第332話 第十章「鏡を帆にする」後編

 二百枚。

 鏡帆が開く。

 砂嵐の内部に、反射の翼が生まれる。

 一枚が風を横へ逃がす。

 二枚目が上へ送る。

 三枚目がゼロスター号の帆へ当てる。

 船の片帆が膨らむ。

「左推力増加!」

「右が足りねえ!」

「鏡帆十二列、右へ五度!」

「持ち主確認!」

「許可!」

「引け!」

 百人が索を引く。

 鏡が一斉に傾く。

 空は割れたように光った。

 千の太陽。

 千の地平。

 千の生活。

 光が砂嵐を切る。

 風が上へ逃げる。

 隊商の天幕群が、沈む代わりに浮いた。

 赤、青、黄、緑、白。

 布の家々が鏡帆の下で持ち上がり、砂丘から一尺、二尺、三尺と離れる。

「浮かせる高さ、三尺まで!」とエリア。「上げすぎれば底索が切れる!」

「風が強い!」

「帆を寝かせろ!」

「寝かせると左の出口鏡へ砂が戻る!」

「二列だけ維持!」

「誰が二列を」

「持ち主の希望順!」

「救難中に希望順?」

「選ばなければ、また一人が全部決める!」

 時間はない。

 それでも、完全に一人へ集めない。

 各列の道守が、自分の天幕の帆角を決める。

 全体の上限だけ、エリアが示す。

 ロロは壊れる角度を怒鳴る。

 カイルは衝突時の優先を決める。

 サミラは拒否された鏡を外す。

 中央指揮は、全てを決めない。

 全体が壊れない条件だけを共有する。

 これは統一より遅い。

 しかし、一人が倒れた時にも続く。

 ゼロスター号の底で、王獣鈴が低く震えた。

「鳴った!」とハル。

「使ってない!」とロロ。

「風で共鳴!」とセレナ。「能動術式なし。共同保管索、全て維持」

 鈴の七重反響が、鏡帆の振動と重なる。

 同じ拍にはならない。

 七つの遅れが、別々の帆列へ伝わる。

 偶然か、機構か。

 この場では証明しない。

「利用できる振動だけ使う!」とロロ。「天鍵の意味は後! 今はでかい重りだ!」

「天鍵への扱いが雑!」とカイル。

「権限ねえんだから道具にもしねえ! 重さは勝手にある!」

 王獣鈴は答えない。

 重りとして、船の腹へ留まる。

 ゼロスター号が風を受ける。

 鏡帆群を引く。

 千扉隊商全体が、砂嵐の沈み流から横へ滑った。

「動いた!」

「生活区、外縁から三十!」

「五十!」

「七十!」

 砂丘の壁が後ろへ流れる。

 赤天幕の床が傾く。

 ハルが子どもを抱え、左肩をかばいながら柱へ移す。

「肩!」とエリア。

「一!」

「抱える側を右へ!」

「分かってる!」

「分かっている人は先にする!」

「今した!」

「一秒遅い!」

「事故率?」

「計算させないで!」

 エリアの呼吸が乱れる。

 路図を連続展開している。

「呼吸」とハル。

「二」

「踵」

「右二、左二」

「交代」

「あと」

「その言葉、加算」

「リゼの規則を盗まないで」

「いい規則」

「……三十秒だけ」

「十五」

「二十」

「取引?」

「相談」

「二十」

 エリアは線をセレナへ渡す。

「ここから現物位置だけ維持。推定線は消す」

「了解」

「ハル、私を支柱まで」

 命令ではない。

 具体的な依頼。

「うん」

 ハルは右腕を差し出す。

 エリアは掴む。

 歩幅を合わせる。

 舞踏ではない。

 けれど足は踏まなかった。

 鏡帆三百六十一枚。

 地上に残った十三枚を除けば、空中鏡の三分の一を越えた。

 それだけで、嵐は消えない。

 風とは、消すものではない。

 行き先を変えるものだ。

 逃がされた風は、上へ集まる。

 鏡帆の上に、透明な川ができる。

 砂粒がその流れを可視化し、金の帯となって千扉隊商の頭上を走った。

「上流、速すぎる!」

 砂乗りの一人が叫ぶ。

「何が来る!」とロロ。

「鏡柱!」

 遠方で抜けた三十枚が、連結索ごと風の川へ乗った。

 巨大な鎖帆となって、隊商へ突っ込んでくる。

「切る!」とカイル。

「枠を切るな!」とロロ。「どれか通過中かもしれねえ!」

「では受ける!」

「王盾で三十枚は」

「王子を何だと思っている」

「古傷の多い十七歳!」

「正確だ!」

 カイルが空中へ出る。

 赤い炎が盾から翼状に広がる。

 受け止めない。

 正面衝突すれば、力は全部彼の肋骨と背中へ来る。

 炎の翼を斜めに置く。

 三十枚の鏡鎖が盾へ触れ、横へ滑る。

