第330話 第九章「空白を残す幻」後編
その前に、試さなければならなかった。
幻は、見せた瞬間から人を動かす。
つまり試験失敗は、紙の上で赤くなるのではなく、人の足で起きる。
ユノは赤天幕の床へ、三本の仮経路を出した。
左は低圧門。
中央は広幅門。
右は生活継続路。
線の太さは同じ。
文字の大きさも同じ。
確度の縁色も同じ。
「公平」とユノ。
「もう不公平」とリゼ。
「まだ誰も選んでいない」
「中央の音が一番長い」
ユノは弓を止めた。
「三本とも四拍」
「中央だけ終止音。左は上がって、右は下がる。中央は帰ってくる音」
「音楽上の安定です」
「人を安定へ寄せてる」
「表示に和音は必要」
「兄さんの美しさが、案内じゃなく勧誘になってる」
試しに二十人へ、行き先を決めずに立ってもらった。
十四人が中央へ寄った。
四人が左。
二人が右。
「広幅門が人気」とユノ。
「違う」とエリア。「中央に置いたからです」
「位置を入れ替える?」
入れ替えた。
今度は低圧門を中央へ置く。
十二人が中央を選んだ。
「中央が人気」とハル。
「道じゃなくて真ん中を選んでる」とリゼ。
「真ん中は、両側から同じ距離」とユノ。
「それを安全に見せる文化がある。王宮の正面扉、王座、舞台の主役、食卓の上座」
「僕の責任?」
「知って使うなら」
ユノは三本を円へ並べた。
今度は広幅門の線だけ、白砂の上でわずかに太く見えた。
「太さは同じ」とユノ。
「背景の模様が違う」とエリア。
「そこまで?」
「そこまでです」
「救援表示を作る仕事が、砂粒との外交になった」
「外交より砂粒の方が正直」とリゼ。
「王族の前で言う?」
「兄の前だから」
年寄りの水売りが、右を選んだ。
「なぜ」とユノ。
「音が低い。耳へ刺さらん」
光過敏の少女は左。
「白縁が少ない」
赤い髪の少年は、最も暗く、段差が二つある経路を選んだ。
「そこは、三本で一番時間がかかる」とユノ。
「姉ちゃんが染め天幕にいる」
「姉は別便で安全へ出せる」
「俺が行く」
「危険が高い」
「姉ちゃんがいない出口が安全なの?」
ユノは答えられなかった。
危険は測れる。
温度。
圧力。
段差。
崩落確率。
通過人数。
重要さは、測った者の外にある。
為政者は、避難とは危険から遠ざかる運動だと考えたがる。
しかし人は、危険から逃げるのと同じくらい、誰かの方へ走る。
その二つが逆向きなら、最短路という言葉は簡単に暴力になる。
「僕は危険を表示できる」とユノ。
「うん」と少年。
「でも、何が大事かは表示できない」
「姉ちゃん」
「それは君が表示する」
ユノは少年の胸元へ、小さな染め布の印を付けた。
王家の紋章ではない。
行き先を本人が選んだ印。
「ただし、姉の位置は現在観測で紫縁。二十秒遅れている可能性がある。途中で空白が増えたら戻れる?」
「戻らない」
「それは選択じゃなく固定になる」
「じゃ、姉ちゃんがもう別路へ出たら戻る」
「条件成立」
「契約?」
「約束より短い、救援条件」
ハルが横から言った。
「短い約束も約束じゃない?」
「君は約束という言葉を怖がるのに、他人へは広く使うね」
「言葉、持つ人で重さ違うから」
「それを今、習ってる」
ユノは表示を消した。
中央も、左右もない。
三本の経路は、選ばれるまで同じ灰色で伏せる。
誰かが腰札へ触れた時だけ、その人の足元で一本が明るくなる。
他の線は薄いまま残る。
選択を変えれば、光も移る。
「最初に触る印の並びは」とエリア。
「毎回回転させる」
「順番効果が残る」
「三つ同時に鳴らす」
「耳が聞こえない人は」
「触覚を同時に」
「両手が塞がっている人は」
「足元の凹凸」
「靴底が厚い」
「……質問の出口がない」
「出口から考えるのです」
「その言い方、さっきから気に入ってる?」
「必要な考え方です」
「気に入ってるんだ」
