第335話 第十二章「公表された婚約条件」前編

災害の翌朝、町が最初に必要とするのは英雄譚ではない。

 水である。

 次に便所。

 次に薬。

 次に食事。

 次に眠る場所。

 英雄譚は、その後でも遅くない。

 遅すぎる場合さえある。

 歴史書は、救援の頂点を好む。

 落下する天幕を受け止めた瞬間。

 千枚の鏡が空へ開いた光景。

 王太子が盾を掲げ、少年が鏡枠を走り、機関長が循環核を止めた場面。

 だが生存者が記憶するのは、別のことが多い。

 砂の入った靴を脱がせてくれた手。

 煮沸水が冷めるまで待った時間。

 壊れた家の前で「残念だった」と言われ、すぐに「でも助かった」と上書きされなかったこと。

 千扉隊商の翌朝も、英雄は水樽を洗っていた。

「英雄じゃない」とハル。

「誰も呼んでない」とロロ。

「地の文が」

「また見えない相手と話してる。寝不足三」

「一」

「自覚症状は信用しねえ。樽を持て」

「右で?」

「肩は」

「日常一、頭上二」

「両手で腰の高さ。持ち上げるな、滑らせろ」

「分かった」

「分かった奴は質問より先にやる」

「エリアと同じこと言う」

「まともな指示は感染する」

 ロロは水樽の内側へ白い布を当てる。

 銀色の粒。

「鏡砂、まだ出る。飲用は四樽目から。三樽目は煮沸して洗浄。二樽目は機関冷却。一樽目は床」

「床が一番ぜいたく」とハル。

「床が砂で滑って転んだら治療水を食う。順番は値段じゃねえ」

「ロロ、経済以外でも順番決めるんだ」

「俺を金の妖精みたいに言うな!」

「妖精より請求書が多い」

「妖精は部品代を踏み倒されてんのか!」

 ゼロスター号の横で、回収された水車布が乾かされている。

 七割。

 裂け目は白い糸で仮縫いされ、残った水車歯十四個が一列に並ぶ。

 六歳の子が、歯車を七個ずつ分けようとしていた。

 十四だから、きれいに分かれる。

 ノクスが一個をくわえた。

「十三!」と子。

「ノクス、戻して!」

 ノクスは首を横へ振る。

「七にしたいんだ」とハル。

「十四も七が二つ!」

「数学で説得」

「ナァ」

「通じない」

 子は歯車を一個持ち上げる。

「こっち七。そっち七。あなたが持つなら、こっち六、そっち七で、あなた一。七が残る」

 ノクスは考えた。

 歯車を置いた。

「数学、通じた」とハル。

「所有権の整理だ」とロロ。「一個持つと別勘定になるのが嫌だった」

「ノクス、経理に強い?」

「俺の工房へ入れねえ」

「もう何度も入ってる」

「だから損失が!」

 子は歯車を十四へ戻す。

「新しい水車、十四の歯で作る」

「元は二十?」とハル。

「二十四」

「少なくなる」

「小さくなる」

「困る?」

「みんなの水は、前より少ない」

「増やす方法を探す?」

「一個を大きくしない。小さいのをいくつか作る」

 ロロの手が止まる。

「誰に聞いた」

「水車のおばさん」

 若い女が少し離れた場所で、新しい軸の図を描いている。

 一台が止まれば全部の水が止まる古い水車ではなく、小さな三台へ分ける図。

「事故の後、だいたい皆、前よりでかいのを作りたがる」とロロ。

「なんで」

「失った分を一個で取り戻したいからだ」

「小さいのは」

「止まっても、残りが動く」

「じゃ、小さいの三つ」

「金は三倍近い」

「笑いで払う?」

「一回じゃ足りねえ!」

 子が三回笑う。

「前払いされた!」

 ロロは頭を抱えた。

 だが設計図を持って、若い女の方へ行く。

 助けた後にも仕事がある。

 仕事があることは、物語が続くことだ。

 鏡の表示は、統一されなかった。

 リゼが提案した白縁は、救援中には役立った。

 幻であることを示す連続白線。

 未知を示す白い斜線。

 確度を示す色と凹凸。

 しかし翌朝の公開会議では、反対が出た。

「白は弔いだ」と南天幕の道守。

「うちは未婚」と北天幕の染色師。

「交易保留」と西路商。

「何も意味しない」と東端の子ども。

「子どもはたいてい制度の意味を知らない」とトーヴ。

「知らなくても使う」とリゼ。

「だから説明が必要」

「説明を読めない人は」

「触覚」

「触れられない人は」

「音」

「聞こえない人は」