「右へ流す!」

「右は水車天幕!」とエリア。

「左!」

「左は住民便!」

「上!」

「風の本流!」

「下!」

「隊商!」

「選択肢が全部悪い!」

「災害です!」

「説明になっている!」

 カイルの膝が落ちる。

 右脇腹二。

 背中三。

 炎の角度が揺れる。

「カイル、七度下!」とロロ。

「下は隊商だと言った!」

「七度なら鏡帆四列目が受ける!」

「信じるぞ!」

「信じろ!」

 盾を下げる。

 三十枚の鎖が斜めに落ちる。

 四列目の鏡帆が風を受け、弓なりになる。

「索、張る!」

 百人の手が動く。

「放すな!」

「全部は持てない!」

「全部持つな! 二結びを先に放せ!」

 二結び。

 停止済み鏡。

 持ち主たちが索を一斉に一尺送る。

 鏡帆がしなる。

 三十枚の鎖を受ける。

 衝撃は一人へ来ない。

 百本の索へ分かれる。

 百人の腕へ分かれる。

 天幕の支柱へ、ゼロスター号の船体へ、砂丘へ打った杭へ分かれる。

 力を分けるとは、力を消すことではない。

 痛みの所有者を一人にしないことである。

 カイルが船腹へ戻る。

「脇腹三、背中三、膝二」

「座って」とエリア。

「指揮」

「口は座っても動く」

「王太子の価値が口だけに」

「元から半分は口です」とセレナ。

「残り半分は?」

「印章」

「身体がない!」

 カイルは座った。

 座ったまま、次の衝突優先を決める。

 英雄は立ち続けるものだという古い絵画がある。

 実際の指揮官は、立てない時に立つふりをすると、多くの人を巻き込む。

「鏡裏圧、上昇!」

 ナジュの青鈴が鳴る。

 一回。

 短。

 二回。

「停止が速すぎる!」とロロ。

「四枚単位を守ってる!」とリゼ。

「帆化で風向きが変わった! 裏側へ別の圧が入ってる!」

「どこ」

「循環核!」

 空中の中心。

 青枠の二枚。

 互いを映し、遅延ほぼ零で、入口と出口が向かい合う循環核。

 今は鏡帆群の中央で、回転しながら砂を吸い、吐き、また吸っている。

 その周囲だけ、風が円筒になる。

「核を止める?」とハル。

「止めたら生活路四十三本が切れる!」

「今、住民の半分は外」

「残り半分とナジュ班が中!」

「順番を変える」

「簡単に言うな!」

「簡単に言うから、ロロが難しくできる!」

「褒め方が腹立つ!」

 ロロは循環核を見る。

 右眼が白くにじむ。

 左眼だけで、二枚の回転と索の震えを読む。

 再機〈リメイク〉を使えば、鏡を「元の状態」へ戻せるかもしれない。

 元。

 嵐の前か。

 反転する前か。

 王家が閲覧痕を残す前か。

 持ち主が生活路へ差し替える前か。

 鏡職人が初めて焼いた時か。

 元の状態とは、誰の都合で選ぶ過去か。

「再機は使わねえ」

 ロロは言った。

「聞いてない」とハル。

「俺が聞いた」

「自分へ?」

「機械へだ!」

「機械、返事した?」

「した。嫌だって」

「ロロ語」

「技師語!」

 彼は黒板へ、循環核の波形を出す。

 光相は安定。

 音相は零へ近い。

 物質相は、左右で逆。

「二枚を一組として止めるから爆ぜる」とロロ。「一枚ずつの扉だと思うな。間にある循環を部品として見る」

「部品は二枚ではなく、輪」とエリア。

「今度は言わせろ!」

「どうぞ」

「……輪を切らず、輪の出口を増やす」

「鏡帆へ」

「言った!」

「ごめんなさい」

「素直に謝るな、調子狂う!」

 循環核へ、停止済みの観測面を四枚近づける。

 通過機能はない。

 ただ風を受ける。

 二枚の核から噴く砂流を、四方向へ分ける。

「入口を止めず、出口圧を減らす」とリゼ。

「そうだ。輪の中身を薄くしてから、片側の物質相だけ落とす。音と像は残す。ナジュへ合図が通る」

「七秒では無理」とセレナ。

「九十秒」

「残り時間」

「水車天幕の落下まで推定十一分」

「足りる」

「失敗時」

「核が割れる」

「成功時は」

「核が割れない」

「説明の情報量が少ない」

「技術は結果だけならそうなる!」

「失敗時の被害範囲」

「鏡片半径二十。接続先不定。水車天幕の綱へ反動」

「避難半径三十」とカイル。「許可は」

 サミラが黒縄を見る。

「二枚とも赤札。持ち主はナジュの家と、水車天幕の共同鏡」

「本人は鏡裏」

 青鈴が鳴る。

 二回。

 長。

 サミラは聞く。