リゼが腰札へ、三つの異なる形を付けた。
丸。
三角。
切れ目のある四角。
「形に善悪を付けない。色を見られない人にも同じ。三つの低い鈴で選択解除。もう一度触れば選び直し」
「解除音が不安を煽らない?」とトーヴ。
「音の意味は先に説明する」とリゼ。「知らない音が怖いのであって、低い音そのものが悪いわけじゃない」
「葬送で使う氏族も」
「今日は救援終了まで。恒久規則にしない」
「脚注が減った」
「本文へ入れたから」
もう一度、二十人で試す。
中央へ固まらない。
選択は、左七、中央六、右五、保留二。
「合計二十」とセレナ。
「保留を選択数へ含める?」とユノ。
「含める。動かないことも、今の選択」とリゼ。
「危険が迫るまで」
「期限も表示」
保留した一人は、最初の説明を聞き直した。
もう一人は、家族が来るまで決めなかった。
二人とも、優柔不断とは記録されなかった。
ユノは弓を下ろす。
「美しくない」
「不満?」とリゼ。
「安心している」
「兄さんの安心、美しいものが壊れた時に出るね」
「新しい趣味かもしれない」
「壊す側として協力する」
「妹の愛が解体工具」
「ロロに借りた」
ロロが遠くで叫んだ。
「人の工具を比喩で勝手に貸すな!」
赤天幕の床には、完成図がなかった。
選ぶ前の灰色。
選んだ後の光。
選び直すための低い三音。
見ない者のための凹凸。
分からない場所の空白。
作品としては未完成だった。
救援道具としては、その未完成こそが必要だった。
二十四分。
幻は完成しなかった。
完成させないことを完成条件にした。
赤天幕の床へ、白縁の救援像が広がる。
中心はない。
各天幕を示す小さな像が、見る者の位置から同じ大きさに見えるよう配置されている。王の天幕も、洗濯場も、山羊小屋も、薬天幕も、名前縄の天幕も、同じ大きさ。
道は一本ではない。
選ぶと、選んだ線だけが少し明るくなる。
他の線は消えない。
選ばなかった可能性として残る。
危険区間は黒い穴ではなく、白い斜線。
何があるか分からない。
だから、そこへ恐ろしい何かを自動で想像させない。
「未知を黒にしない」とリゼ。
「黒は危険確認済み」とユノ。
「知らないと危険は別」
「以前の僕は、知らない場所を明るくした」
「今度は真っ黒にするかと思った」
「反省は色を反転することじゃない」
「少し学んだ」
「褒めた?」
「観測」
「それ、便利だね」
トーヴが口で脚注番号を付ける。
「脚注一。表示制度としての白縁は、サリフ全域で統一されていません。千扉隊商の一部氏族では白を弔い、別氏族では未婚、別氏族では交易保留として用います。したがって、白縁単独を恒久規則として採用するのは危険です」
「今、言う?」とロロ。
「今、説明しなければ、成功した表示が正しい文化として固定されます」
「じゃどうする」
「今日限りの救援表示と明示する。終わった後に住民自身が採用・修正・拒否を決める」
「期限」と靴職人。
「救援終了まで」とユノ。
「見える場所へ書け」
ユノは幻の上端へ大きく表示した。
――この像は救援終了時に消える。
――未知は未知のまま示す。
――見ない選択で救援資格を失わない。
――経路は途中で変更できる。
――案内が消えた時は、その場で止まらず、腰札の触覚へ従う。
「最後、止まらずでいい?」とハル。
「鏡の前で止まると後続が押す」とエリア。「ただし足場が不明なら動かない」
「矛盾」
「条件分岐」
「文章にすると長い」
「だから腰札へ二種類。案内消失は一歩前へ出て横へ退避。足場不明は両足を広げて合図」
「踊りの振付みたい」
「また舞踏へ寄せますね」
「覚えやすい」
「あなたは足を踏む」
「一回」
「十二秒中一秒。事故率八・三パーセント」
「高く聞こえる!」
「高いです」
ユノは二人を見た。
相手の歩調を話す声。
言い争っているのに、互いの次の一歩を確認している。
