第331話 第十章「鏡を帆にする」前編
機械には、二つの死に方がある。
壊れて動かなくなる死。
正しく動きすぎて、人間が止められなくなる死。
技師は前者を修理する訓練を受ける。
後者を止める訓練は、たいてい事故の後で始まる。
千扉隊商の鏡門は、壊れていなかった。
入口は物を吸い、出口は物を吐き、観測面は景色を映す。反転した枠も、差し直された鏡も、その時の向きに従って正しく働いている。
正しい部品が、正しい力で、正しく人を殺しかけていた。
「一番、金のかかる壊れ方だ!」
ロロ・ピクスは叫んだ。
叫びながら、赤天幕の支柱を四本の補助手で抱え、自分の両手で工具箱を蹴り開けた。
空中には千枚の鏡。
正確には九百八十七枚。
十三枚は地上に残っている。そのうち三枚は割れ、二枚は山羊に踏まれ、一枚はノクスが敵と認定して裏返し続けていた。
「ノクス! 遊ぶな!」
「ナァ!」
「敵じゃねえ! いや敵だけど部品だ! 部品を倒すな!」
ノクスは七度目に鏡を裏返した。
裏面の温度が見える。
冷たい。
「出口!」とロロ。
言った瞬間、鏡から砂が噴いた。
ロロは横へ転がる。
右眼の焦点が遅れる。砂光を浴びすぎたせいで、片側の像が白くにじむ。
「右眼三!」
「申告を聞いた!」とエリア。
「聞くだけか!」
「代わりを送る。ロロ、正面作業から外れて」
「俺が機関長!」
「だから指揮へ回って」
「指揮は手が汚れねえ!」
「あなたはもう六本とも汚れています!」
「あと二本あれば!」
「増やさないで!」
カイルの王盾炎が空中で広がる。
炎は壁ではない。
赤い弧を描き、回転する鏡の縁だけを弾く。鏡面へ正面から当てれば、熱で位相膜が歪み、通過先が暴れる。だから枠だけ。
「三枚、船腹へ!」
「受ける!」とハル。
ハルはゼロスター号の外板を走る。
方向感覚二。
空中の鏡は上下を何度も反転させる。彼にとって最悪の景色である。
「右が右じゃない!」
「右は右です!」とエリア。
「鏡の右!」
「どの鏡!」
「俺が映ってるやつ!」
「全部に映っています!」
「人気者!」
「冗談が増えています。恐怖二以上!」
「性格を診断に使わないで!」
一枚目。
ハルは枠へ足をかける。
鏡の中では、ハル自身が別角度から落ちてくる。
実物の足場を見失う。
彼は目を閉じた。
風。
枠の振動。
ロープの張り。
「一、二、三」
跳ぶ。
左手で索を取り、右足を船腹の突起へ当てる。左肩へ衝撃を入れないよう、体を一回転させて力を腰へ逃がす。
一枚を捕まえる。
二枚目が背後から来る。
カイルの盾が縁を弾く。
「借り一つ!」
「王国予算で請求する!」
「私人の救助を国へ付けるな!」
「王太子の私費は国庫と税務官が争う!」
「今する話?」
「怖い時は帳簿の話をすると落ち着く!」
「ロロと同じ病気!」
「名誉だ!」とロロ。
「褒めてない!」
三枚目。
エリアの路図が細い線を出す。
線は鏡の像へ向かわない。
実物の枠、索、船腹、支柱だけを結ぶ。
「ハル、次の足場は映像の左ではなく、あなたの踵から後方七十センチ!」
「言葉が長い!」
「右足を後ろ!」
「分かる!」
足が枠へ乗る。
鏡は回る。
ハルは鏡面を見ない。
エリアの声へ足を出す。
一歩。
一線。
一歩。
一線。
舞踏のようだと彼は思う。
踊る余裕はない。
だからこそ、相手の次の足を信じることだけが、踊りから残った。
ロロは、そのやりとりを聞きながら怒鳴る。
「恋愛は後でやれ! 今やると修理項目が増える!」
