第334話 第十一章「千扉の鎖をほどく」後編

 二便。

 若い女と老男。

 水車天幕の揺れが増す。

「入口温度、二・九上昇!」

「基準差三で撤退」とセレナ。

「あと〇・一?」とハル。

「温度は小数一位の誤差あり」

「撤退?」

「エリア」とカイル。

 判断が彼女へ集まる。

 エリアは、すぐ答えそうになる。

 全員が待つ。

 彼女は第六層を見る。

 持ち主の希望。

 観測面の向こうで、若い女が大きく両腕を交差させた。

 停止。

「撤退」とエリア。

「本人が先に」とハル。

「ええ」

 若い女は入口へ入らない。

 老男を支柱へ戻す。

 水車天幕の床を指す。

 砂が、入口鏡の下から噴いている。

「入口枠が浮いてる」とロロ。「温度上昇は吸い込み増加じゃなく、裏へ熱砂が入った」

「役割が変わる?」

「まだ入口。ただし枠が抜ける」

「固定できる?」

「向こうに工具がねえ」

 少年が板へ書く。

 ――水車軸の締め金を使う。

「軸を壊す」とサミラ。

 老男が頷く。

 若い女が反対する。

 六歳の子が、こちら側から鏡へ駆け寄る。

「歯はある!」

 声は届かない。

 子は歯車を掲げる。

 観測面の向こうで、若い女がそれを見る。

 軸がなくなっても、歯は残る。

 水車は同じ形では戻らない。

 けれど作り直せる。

 若い女が締め金を外す。

 老男も手伝う。

 水車軸が一段落ちる。

 入口鏡を固定する。

「温度、二・一へ低下!」

「再開条件」とセレナ。

「一分安定」とエリア。

「時間」

「戻り流まで二分半」

「一分は長い」

「短くしない」

「なぜ」

「安全確認を、焦りの値段で売らない」

 ユノが彼女を見る。

 それは彼が十四年間、売り続けてきたものだった。

 一分。

 水車天幕は揺れる。

 鏡帆は軋む。

 ハルは羅針盤の蓋を一度、二度と弾く。

 三度目は弾かない。

 温度二・一。

 二・〇。

 二・二。

 二・一。

「安定」とセレナ。

「二便、開始」

 若い女と老男が入る。

 十一秒。

 三番鏡へ出る。

 老男の足が絨毯のめくれへ入る。

 若い女が支える。

 ハルは手を出す。

 老男は掴む。

「本人に聞かず手を出した」とエリア。

「掴んだのは本人」

「……成立」

 四番鏡。

 二人がゼロスター号へ出る。

 残り、少年一人。

 水車天幕は、戻り流へ入った。

 風向きが反転する。

 五枚の鏡帆が、同時に裏返りかける。

「帆路、開始!」とロロ。

「人路と同時?」とカイル。

「今やらねえと天幕ごと入口鏡が飛ぶ!」

「少年が通過中に角度が変わる」とエリア。

「変えないと鏡そのものが抜ける!」

 二つの正しい判断が衝突する。

 待てば、人路が切れる。

 動かせば、人路が揺れる。

「少年へ聞く」とハル。

「時間がない」とカイル。

「一秒ある!」

 観測面へ、二枚の札。

 ――今すぐ門へ。

 ――帆を先に動かす。十秒待つ。

 少年が見る。

 水車天幕が傾く。

 一秒。

 彼は、十本の指を出した。

 十秒待つ。

「帆先行!」とエリア。

「五枚、角度!」

 サミラが黒縄を読む。

「八番、右十二! 九番、左十九! 十番、寝かせ七! 十一、持ち主保留!」

「保留を使うな!」とロロ。

「本人がいま決める!」

 十一番鏡の持ち主は、老女だった。

 すでにゼロスター号へいる。

「私の鏡は、夫が出ていった方角を映す」と老女。

「今は帆へしていい?」とハル。

「戻せる?」

「同じ景色へ戻せるとは言えない」

「なら」

 一秒。

「今は帆。後で、別の鏡を探す」

「十一、左二十五!」

「十二、白札観測! 表面だけ!」

 五枚が開く。