「羨ましい?」とリゼ。
「感情を言い当てないで」
「兄さんの技」
「されると腹が立つね」
「学び」
「高い授業料」
救援像を見せる前に、ユノは説明した。
これは現実ではない。
現在の観測、過去の観測、機構の確認、未知を重ねた像である。
見る者の位置によって前へ出る経路が違う。
他人の線は消えない。
経路変更は罪ではない。
途中で戻っても、救援を妨害したことにはならない。
説明は美しくなかった。
三度言い直した。
質問で止まった。
砂山羊が布を踏んだ。
子どもが「白縁より亀の方が分かる」と言った。
老女が「音をもっと低く」と要求した。
靴職人が「王家みたいな言い回しだ」と二度けなした。
ユノは、全て修正した。
理解しやすさを、自分一人で決めない。
幻は少しずつ、作品ではなく道具になった。
「始める」とカイル。
王盾炎が、赤天幕の入口で細く灯る。
壁ではなく、出発の間隔を示す合図。
「第一便、担架五、幼児八、光過敏三。広幅門」
エリアの声。
「第二便、歩行者三十、砂山羊白一。低圧門」
サミラの声。
「第三便、圧力交代四、修理二、靴職一。生活継続路」
ロロの声。
「幻像を見ない者、腰札確認。見える者も腰札確認。像だけで歩くな」
リゼの声。
「像の更新、八秒ごと。観測時刻を上端へ表示。空白増加時は音を三度切る」
ユノの声。
アルマが鳴る。
白縁の像が、千枚の鏡の上ではなく、人々の足元の曇り布へ広がった。
住民は、同じ未来を見なかった。
ある者には広幅門が前へ出る。
ある者には低圧門。
ある者には残留路。
ある者には何も出ない。
「私、まだ決めてない」と若い母親。
「決めなくていい」とリゼ。「危険が来るまで、ここが保留区」
「危険が来たら」
「代理手順を読み上げる。嫌なら今、嫌と言える」
「嫌」
「記録した。代理時も最短時間だけ」
「子だけ先に」
「子本人へも聞く」
「三歳」
「言葉だけが意思じゃない」
リゼは子へ二つの布片を見せた。
青い柔らかい布。
赤い硬い布。
子は青を握った。
広幅門。
母親はまだ選ばない。
子は先に出る。
別れることを正解とは呼ばない。
同じ道を選ばないことを失敗とも呼ばない。
第一便が動く。
鏡へ入る。
像は正しい。
通過機能は別。
腰札の丸い突起。
床の白線。
低い音。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
広幅門へ、担架が出る。
ゼロスター号の船腹で、セレナが人数を数える。
「担架五。幼児八。光過敏三。過不足なし」
歓声が上がりかける。
「揃えないで」とリゼ。
拍手がばらばらに落ちた。
ユノは、その不揃いな音を聞いた。
好きな音だった。
誰も同じ感情を要求されていない音。
第二便。
低圧門。
砂山羊の白が、鏡前で座り込む。
「動かない!」
「引くな!」とハル。
子どもが前へ出る。
「白、次は暗い」
山羊は首を振る。
「暗いの嫌」
「別路へ」とエリア。
「三十人の後ろが詰まる」
「横へ退避。砂鳥札へ変更」
「白山羊は広幅門へ」とリゼ。
「担架便は終わった」
「次便へ一頭追加」
「規則外」とカイル。
「規則を守って山羊を置く?」とハル。
「規則を変更する。追加を記録」
「王子、早い」
「翠獣環へ入ってから、動物に制度を負け続けた」
「学びが重い」
白山羊は広幅門を通った。
黒と茶は低圧門を走る。
三匹とも別の鏡から、同じ砂丘へ出た。
子どもが笑う。
ロロは頭を抱えた。
「経路三本、維持費三倍」
「命三つ」とリゼ。
「分かってる! 分かってるけど金は増えねえ!」
「帳簿は生きてる人が払う」とハル。
「お前、払わねえ側の名言を作るな!」
十五分。
半数が移動した。
圧力は保たれている。
循環核はまだ生きている。
ナジュたちの交代班は、鏡裏で砂の流れを受け続けている。
水車天幕は、外縁を滑る。