「位置」

「位置を見られない人は」

「個別支援」

「最初から全員へ同じ表示は無理って言えば」

「制度は可能な範囲を広げるためにあります。無理と言って終わるためでは」

「脚注卿、熱い」

「貴族ではありません」

 会議は長くなった。

 長くなったが、嵐はもう迫っていない。

 緊急ではない時に急がないことも、救援の一部である。

 最終的に決まったのは、白縁の採用ではなかった。

 表示は三重にする。

 見た目。

 触れ方。

 鳴り方。

 ただし、色と模様は各天幕が選べる。

 共通するのは「何を示す表示か」を、鏡の近くと裏面の両方へ残すこと。

 緊急表示には期限を書くこと。

 幻は幻と示すこと。

 未確認を危険または安全へ勝手に変えないこと。

「統一されてない」とハル。

「目的だけ共有」とエリア。

「使い方は違う」

「ええ」

「地図みたい」

「何が」

「同じ場所へ行く線じゃなくて、別々の線が互いを殺さない条件」

 エリアは薄緑の遮光片を外した。

 鏡光はまだ強い。

 だが砂嵐が収まり、反射の角度を選べる。

「あなた、言葉が長くなりましたね」

「エリアの影響」

「良い影響?」

「注意です」

「それを使うようになったのは、悪い影響です」

 右眉が上がる。

 ハルは笑う。

「踵」

「右一、左一」

「呼吸」

「零」

「俺、肩一」

「聞いていません」

「共同申告」

「……記録します」

「セレナみたい」

「あなたが何でも誰かの影響にするからです」

「旅ってそういうものらしい」

 エリアは答えず、水車歯を一個拾う。

 裏へ、細い訂正線を刻んだ。

 前の形へ戻さない。

 作り直した日を隠さない。

 事故報告は、白天幕の前で読み上げられた。

 題名はなかった。

 ユノが「千扉の――」と言いかけ、全員に止められたためである。

「報告書に詩情は不要」とセレナ。

「記憶されやすさは必要」とユノ。

「事故を物語へ整えすぎる危険がある」とトーヴ。

「数字だけなら読まれない」とユノ。

「題名で読む気にさせ、本文で誤解させない案は」とエリア。

「最初から会議になる」とハル。

「では無題」とサミラ。

「無題は強い演出」とユノ。

「黙れ」とリゼ。

 無題の報告書。

 第一項。

 嵐で鏡枠の向きが変わった。

 第二項。

 生活上の差し替えが長年、正式刻印へ反映されていなかった。

 第三項。

 入口、出口、観測面を外見だけで区別できなかった。

 第四項。

 王都救援照会は裏面一括検査を提案したが、現地の非公開権との調整手順がなかった。

 第五項。

 救援像が未知区間を自動補完し、実在する景色と安全な通路を混同させた。

 第六項。

 最初の地図が隊商の移動を止め、生活を測定しやすい形へ変えた。

 第七項。

 循環救援隊は遭難ではなく、危険圧を封じるため意図的に残留していた。

 第八項。

 循環核の停止と鏡帆化によって本体は救えたが、水車設備の一部と水六割を失った。

 第九項。

 死者零。重傷一。中等傷七。軽傷六十二。脱水二十九。鏡酔い四十八。山羊の位相針誤飲一。

「最後、山羊を人と同じ項へ?」とカイル。

「継続観察が必要」とロロ。

 遠くで山羊の腹が、ぴ、と鳴る。

「生きてる測定器」とハル。

「笑うな! 回収費が!」

 第十項。

 古い王家記録者の閲覧痕が複数の鏡裏にある。

 ここで、空気が変わる。

「今回の事故原因?」と住民。

 セレナが答える。

「未証明です」

「では書くな」

「存在する事実です」

「王家を疑わせる」

「疑いを消すために事実を消すことはしません。因果が未証明であることも同じ大きさで書く」

 トーヴが補足する。

「閲覧内容は、各持ち主へ先に返します。王家へ説明を求めます。公開版、当事者版、研究版、封印版を分ける案を提示します」

「全部見せろ」と一人。

「全部の範囲を定義してください」とトーヴ。

「また長くなる」

「長くします。私は以前、文脈なしで正しい記録を一括公開し、その記録が報復に使われた」

 彼は眼鏡を外した。

 一歩先の顔も見えない。

 それでも住民の方を向く。