「やってない!」
二人の声が重なった。
「息ぴったり!」とカイル。
「お前も後で燃やす!」とエリア。
「俺だけ比喩が物理!」
空中の千扉は、三つの災害を同時に起こしていた。
一つ。
回転した入口が周囲の砂と人を吸う。
二つ。
出口が別地点の砂圧を吐き、天幕を内側から膨らませる。
三つ。
入口と出口が空中で向き合い、吸った風を互いへ渡し続け、局地的な加速輪を作る。
「閉じた風車」とロロ。
「風車なら動力へ」とハル。
「言うと思った!」
「使える?」
「使えるかどうかと、使っていいかは違う!」
「じゃ、使っていいようにする」
「お前はいつも語順で無茶を通す!」
ロロは工具箱から、平たい黒板を取り出した。
私物工具の名は、焼きプリン二号。
一号は鏡裏温度の測定中、砂山羊に食べられた。食べられたというより、齧られて位相針だけ飲み込まれ、現在は山羊の腹から一定間隔で測定音がする。
「それ、直さないの」とハル。
「自然排出待ち!」
「機械の回収方法として最悪」
「お前の侵入方法よりまし!」
焼きプリン二号を、地上に残った出口鏡の裏へ当てる。
黒板に三本の波が出る。
光相。
音相。
物質相。
「鏡門は一枚で全部をやってるんじゃねえ」とロロ。「表面の偏光膜が像を拾う。枠の位相環が音と物を通す。裏の刻印は持ち主向けの役割表示。だから――」
「枠を止めて、面だけ残す」とエリア。
「俺に言わせろ!」
「時間短縮」
「技師の見せ場を削るな!」
「見せ場と救命、どちらが先」
「救命! くそ、正しい!」
「正しさに負けると機嫌悪いですね」とセレナ。
「正しく動く機械に殺されかけてるからな!」
枠の位相環だけを止める。
そうすれば鏡は、別地点の景色を映す板になる。
通過はできない。
吸い込みも吐き出しも止まる。
だが問題がある。
「循環核へつながる枠を一斉停止すると、裏側で受けてる砂圧が逃げ場を失う」とロロ。「赤天幕が膨らむ。鏡裏のナジュ班が潰れる。順番を組め」
「何枚ずつ」とエリア。
「通常なら八。今の圧なら四。水車天幕が引っ張ってる系統は二」
「停止時間」
「一枚七秒。手動。裏へ触る許可が要る」
「空中」
「だから最悪なんだよ!」
ロロは四本の補助手を開く。
「俺が行く」
「右眼三、喘息一」とエリア。
「動ける」
「見誤る」
「触れば分かる」
「空中の回転枠を触覚だけで?」
「機械は顔より裏が正直だ」
「それ、隊商民へ言わないで」とサミラ。
「鏡の話!」
「鏡裏は寝室と帳簿と墓だ」
「知ってる! だから許可札を!」
サミラは黒縄を持ち上げた。
聞き取りの時、各持ち主から得た許可が結ばれている。
赤い結びは緊急時の裏面操作を許可。
青は持ち主立会いのみ。
白は測定のみ。
黒は拒否。
無色は未決。
「赤、三百十二」とサミラ。「白、百八十。青は持ち主を連れていく。黒と無色は触らない」
「触らない鏡が循環核なら」とカイル。
「別の路で圧を逃がす」
「時間が」
「拒否を災害で消すな」
「命が」
「命のためなら何でも見ていい、触っていいと言い始めた王家が、千扉を監視路にした」
サミラの声は低い。
トーヴが眼鏡を押し上げる。
「鏡裏の古い閲覧痕は、その歴史を示す可能性があります。ただし、今回の反転との因果は未確認です」
「脚注は後!」とロロ。
「後にすると、断定だけ残ります」
「じゃ短く!」
「昔、王家が見た痕。今の事故原因とは未証明」
「できるじゃねえか!」
「屈辱です」
「救命のために文章力を下げろ!」