 戻り流を受ける。

 水車天幕が横へ押される。

 入口鏡の角度が揺れる。

「十秒!」とセレナ。

 少年が入口へ飛び込む。

 砂流。

 音遅延。

 十一秒。

 三番鏡が膨らむ。

 出ない。

「十二!」

「遅延変化二・八、撤退条件!」

「通過中!」

「戻せない!」

「出口側を合わせる!」とエリア。

 三番鏡の砂流が右へずれている。

 鏡帆で天幕が動き、入口の向きが変わった。

 出口を同じ角度へ回す必要がある。

「三番、右へ六!」

「持ち主は共同管理!」

「三者署名の範囲に角度変更?」とトーヴ。

「『救援中の位相安定操作』に含まれる!」

「脚注二で確認!」

「回せ!」

 ハルとカイルが三番鏡の枠を取る。

 カイルの背中三。

 ハルの左肩二。

「俺が右!」

「お前は左肩を使うな!」

「右で押す!」

「なら俺が引く!」

「王子、座ってた!」

「口だけで鏡は回らない!」

「さっき価値の半分が口って!」

「残り半分を今使う!」

 二人で回す。

 一度。

 二度。

「六度!」とエリア。

 三番鏡が光る。

 少年の腕が出る。

 ハルが右手で掴む。

「肩使わない!」とエリア。

「分かってる!」

 カイルが腰を取る。

 少年を引き出す。

 絨毯へ転がる。

 十五秒。

「生存!」とセレナ。

 少年は起き上がる。

 最初に観測面を見る。

 水車天幕には、もう誰もいない。

 その顔が崩れる。

「みんな出た」とハル。

「知ってる」

「最後、怖かった?」

「知ってる」

「何を」

「俺が怖かったの、俺が知ってる」

 ハルは黙る。

 誰かの感情を言い当てる必要はない。

「うん」とだけ返した。

 人は救えた。

 次は水。

 三枚の水路を開く。

 水車天幕の樽へつながる入口。

 砂抜き網を挟んだ中継。

 隊商内部の空樽へ出る出口。

「飲み水へ使える?」とサミラ。

「最初の二樽は洗浄用」とロロ。「鏡砂が混じる。三樽目を検査」

「全部失うより」

「だから全部飲めるって言うな」

「言ってない」

「技師は先回りで怒る」

「壊れる前に怒るのが整備!」

 水が流れる。

 透明ではない。

 銀色の細かな砂が混じる。

 一樽。

 二樽。

 三樽目。

 セレナが採取。

 ロロが濾過。

 サミラが味を見る前に、全員が止める。

「味見は検査じゃない!」

「隊商では検査だ」

「腹を測定器にするな!」

「ロロが言う?」とハル。

「俺は歯!」

「もっと悪い!」

 三樽目は、生活水として使用可。

 飲用は煮沸後。

 水車天幕一つ分の水は救えない。

 四割。

 救えなかった六割を、失敗として記録する。

 四割救えた物語へ書き換えない。

 最後は、空になった水車天幕。

 持ち主の家であり、隊商の水を作る設備であり、今回の事故の証拠でもある。

「捨てる案」とカイル。

「ある」とサミラ。

「回収する案」

「ある」

「どちらを」

「人が出た後で決めると言った」

 水車の五人が集まる。

 老女。

 老男。

 若い女。

 少年。

 子。

 意見は、また割れた。

 老女は残したい。

 老男は捨てたい。

 若い女は軸の記録だけ取ればよい。

 少年は天幕布を回収したい。

 子は歯車があるから新しく作れると言う。

「家族でも同じ意見じゃない」とハル。

「家族だから同じにする制度が多い」とリゼ。

「一票ずつ?」とカイル。

「水車の所有は共同」とトーヴ。「ただし子の票を年齢で半分にする慣習が」

「半分にしない」と子。

「本人から異議」

「票で決める?」とエリア。

 五人は互いを見る。

 老女が言う。

「回収できる範囲を先に聞く」

 エリアはロロへ。