幻像の青い水車が、空へ半分浮いている。
「位置更新」とエリア。
「直接観測なし」とセレナ。「像は現在の可能性が高い。風向き一致。時刻差最大二十秒」
「金縁ではなく紫」とリゼ。
「紫へ」
ユノが音を変える。
水車天幕の縁が金から紫へ変わる。
住民がざわめく。
「危険になった?」
「安全が確認できなくなった」とユノ。
「同じ?」
「違う。危険だと決めたわけじゃない」
「じゃ安心していい?」
「安心を命令できない」
「役に立たない」
その言葉が、ユノの胸へ入る。
正しい像と、役に立つ像。
役に立たない正確さは、時に見捨てられる。
役に立つ嘘は、時に感謝される。
王家は後者を選び続けた。
「役に立つために、危険だと言い切ることはできる」とユノ。
住民が彼を見る。
「でも、それをすれば、あなたの選択を僕の恐怖へ寄せる。だから今は、分からないと言う。分からないから、確認班を出す」
「間に合わなかったら」
「僕の責任」
「責任が水になる?」
「ならない」
「謝れば天幕が戻る?」
「戻らない」
「それでも、分からない?」
「分からない」
微笑みはなかった。
「だから、あなたの判断に必要な別のものを聞く。水車天幕が失われた時、何が最初に足りなくなる」
「水」
「何刻で」
「今の備蓄なら四刻。飲み水だけなら六。洗浄を止めれば七。山羊を減らせば」
「減らさない」と子ども。
「なら六」
「水車の人は」
「黄色旗の家族、五人」
「その五人を先に救うか、水車を救うか」
住民たちは別々に答えた。
人。
水。
両方。
決められない。
水車の本人へ聞け。
意見は揃わない。
ユノは揃えなかった。
「確認班は二人」とエリア。「ハル、サミラ」
「俺?」
「身体順序で戻れる。サミラは風と天幕の結びを知る」
「肩一、方向二」
「申告した」
「二分半で戻る」
「短い」
「水車を引かない。位置、人数、綱の状態だけ」
「了解」
ハルが赤いマフラーを締める。
「一、二、三」
鏡へ飛び込む。
その瞬間だった。
砂嵐の音が、低くなった。
嵐が弱くなったのではない。
音の源が、地面から空へ移った。
鏡砂が逆流する。
足元の粒が、一枚ずつ立つ。
金、白、紫、黒。
薄い板のような粒が、風を受けて空へ昇る。
千枚の携帯鏡が、同時に震えた。
「枠を押さえろ!」とサミラ。
遅い。
一本目の鏡柱が抜ける。
根元にあった砂が噴き、枠が空中へ持ち上がる。
二本目。
三本目。
十本。
百本。
鏡は扉である。
扉の向こうへ、別の天幕がつながっている。
その扉が、空を飛んだ。
入口が回る。
出口が回る。
観測面が回る。
通過中の山羊の前脚が一枚へ入り、後脚の前で鏡が九十度回転する。
カイルが王盾を差し込む。
「止める!」
炎の盾が枠を受ける。
鏡の向こうでは、別の場所の砂が横へ落ちる。
「通過機能が生きたまま浮いてる!」とロロ。
「全部閉じられる?」
「閉じたら、鏡裏の循環が爆ぜる!」
「一部」
「どれが一部だ! 枠が回って裏刻印見えねえ!」
幻像の線が千方向へ伸びる。
現実の鏡が動いたため、観測時刻が一斉に古くなる。
金縁が青へ。
青が紫へ。
紫が白い斜線へ。
ユノは音を切った。
三度。
空白増加の合図。
「像を消す!」
「消したら混乱する!」と誰か。
「古い案内を残す方が危険だ!」
ユノは弓を弦から離した。
救援像が消える。
白い布だけが残る。
人々は腰札を握った。
見えなくなっても、道はゼロにならない。
そのために作った。
だが千枚の扉は、風へ散った。
砂漠の空に、千の別世界が開く。
昼。
夜。
水車。
赤天幕。
山羊小屋。
雲海。
ゼロスター号。
誰もいない古い王宮の廊下。
全部が正しい像であり、今くぐってよい道とは限らない。
空中で、扉同士が向き合う。
入口が出口を吸う。
出口が別の入口へ砂を吐く。
千扉は、地上より巨大な循環を作り始めた。