「精度は下げていません!」
カイルはサミラを見る。
「黒と無色には触れない。別路を作る。王族としてではなく、救援指揮として約束する。期限は救援終了まで。後で操作記録を持ち主へ返す」
「役の期限が言えるようになったね」
「旅が長い」
「王子は育つのが遅い」
「国は待ってくれない」
「人も待たせるな」
「はい」
王太子が、隊商の道守へ素直に返事をした。
歴史家がこの場面だけを切り取れば、改革の象徴と書くだろう。
実際には、カイルは次の瞬間、飛んできた鏡へ頭をぶつけている。
「痛っ!」
「象徴が低い!」とハル。
「何の象徴だ!」
「王権の頭上注意不足!」
「後でお前を不敬罪にする!」
「役の期限は?」
「俺が恥を忘れるまで!」
「永久刑」とセレナ。
作戦は、七列になった。
第一列。位相停止班。
ロロ、リゼ、隊商の鏡職人六名。
第二列。空中捕縛班。
ハル、カイル、ゼロスター号の索手、砂乗り十二名。
第三列。経路更新班。
エリア、セレナ、トーヴ。
第四列。圧力調整班。
ナジュと鏡裏の交代班。
第五列。住民誘導班。
サミラ、靴職人、各天幕の道守。
第六列。幻像補助班。
ユノ、リゼ――ただしリゼは第一列と兼務するため、確度縁は局所だけ。
第七列。船体保持班。
ゼロスター号、王獣鈴の保管索、全員の残った手。
「リゼを二列へ置くな」とユノ。
「本人に言って」とエリア。
「リゼ」
「嫌」
「まだ頼んでいない」
「兼務をやめろなら嫌」
「光過敏二、片頭痛二」
「中止は三」
「兄として」
「役外」
「救援者として」
「私は鏡機械員」
「第一継――」
ユノは言葉を止めた。
全員が一瞬、彼を見る。
「第一現場責任者として」と言い直した。
リゼの目が細くなる。
「役を盛った」
「妹が減らさないから」
「条件を出して」
「片頭痛三で離脱。面紗が外れたら即交代。鏡へ直接視線を二秒以上向けない。僕の合図より自分の症状を優先」
「最後、採用」
「全部採用して」
「検討」
「家族交渉が難航しています」とトーヴ。
「記録しないで」と兄妹。
「観察です」
セレナが少しだけ口元を緩める。
珍しい。
「笑った?」とハル。
「砂です」
「口元に砂で笑う?」
「質問を撤回してください」
「証拠不足」
「拘束します」
「権力!」
最初の四枚を止める。
「赤札確認!」
「持ち主、サミラ立会い!」
「裏面温度、出口!」
「物質相、右回り!」
「停止針、三段目!」
ロロは空中の枠へ飛びついた。
四本の補助手が縁を抱え、左手で位相蓋を外し、右手で黒い停止針を差す。
枠の中では、別の天幕が横倒しになっている。
子どもの顔が見える。
「向こうに人!」
「像だけ!」とリゼ。「通過中なし、青鈴遅延二・一!」
「止める!」
針を半回転。
吸い込みが弱まる。
鏡面は残る。
「一!」
二枚目。
ハルが索を投げる。
カイルが枠を盾で押し、回転を一秒だけ止める。
ロロが裏へ回る。
「黒札!」とサミラ。
「触れねえ!」
「別へ!」
「でもこいつが三枚目の圧を食ってる!」
「白札の観測面を物理板にして、風を外へ逃がす」とエリア。
「観測面は通過機能なし!」
「だから枠を寝かせ、風向きを変える」
「それだけじゃ圧が」
「二枚先の赤札出口へ渡す」
「線を出せ!」
エリアの路図が、黒札鏡を避ける。
白札の観測面。
赤札の出口。
空中の支柱。
三点を結ぶ。
「これを帆にする!」
ロロは叫んだ。
鏡門としては触れない。
ただの物理板として、角度を変える。