「慎重さが隠蔽へ使われることも知っています。だから公開を止めるのではなく、誰が何を見たか、誰が止めたか、更新履歴ごと公開する」

「王家の許可は」

「求めます。拒否されたら、拒否された事実を公開します」

 ユノが横で言う。

「僕の名も、拒否または賛成した者として残して」

「殿下の命令で公開した形にすると」とトーヴ。

「王家の善政に回収される」

「理解が早い」

「家の悪習だから」

「では個人意見として記録。王家手続は別」

「お願いします」

 第一継承者が、王家の外へ完全に出られるわけではない。

 善意の個人として発言しても、その言葉は権力を帯びる。

 だから発言しない、では責任を逃げる。

 発言すれば王家の成果になる、では住民を使う。

 ユノの物語は、ここで解決しない。

 救援の成功は、王家との関係を簡単にしない。

 むしろ、自分の言葉がどの制度へ回収されるかを、以前よりはっきり見せた。

「事故報告、承認しない」と靴職人。

 全員が彼を見る。

「理由」とセレナ。

「完成版にするな。暫定一版にしろ」

 トーヴの眼鏡が光る。

「賛成です」

「いま、貴族みたいに嬉しそう」とリゼ。

「貴族ではありません」

「脚注卿」

「それは揶揄です」

「今日は少し称号」

「温度が」

「測るな」と全員。

 無題の事故報告、暫定一版。

 署名欄には、賛成だけでなく、異議と保留が残された。

 決まらなかったことも、結果の一部として公表された。

 報告書の次に、治療列ができた。

 軽傷者は軽いから後、ではない。

 歩けるから待て、でもない。

 砂による眼傷。

 鏡酔い。

 脱水。

 索擦れ。

 古傷の悪化。

 幻像を見た後、現実の距離へ戻れない感覚。

 身体の傷と、感覚の傷は別の列にしなかった。

 同じ人へ両方あるからだ。

「次、王太子」と臨時治療役の老女。

「民間人から」とカイル。

「民間人は全員、先に並んだ」

「俺は座れる」

「座って待つと列が詰まる」

「では救援指揮として」

「役、終わった」

「王太子として」

「身分は痛み止めにならない」

「この空域、王族へ厳しい」

「王族が鏡裏を見てた痕があるからね」

 カイルは黙って上着を脱いだ。

 右脇腹の紫色。

 背中の古傷周辺に新しい腫れ。

 膝二。

「三日、盾は小さく」と老女。

「国政は」

「口だけでできるんだろ」

 セレナが遠くで咳払いした。

「誰が広めた」とカイル。

「歴史」とハル。

「お前だろ」

「歴史の現場」

「不敬罪」

「期限」

「三日」

「短くなった」

 治療列の次はユノ。

「私は」と彼が言う。

「右薬指二、右耳三、左耳二、片頭痛二」とリゼ。

「本人が言う前に」

「本人の申告は一段引く」

「家族による診断差別」

「過去実績」

 老女がユノの耳元で、小さな鈴を鳴らす。

 右。

 左。

「高音、右で落ちてる」

「いつもです」

「いつもより?」

「少し」

「少しを数字へ」

「二」

「最初から言え」

「王族は不確定値を小さく言う教育を受けます」

「捨てな」

「今日、よく言われる」

「何度でも捨てな」

 ユノは笑う。

 食事の感想以外では、どの笑みが本物か分からないと彼自身が言う。

 今は、目元と口元が同時に緩んだ。

「はい」

 リゼが兄を見る。

 それ以上、何も言わない。

 ハルの番。

「左肩、日常一、頭上二。擦過傷。方向二。睡眠」

「零」

「寝てない?」とエリア。

「睡眠時間が零」

「症状の重さを聞かれたのでは」

「どっちも零」

「自慢になりません」

「寝る」

「いつ」

「宴のあと」

「宴より先」

「食べてから」

「寝てから食べる」

「起きたら終わってる」

「残します」

「誰が」

「私が」

 エリアは即答した。

 ハルが口を閉じる。

 ユノの目が二人の間を読む。

 読んだが、言わない。

 その努力をリゼが横目で採点していた。

「五秒」と小声。

「何が」とユノ。

「黙れた時間」

「伸びている?」

「前より」

「観測?」

「少し評価」

「今日は褒められる日だ」

「耳を休める日」

「はい」

 エリアの番。

 右踵一。

 左踵一。

 呼吸零。

 左肺の痛みなし。

 遮光片による擦れ。