「『やれ』だ」

「翻訳の証拠」とセレナ。

「救援符号、二長は『外部判断許可、理由後送』」

「記録」

「やる!」

 ロロが循環核へ向かう。

 補助手四本。

 腰索二本。

 停止針四本。

 焼きプリン二号。

 吸入器。

「喘息」とリゼ。

「一」

「右眼」

「三」

「四で戻る」

「三半で」

「半って何だ!」

「見えないのに見えたと言った時」

「怖い判定!」

「戻って」

「分かった!」

 ロロは鏡帆の索を伝う。

 足が短い。

 腕は六本ある。

 人間の形としては、空中作業に向いているのか向いていないのか、本人にも分からない。

「右、二尺!」とエリア。

「右眼見えねえ!」

「あなたの左!」

「最初から言え!」

「あなたが右と言った!」

「言葉が鏡!」

 循環核が回る。

 鏡の中にロロが映る。

 一人。

 二人。

 四人。

 八人。

「手が多すぎて気持ち悪い!」とハル。

「実物へ言うな!」

「像へ!」

「区別できねえ言い方すんな!」

 ロロは一枚目の裏へ回る。

 冷気。

 出口。

 物質相環の第三爪へ、停止針。

「一!」

 半回転。

 砂流が弱まる。

 鏡帆四枚が、その砂を受ける。

「帆角、七、十三、二十一、三十四!」

「数列?」とハル。

「素数じゃねえ!」

「聞いてない!」

「お前が言いそうだから先に!」

 帆が開く。

 風が四方へ散る。

 循環核の回転が遅くなる。

 ナジュの青鈴。

 一回。

 一回。

 一回。

「圧、下がってる!」

「二枚目!」

 ロロが核の間へ入る。

 二枚の鏡が向かい合う狭い空間。

 鏡の中へ、無限のロロ。

 最初の像。

 次の像。

 その次。

 全部同じに見える。

 だが音は遅れる。

 吸入器の留め金を弾く。

 カチ。

 カチ。

 カチ。

 奥ほど遅い。

「本物は一番早い音」

 ロロは目を閉じた。

 機械へ顔ではなく耳を近づける。

 金属の震え。

 位相環の爪。

 砂の擦れ。

 右ではなく左。

 停止針を差す。

「二!」

 回す。

 物質相が落ちる。

 吸い込みが止まる。

 像は残る。

 音も残る。

 循環は、完全には切れない。

 だが、砂を回す力だけが消える。

「成功!」とハル。

「まだ言うな!」

 ロロは叫んだ。

 正しく叫んだ。

 停止した物質相の反動が、枠へ戻る。

 青い二枚が、逆方向へねじれる。

 古いひびが光る。

「枠、割れる!」

「退避!」とエリア。

 ロロは腰索を外す。

 外さなければ引かれる。

 外せば落ちる。

「一、二――」

「それ俺の!」とハル。

「借りる!」

「三!」

 ハルが叫ぶ。

 ロロは跳ぶ。

 空中で四本の補助手を広げる。

 ハルの投げた索を二本で取り、残り二本で焼きプリン二号を抱える。

「工具優先!」

「機関長の命!」

「お前より?」

「同率!」

「反省しろ!」

 二枚の循環核が鳴る。

 高い音。

 低い音。

 同時ではない。

 青い枠の一枚へ、白い亀裂が走った。

 鏡面が割れる。

 破片は飛ばない。

 別地点の景色が、細い帯へ分かれて空中へ流れる。

 水車。

 赤天幕。

 雲海。

 黄色い旗。

「核、片側破断!」とセレナ。

「生活路は!」

「二十七維持、十六消失!」

「代替へ!」とエリア。

 だが、破断の反動はもう一つの場所へ届いた。

 水車天幕。

 外縁を滑っていた青い輪が、突然跳ねる。

 鏡像の中で、黄色い旗が現れる。

 五人。

 天幕の底索が一本切れる。

「実在確認!」とセレナ。「現在像、時差三秒以内!」

「位置は!」

「砂嵐外縁、ゼロスター号から西南――」

 エリアが地図筆を走らせる。

 しかし、水車天幕は西南へ飛ばなかった。

 循環核の反動で、残った一枚の出口が向きを変える。

 水車天幕の結び鏡が、その出口へ引かれる。

 青い天幕が、隊商本体とは逆方向へ飛ぶ。

「そっちは風の戻り流!」とサミラ。

「追える?」とハル。

「ゼロスター号は隊商を引いてる!」とロロ。「索を外せば、今救った全部が沈む!」

 千扉隊商は浮いた。

 住民の大半は安全圏へ出た。

 鏡帆は風を逃がしている。

 論理は正しかった。

 作戦も動いた。

 ただ一つ。

 水車天幕だけが、千の鏡から離れ、砂嵐の逆流へ運ばれていった。