裏を見ない。
刻印も読まない。
表面へ索を掛け、風を受ける。
「持ち主、表面操作は?」
「許可済み!」とサミラ。
「やる!」
ハルと砂乗りが索を引く。
鏡面が風へ斜めに入る。
吸い込みへ向かっていた砂流が、板に当たり、横へ逸れる。
隣の出口鏡へ。
出口が砂を吐く。
吐いた砂は、さらに別の鏡板へ当たり、上へ逃げる。
閉じた輪の一部が、空へ開く。
「風が抜けた!」
「帆だ!」とハル。
「鏡を帆へ使うぞ!」
「最初に俺が言った!」
「お前は何でも使うって言うだけだ!」
「発想!」
「責任のない発想は火花だ! 光るけど燃える!」
「じゃロロが炉にして!」
「そういう頼み方をされると断れねえだろ!」
ロロは笑っていた。
怖い時ほど、彼は修理費を口にする。
本当に面白い時は、金の話を忘れる。
「鏡門を止める! 鏡面は止めない! 千枚全部、扉じゃなく帆に変える!」
「全部は無理」とエリア。
「分かってる! 言わせろ!」
「実行数を正確に」
「赤札三百十二のうち二百。白札百八十は全部。青は持ち主立会いで最大九十。黒と無色は角度だけ、裏へ触らない。残りは門機能を維持して生活路と圧力路へ!」
「合計四百七十枚を帆化。残り五百十七枚」
「三百を門として残す。二百十七は予備と観測!」
「数字が合った」
「技師を何だと思ってる!」
「口より計算が速い人」
「褒めてる?」
「注意しています」
「この船、評価が全部注意!」
鏡を帆にするとは、詩的な命名である。
現場は詩ではない。
鏡は帆布より重い。
枠は風を切らず、振動する。
表面は光を返し、作業者の目を焼く。
一枚が裏返れば、受けた風を隣へ殴り返す。
索を結ぶ場所を誤れば、鏡そのものが刃になる。
しかも、何枚かは扉として生きている。
板だと思って触れた瞬間、腕だけ別の天幕へ抜ける可能性がある。
「通過試験!」
ロロは砂袋を投げる。
鏡を抜ける。
「生きてる!」
「赤線!」とリゼ。
枠へ赤い布を結ぶ。
次。
砂袋が表面へ当たり、落ちる。
「止まった!」
「青線!」
次。
砂袋は映像だけを遮り、通過しない。
「観測!」
「白線!」
「色だけじゃ見えねえ人がいる!」
「結び目を変える!」と靴職人。
赤は一結び。
青は二結び。
白は輪。
視覚と触覚。
同じ情報を、同じ感覚へ閉じ込めない。
隊商民が索を作る。
鏡職人が枠を止める。
ゼロスター号が張力を取る。
王盾が飛来物を弾く。
路図が現物だけを結ぶ。
幻は、今見えている風向きだけを、太い白縁付きで表示する。
ユノは未来を見せない。
「現在風、北東へ十七!」
「観測者は?」とエリア。
「船首風杯、時刻いま!」
「確度」
「金!」とリゼ。
「三秒で青!」
表示はすぐ古くなる。
古くなったことも表示する。
美しい像を維持する暇はない。
白い線が切れ、色が変わり、文字が乱れる。
ユノの演奏も乱れる。
右手薬指が二。
耳鳴り右三、左二。
「兄さん、交代」
「あと二列」
「中止条件は右四」
「三」
「『あと』と言ったから加算」
「その規則、今?」
「最初に決めた」
「記憶が良すぎる」
「忘れた人へ言う?」
ユノは弓を止めた。
言葉が止まる。
「ごめん」
「今の私に謝って」
「今の君へ、言い方が悪かった。交代する」
彼はアルマを抱え、後ろへ下がった。
代わりに、隊商の鐘手が三種類の低音を鳴らす。
幻がなくても、作戦は続く。
ユノの術を中心にしなかったからだ。
彼はそれを見て、少し寂しく、かなり安心した。