「あなたも寝る」と老女。

「報告図の複製が」

「寝る」

「住民確認が」

「寝る」

「王都使節との協議が」

「寝る」

 エリアは老女を見る。

 老女は見返す。

「……二時間」

「四」

「三」

「取引する元気がある。四」

「不合理です」

「治療は競売じゃない」

 ハルが笑う。

「エリア、負けた」

「あなたは先に寝ます」

「残してくれる?」

「塩漬け柑橘以外」

「エリアの好きなやつ」

「だから残しません」

「自分の分は食べる」

「当然です」

 彼女は当然という顔をした。

 以前なら、皆の仕事が終わるまで自分の食事を後へ回した。

 今は、自分の分を残すことも、共同作戦の条件に入れる。

 人は大きな宣言だけで変わらない。

 食事の順番に、変化は先に現れる。

 ハルは二時間半で起きた。

「四時間」とエリア。

「夢で砂が入った」

「現実にも入っています」

 赤いマフラーの結び目に、鏡砂が詰まっている。

「じゃ、起きた理由は現実」

「洗ってから寝直して」

「宴の音」

 天幕の外で、鈴が鳴る。

 揃わない。

 低い鈴。

 高い鈴。

 山羊の腹から鳴る測定音。

 水車歯を叩く子どもの音。

 アルマではない、隊商の三弦琴。

「もう始まる」

「まだ準備です」

「準備から食べられる?」

「あなたの宴の定義、台所への不法侵入ですね」

「壁がない空域」

「最初の天幕での言い訳を、ここまで持ち歩かないで」

「言い訳は軽いから、鞄に入る」

「捨ててください」

 二人は天幕を出た。

 砂嵐の後の空は、洗った鏡のように澄んでいた。

 千枚の鏡が、地上へ戻っている。

 以前と同じ列ではない。

 入口は入口の印。

 出口は出口の印。

 観測面は観測面の印。

 帆は帆の印。

 未決は、印を付けないのではなく「未決」と大きく示す。

 ただし表示の色は、天幕ごとに違う。

 南は赤。

 北は黒。

 西は青。

 東は色を使わず、結び目だけ。

「統一されてないのに、前より分かる」とハル。

「何を示すかが書かれているから」

「同じ色じゃなくても」

「ええ」

「正しい一枚じゃなくて、翻訳できる複数」

「……それ、報告書へ入れます」

「俺の言葉?」

「出典を付けます」

「凪野ハル、寝不足二時間半版」

「版番号まで」

「トーヴの影響」

「旅は口癖を持ち帰る、と誰かが」

「誰?」

「地の文」

「また見えない人」

 ハルは、地面へ映る二人の像を見る。

 鏡砂は一粒ずつ小さな鏡である。

 足元に、数え切れないハルとエリア。

 右へ進む像。

 左へ進む像。

 立ち止まる像。

 実物は一つの方向へ歩く。

「婚約候補」とハル。

 言葉が、いきなり出た。

 エリアの歩幅が半歩だけ小さくなる。

「公表された肩書です」

「知ってた?」

「候補名簿にユノ・ヴァレントの名があることは。ただし、今回来た救援者が第一継承者本人だと確定していませんでした」

「顔は」

「公式肖像は修整が多い。瞳の色も左右を揃えています」

「鏡王国なのに、顔を正しく映さない」

「鏡は正しい。肖像画家が整えます」

「ユノみたい」

「本人へ言えば喜びません」

「エリアは」

 ハルは次の言葉を探す。

 どう思う。

 嫌か。

 行くのか。

 結婚するのか。

 どれも、答えを急がせる。

「公表された条件、見た?」

「まだです」

「一緒に見る?」

 エリアが彼を見る。

 問いが具体的だった。

「ええ」

 行くかどうかではない。

 今、文面を見るかどうか。

 二人は歩調を合わせ、白天幕へ向かった。

 婚約条件は、公開掲示されていた。

 正確には、婚約の成立条件ではない。

 和平協議へ参加する候補者の条件である。

 掲示の最上部には、大きく書かれていた。

 ――七夜続く外交舞踏会〈セブン・マスク〉参加要項。

 その下に、役名。

 迎賓役。

 証人役。

 護衛役。

 交渉役。

 候補役。

 辞退告知役。

 閉幕役。

「人名より役が大きい」とハル。

「サリフの外交書式です」

「役に人が入る?」

「期間中だけ」

「終わったら」

「役を返す」

「返さない人は」