「壊さず全部は」

「無理」

「天幕布」

「七割」

「水車軸」

「捨てる」

「鏡」

「十二枚中、帆五は回収。入口一は枠損傷。観測一は残せる。水路三は切る。残り」

「歯車」

「こっちに一個。向こうに十九。帆で天幕を横倒しにできれば、回収索を飛ばせる」

「危険」

「人は乗せない。索切断で即放棄」

 五人は相談する。

 今度は、子の意見を最後へ回さない。

「布七割、歯車取れるだけ。軸は置く」と若い女。

 全員が頷く。

「実施」とエリア。

 五枚の鏡帆が風を受ける。

 水車天幕が横倒しになる。

 ゼロスター号から回収索。

 ハルが投げようとする。

「肩」とエリア。

「右で」

「距離八十」

「できる」

「成功率」

「分からない」

「代わり」とカイル。

「背中三」

「ロロ」

「短い!」

「ユノ」

「右薬指二」

「サミラ」とハル。

「私なら届く」

 サミラが黒縄を投げる。

 長い。

 百の結び目が風を掴む。

 水車天幕の支柱へ絡む。

「隊商の道守」と彼女は言う。「入口だけ守ると思うな」

 全員で引く。

 天幕布が裂ける。

 一割。

 二割。

 水車軸が砂嵐へ落ちる。

 老女が目を閉じる。

 子が歯車を握る。

「今の家を置く」と老女。

「次を作る」と子。

「同時にできる」と少年。

 布七割。

 歯車十四。

 観測鏡一。

 持ち主の名札。

 回収。

 残りは、砂嵐へ消える。

 全ては救えない。

 何を救えなかったかを、救難報告の外へ追い出さない。

 循環核の残った一枚を止める。

 今度は一斉に外さない。

 生活路四十三本のうち、すでに選び直された二十七本を別の入口と出口へつなぐ。

 十六本は消失。

 そのうち十一本は代替可能。

 三本は当面徒歩。

 二本は、今後使わないと持ち主が決めた。

 ナジュ班が鏡裏から出る。

 一人。

 二人。

 三人。

 最後にナジュ。

 青鈴を腰へ戻す。

「遅い方を信じた?」

 ハルが鈴を渡す。

「遅い方だけじゃ足りなかった」

「何を足した」

「温度、砂、裏の印、人の希望」

「多いね」

「道って、多い」

「それを一枚にしたがる人も多い」

 ナジュはエリアを見る。

「今回は、しなかった」

「最初はしました」

「途中で変えた」

「変えるのが遅かった」

「次は早くなる?」

「次も失敗します」

「自信あるね」

「失敗しないとは言いません。訂正を一人で隠さないことは約束できます」

 エリアはその言葉を言った後、少し息を止めた。

 約束。

 けれど、誰かを待たせる永遠の約束ではない。

 失敗した時の行動を決める約束。

 ナジュは青鈴を鳴らす。

 一度。

「道守の返事?」とハル。

「救援者へ。『聞いた』」

「賛成?」

「聞いた」

「違い、大事」

 千扉隊商の接続は、事故前へ戻らなかった。

 入口二百四十一。

 出口二百十七。

 観測面百八十九。

 鏡帆百三十六。

 停止九十八。

 保留百六。

 合計は九百八十七。

「十三枚足りない」とハル。

「地上へ残った十三」とセレナ。

「三枚割れた」

「割れても枚数です」

「一枚はノクスが」

「裏返しているだけ」

 ノクスは八度目に裏返した。

「八!」とハル。

 ノクスが固まる。

 七へ戻すため、もう一度裏返す。

「九」とセレナ。

 ノクスはハルを噛んだ。

「数えたの俺じゃない!」

「翻訳不能です」とセレナ。

 鏡裏の古い王家閲覧痕は、残った。

 トーヴは全公開しなかった。

「今回の事故原因として断定できません。痕がある鏡に反転が多いのは事実ですが、王家が反転させた証拠ではない。過去に閲覧したことと、現在の事故を起こしたことは別です」

