、術へ役を持たせすぎるなと」

「難しいですか」

「難しい。だから、やる価値がある」

 ユノは四枚目の布へ弓を向けた。

 最初の音は、低かった。

 美しい音ではない。

 砂を噛んだ弦がざらつき、右の薬指が遅れ、二つの耳鳴りが半音ずつ外れる。

 彼は、そのずれを隠さなかった。

 不協和音は、空白の輪郭を作る。

 白い布の上へ、赤天幕が浮かぶ。

 現実より少し小さい。

 縁に太い白線。

「幻であることを示す白縁〈ステージ・エッジ〉」とリゼ。「地方によって意味が違うから、先に説明する」

「白は安全?」と住民の一人。

「違う」とリゼ。「白は『これは作られた像』。安全とは言ってない」

「金は」

「現在、直接見ている像」

「青」

「過去に誰かが見た像」

「紫」

「仕組みは確認したが、安全は未確認」

「黒」

「危険」

「白と白が重なる」

「だから模様を変える。幻の縁は連続線。未知は白い斜線。色が見えなくても触れれば違う」

 リゼが偏光札を貼るたび、像の縁へ細かな凹凸が現れた。

 見るだけの表示ではない。

 指で触れれば分かる。

「幻へ触れる?」とハル。

「布に札を貼ってる」とロロ。「幻そのものに触覚はねえ。見えない人へ見えるふりをするな」

「今日は言葉がまとも」

「今日はって何だ!」

「毎日まとも?」

「毎日、別方向にまともだ!」

「まとまりがない」

「まともとまとまりをまとめるな!」

 ユノは二音目を重ねた。

 赤天幕から三つの出口が伸びる。

 広幅門。

 低圧門。

 生活継続路。

 だが線は途中で何度も切れた。

 見えていない区間。

 温度は測ったが砂圧不明の区間。

 音は通るが人の通過を試していない区間。

 住民が裏面閲覧を許可していない鏡。

 以前のユノなら、切れ目を細い光で結んだ。

 観客が理解しやすいように。

 不安で足が止まらないように。

 弓先が、空白へ向かう。

 音を一つ足せば埋まる。

「兄さん」

「分かっている」

「まだ何も言ってない」

「言う前に答えた」

「ガンガみたい」

「誰」

「別の場所で今、同じ失敗をしている大きい人」

「会ったことがないのに親近感が痛い」

 ユノは弓を止めた。

 空白は残った。

 白い斜線。

 見えない。

 分からない。

 確認が必要。

 その三つを、一つの美しい光で覆わない。

「醜い」とユノ。

「安心した?」とリゼ。

「怖い」

「何が」

「この像を見て、誰かが救援へ参加しないと言うこと」

「言えるようにするための表示」

「分かっている」

「分かるのと、耐えるのは別」

「そうだね」

 ユノは微笑まなかった。

「僕は、正しく見せれば同じ結論になると思っていた」

「思ってる」

「過去形にするまで待って」

「待つ。埋めない」

 兄妹は、空白の前へ並んだ。

 試験は三人で行った。

 一人目は、鏡像を見ると吐き気が出る老女。

 二人目は、字が読めない八歳の子。

 三人目は、幻を王家の監視と考え、見ること自体を拒む靴職人。

「代表ではありません」とセレナ。

「三人で全員を代表させる気はない」とユノ。

「確認しました」

「君は、人の善意へ常に税関を置くね」

「申告のない善意が最も危険です」

「同意する」

「同意を記録しますか」

「記録しないで」

「観察です」

「この船、会話が循環している」

 老女には、幻を見せなかった。

 ロロが作った三種類の触覚札を渡す。

 丸い突起は広幅門。

 二本線は低圧門。

 粗い網は生活継続路。

 進路変更は腰の札を裏返す。

 中止は札を落とす。

 落とした札を誰かが拾って戻すのではなく、その場で本人に確認する。

「落としたら、拾うのが礼儀だろ」とハル。

「この場合、落とすのが中止合図」とエリア。

「礼儀が命を止める」

「だから礼儀へ例外を書く」

「例外が多い」

「生活は規則の例外ではありません。規則の方が生活を一部しか書けないのです」

 八歳の子には、線を動物の足跡へ変えた。

 白山羊の足跡は広幅門。

 砂鳥は低圧門。

 亀は生活継続路。

「なんで亀が残る道」とハル。

「家を背負ってる」と子。

「強い」

「白山羊は?」

「どこでも食べる」

「強い」

「砂鳥は?」

「逃げ足だけ」

「俺?」

「赤いから違う」

「色で免れた」

 幻を拒む靴職人には、何も見せなかった。

 エリアが紙へ三つの出口条件を書き、サミラが読み上げ、靴職人自身が自分の靴底へ選んだ経路の刻みを入れた。

「幻がなくても通れる」とユノ。

「当然だ」と靴職人。

「当然を確認したかった」

「王家は、確認しないで当然を配る」

「僕を王家だと思っている?」

「白い服で、音楽で、人の見方を整える。王家でなくても王家みたいな厄介者だ」

「分類が精神的に正しい」

「否定しないのか」

「否定する材料がない」

「名前は」

「ユノ」

「それ以上は」

「今は救援者」

 靴職人は鼻を鳴らした。

「役は期限を書け」

「救援終了まで」

「終わりを誰が決める」

 ユノは答えに詰まった。

 エリアが口を挟まない。

 カイルも代わらない。

 リゼは、面紗の奥で待つ。

「救援対象が安全へ出たこと。圧力交代が終わったこと。水車天幕を回収したこと。仮の出口を閉じても生活路が一つ以上残ること」

「四条件」

「全部満たすまで」

「じゃあ役が終わった後、お前は誰だ」

「……ユノ」

「最初からそう言え」

 靴職人は靴底へ、粗い網を二本刻んだ。

「俺は残る。出口を作る側だ」

「あなたは救助対象でもある」

「対象にしてから役を聞くな。役を聞いてから対象にしろ」

 ユノは頭を下げた。

「訂正します」