「制度上は罰則。実際には身分と役が混ざることが多い」

「カイルみたい」

「聞こえているぞ」と背後。

 カイルが治療帯を脇腹へ巻き、椅子ごと運ばれてきた。

「座って来た」とハル。

「口だけで国政をする訓練」

「椅子を運んだの誰」

「王都使者二人」

「国政が人力」

「王権の本質を言うな」

 掲示条件。

 一。舞踏への参加は婚約成立を意味しない。

 二。各夜の開始前、候補者は参加、保留、辞退を選べる。

 三。家、王、議会、保護者の同意は、本人の同意を代替しない。

 四。仮面役の発言は役務上の声明として扱い、私的な同意へ自動変換しない。

 五。私的な拒否は、公開の場で再演する義務を負わない。

 六。舞踏中の接触、相手役、同伴、贈答は、婚姻への承諾を意味しない。

 七。各夜の終了時、役は一度失効し、翌夜に再確認する。

「良い条件」とハル。

「文面は」とエリア。

「実際は違う?」

「制度は、書けば守られるものではありません」

「書かなければ」

「もっと守られにくい」

「じゃ書いて、使う」

「そのために監査が要る」

「エリア、参加する?」

 カイルが聞いた。

 兄のような声ではない。

 王太子の確認でもない。

「いま答えを求める質問?」とエリア。

「違う。答えをいつまでに出す必要があるかを聞くべきだった」

 カイルは掲示の下を読む。

「到着翌日の正午まで。変更は各夜の開始一刻前まで」

「なら、今は保留です」

 エリアは言った。

「誰にも、保留を賛成として扱わせません」

「了解」とカイル。

 ハルは、安心した。

 何に安心したのかを、すぐ言葉にしなかった。

 保留は拒否ではない。

 賛成でもない。

 自分に都合のいい方へ読まない。

「本人の署名は?」とセレナ。

 いつの間にか隣にいる。

 掲示の下部。

 王家印。

 外交院印。

 公爵家受領欄。

 監査者欄。

 本人署名欄がない。

「三項で本人同意を代替しないと書いてある」とハル。

「なのに署名欄がない」とセレナ。

「別紙?」とカイル。

 トーヴが掲示の端を見る。

「紙が折り返されています」

「裏?」

「書式上、候補者本人の署名欄は折り返し裏面」

 ハルは紙をめくろうとする。

 エリアが手首を止める。

「公開掲示の裏は、掲示管理者の許可が必要」

「本人欄なのに見えない」

「宮廷書式では、本人の署名を公衆へ晒さない配慮だと説明されます」

「配慮」

「同時に、本人が署名したかを公衆が確認できない」

「それ、条件として大事じゃない?」

「大事です」

 ユノが後ろから言った。

 彼は黒い礼装ではなく、隊商から借りた灰色の上着を着ている。

 アルマは持っていない。

 演出を外して話す時の姿。

「僕の署名欄も、裏にある」

「署名した?」とハル。

「それを、今ここで言えば、君は信じる?」

「言い方が政治家」

「職歴」

「見せられる?」

「公開の場で?」

「見せたくないなら、見せなくていい。でも署名したか、してないかで、俺たちが参加を決めるなら」

「君たちの判断材料になる」

「うん」

 ユノは掲示管理者へ許可を求めた。

 すぐにめくらない。

 管理者がサミラへ確認する。

 サミラが掲示場所の住民へ聞く。

 住民が「見る者の範囲」を決める。

 公開掲示なのに、裏は自動で公開しない。

 手続は遅い。

 五分後、折り返しが開かれた。

 本人署名欄。

 空白だった。

 ユノの名は印刷されている。

 署名はない。

 エリアの欄も空白。

「未署名」とセレナ。

「事実です」とユノ。

「参加しない?」とハル。

「署名前」

「違い」

「大きい」

「いつ決める」

「王都へ着いて、会場、警備、参加条件、撤回手順を確認してから」

「第一継承者でも?」

「第一継承者だから、署名しろと言われている」

「断れる?」

「制度上は」

「実際は」

「断れば、和平を拒んだと宣伝される可能性がある」

「じゃ自由じゃない」

「自由は、圧力がない状態だけを指さない。圧力を明示し、拒否した時の損失を一人へ押しつけない仕組みも必要だ」

「それ、できてる?」

「できていない」

 ユノは笑わない。