「隠すの?」とサミラ。

「存在は公表する。誰がいつ何を見たかは、持ち主へ先に返す。王家の説明も求める。閲覧内容へ、今ここで私が勝手に触れない」

「王家を守る脚注?」

「違います」

 トーヴの文が短くなる。

「持ち主を守る」

 サミラは彼を見る。

「なら、版番号を残せ」

「暫定一版。更新履歴を公開します」

「遅い?」

「遅いです」

「急ぐ?」

「急ぎます。ただし、速さを理由に見ない権利を消しません」

「脚注卿」

「貴族ではありません」

「今のは少し褒めた」

「温度が分かりません」

「測るか?」とロロ。

「人の裏面を測らない!」

 笑いが起きた。

 今度は、一拍より長かった。

 砂嵐が弱まったのは、救援完了から二時間後だった。

 千の鏡帆が一枚ずつ閉じる。

 閉じる順番も、全員同じではない。

 入口へ戻る鏡。

 観測面のまま夜を映す鏡。

 帆として残り、天幕の屋根になる鏡。

 布を掛けられ、使わないと決められた鏡。

 赤天幕の前へ、鏡砂の道が開く。

 遠くから、黒と白の一団が来た。

 馬ではない。

 鏡へ映るたび、別の角度から現れる細長い帆車。

 先頭に、二本の旗。

 紫金の双眼紋。

 白い弦紋。

 サミラの顔が固くなる。

「王都」

 ユノが目を閉じた。

 弓を弦へ置く前の癖。

 だが今、彼は楽器を持っていない。

「来るのが早い」とリゼ。

「遅らせたつもりだった」

「誰に」

「救援者の役が終わるまで」

 帆車が止まる。

 白い仮面を着けた使者たちが降りる。

 一人が膝をついた。

「鏡王国第一継承者、ユノ・ヴァレント殿下」

 赤天幕が静まる。

 ハルがユノを見る。

「殿下?」

「役が増えた」とユノ。

「増えたんじゃなくて隠してた?」

「名は言った」

「ヴァレントが王家?」

「鏡王国では、かなり露骨に」

「エリア、知ってた?」

「姓名だけで断定はしませんでした」

 右眉が上がっている。

 礼儀正しすぎる声。

 嫉妬か、怒りか、政治判断か。

 ハルには分からない。

 ユノは分かっていそうな顔をしたが、言い当てなかった。

 使者がもう一枚の文書を開く。

「ならびに、ルーメン王国ルーンベルグ公爵家との和平婚約協議における第一候補者として、帰都を――」

「救援終了条件の確認が先です」とユノ。

 敬語が消えない。

 けれど柔らかくもない。

「救援対象の安全。圧力交代。水車天幕の回収可能部分。仮出口閉鎖後の生活路。四条件」

「殿下、王命です」

「今の僕は救援者だ」

「殿下の身分は消えません」

「だから身分の命令を、救援の期限へ割り込ませない」

 使者が言葉を失う。

 エリアが六層の図を示す。

「四条件は満たしました。ただし事故記録の住民確認が残っています」

「では、救援者の役は」

 ユノはサミラを見る。

 役の終わりを、王家ではなく、救援対象へ聞く。

 サミラは黒縄を解いた。

「終わり」

 一つの結び目がほどける。

「次は?」とハル。

 ユノは完璧ではない微笑みを作った。

「次は、第一継承者。そして、君の相棒の婚約候補らしい」

 ハルは、言葉を失った。

 エリアは、言葉を失わなかった。

「『らしい』で政治文書を説明しないでください」

「正確には、協議参加予定者。婚約は未成立。候補資格には撤回条件あり。本人の同意欄は――」

「今、全部説明しないで」

「君が止めるのは珍しい」

「救援の後始末が先です」

「承知しました、エリア」

 ユノは頭を下げた。

 王子の礼ではない。

 道具を片づける救援者の礼だった。

 ハルは、まだ何も言えない。

 羅針盤の蓋へ指を置く。

 一度。

 二度。

 三度目を弾かず、手を下ろした。

 見えている事実と、これから通る道は別である。

 鏡が、この旅で教えたことを、彼は自分の胸へ戻した。