「だから僕は、次の舞踏へ行く。結婚したいからでも、したくないからでもなく、争いを止める役がどう作られているかを、内側から確かめるために」

「役を背負う?」とエリア。

「背負うと言うと美しい。正確には、すでに背負わされている役を、誰がどこで降ろせるか調べる」

「一人で?」

「一人なら、また僕が結論を整える」

 ユノはゼロスター号を見る。

「同行を頼みたい」

「王都使者ではなく?」とカイル。

「彼らは僕を安全に運ぶ。安全の定義を王家が決める」

「ゼロスター号は危険」とロロ。

「そこは否定しないんだ」とハル。

「整備記録上、否定できねえ!」

「でも助かる」とユノ。

「統計は?」とセレナ。

「事件発生率が高すぎて母数が歪む」とロロ。

「救助率は」

「計算したくねえ」

「怖い数字」とハル。

 エリアはユノを見る。

「客員航路士として?」

「救援者として始めた。次は、案内される側として乗りたい」

「あなたはサリフの地理を知っている」

「地理を知る者が、行き先を決めるとは限らない」

「期限」

「次の舞踏の閉幕まで」

「途中離脱」

「可能。船側も下船を命じられる」

「幻の使用」

「事前に目的、出典、撤回条件を示す。救急時の例外は、事後公開」

「私的情報の言い当て」

「依頼されない限り、しない」

 ユノがハルを見る。

「努力する」

「今、俺を見た」

「観測」

「リゼの逃げ道」

「便利だね」

「便利にするな」

 ユノは頭を下げる。

「訂正。君の感情を、君より先に言葉へしない」

「それなら」

「同行を認める?」

「船長は?」

 全員が、ゼロスター号を見る。

 船長席は空いている。

 この船には、単独の船長がいない。

 航路、機関、救援、法、戦闘を役ごとに分け、その時の責任者を置く。

「客員席の承認は、固定メンバー全員」とエリア。

「ノクスも」とハル。

「ナァ」

 ノクスはユノの靴を嗅ぐ。

 一度。

 二度。

 三度。

 四度。

 五度。

 六度。

 七度。

 噛まない。

「七回で承認?」とユノ。

「たぶん」とハル。

「翻訳を勝手に」とセレナ。

 ノクスはユノの裾を軽く引いた。

「乗れ?」

「違うかもしれません」

「乗る前に着替えろ?」とリゼ。

「灰色、似合わない?」

「王家の白黒よりまし」

「評価が家族」

 ロロが指を立てる。

「条件一。アルマを勝手に機関室へ持ち込むな」

「僕がロロに分解されないため?」

「機関砂で弦が切れる。あと、俺は勝手に分解しねえ!」

「さっき、僕の弓の金具を点検しようとした」

「あれは砂噛み確認! 分解じゃねえ!」

「僕はまだ許可していない」

「会って一日で信用問題」とハル。

「一日は長い」とロロ。

「条件二」とカイル。「王命と船内命令が衝突した時、王命を自動優先しない」

「承知」

「条件三」とセレナ。「救援中の観測記録を、王家所有としない」

「承知」

「条件四」とリゼ。「私も乗る」

「条件ではなく同行宣言」

「兄さん一人だと美しく失敗する」

「否定できない」

「トーヴも」

「私は資料が」とトーヴ。

「王家閲覧痕の調査、王都で必要」

「それは」

「乗る?」

 トーヴは眼鏡を畳む。

「版番号を付けて、暫定同行」

「期限」とエリア。

「王都到着後、記録保全場所を確認するまで」

「承認」

 最後に、エリア。

「ユノ」

「はい」

「私の婚約候補であることを、船内の役割へ使わない。私も、あなたの継承者身分を交渉材料へ使わない。必要な政治判断は、当事者と他の乗員へ公開する」

「承知しました」

「それから」

「まだ?」

「笑顔で同意を取ったことにしない」

「最難関だ」

「断れます」

「受けます」

 客員航路士ユノ・ヴァレント。

 期限付き。

 撤回可能。

 条件付き。

 仲間になった、と一文で書けば美しい。

 実際には、乗る条件を十七項目まで増やし、ロロが十八項目目に「修理費の王家請求を妨害しない」を入れようとして、全員に削除された。

「なぜだ!」

「個人契約へ国庫を入れない」とカイル。

「王族二人いる!」

「私費で」とユノ。

「払える?」

「相場を知らない」

「危険!」

「正直」

「正直な金持ちが一番怖い!」