第336話 第十二章「公表された婚約条件」後編
祝宴は、日が落ちてから始まった。
サリフでは、鏡の多い昼に祝わない。
昼の喜びは何倍にも映り、持っていない者へ見せつけるからだ、と道守たちは言う。
夜なら、鏡の中にあるのは灯りだけだ。
誰の笑顔も、暗さの中で同じ数へ戻る。
もちろん、これは美しい説明である。
実際には昼が暑く、食材が傷み、砂光で酒の色が分からないという生活上の理由も大きい。
文化は、たいてい詩と冷蔵事情の両方からできている。
赤天幕の前へ長い布が敷かれた。
机はない。
全員が同じ高さで座るためだという者もいれば、机を運ぶ鏡路が壊れたからだという者もいる。
燻した根菜。
鏡砂で表面だけ焼いた薄餅。
酸味の強い葡萄。
塩漬け柑橘。
水を節約するため、煮汁ごと食べる豆料理。
砂山羊の乳を固めた白い乳酪。
香辛料を油へ移した赤い煮込み。
「カレー」とハル。
「香辛煮」とサミラ。
「カレー寄り」
「カレーを知らない」
「俺が知ってる」
「なら、お前の中ではカレー」
「文化の翻訳が早い」
ハルは一口食べる。
「辛い!」
「赤いからね」
「色で辛さを決めるの?」
「辛くない赤を出すと、旅人が油断する」
「食事にも罠」
「注意表示」
「白縁付けて」
「白は弔い」
「統一されてない!」
エリアは塩漬け柑橘を一切れだけ取り、薄い茶へ落とす。
自分の分を先に確保した。
ハルが見る。
「何ですか」
「食べてる」
「見れば分かります」
「前なら、全員へ行き渡るまで取らなかった」
「今日は在庫を確認しました」
「理由がエリア」
「褒めないで」
「観測」
「便利に使わない」
二人の会話を、ユノが聞いている。
彼の前には葡萄と乳酪。
「感想は」とリゼ。
「酸味が強い。乳酪は煙の香りが残る。葡萄と一緒に食べると、後味が少し苦い」
「演出なし?」とハル。
「食事の感想だけは絶対に演出しない」
「なんで」
「料理人が次を直す時、嘘が残るから」
「政治も次を直す」
「知っている」
「じゃ政治も」
「料理ほど素直に感想を言えれば、戦争は少し減るかもしれない」
「『この条約、後味が苦い』」
「具体性が足りない」
「エリアみたい」
「良い影響だろう」とユノ。
「注意です」とエリア。
「評価語の出口が全部そこへ行く」
リゼは酸っぱい果実氷を食べていた。
面紗を少しだけ上げ、一口。
すぐ下ろす。
「光、平気?」とハル。
「灯り二。頭痛一。兄さんの顔一」
「僕の顔が症状に」
「王家使者が来た時二になった」
「治せる?」
「黙れば」
ユノは黙る。
「本当に黙ると食卓が不安」とリゼ。
「難しい妹」
「今、喋った」
「治療失敗」
トーヴは薄い茸スープを飲みながら、器へ小さな札を付けた。
「何の札」とハル。
「借用器。返却先、赤天幕東二列」
「食器にも版番号?」
「返さないと、誰かの家の器が史官所有になります」
「そこまで正確」
「以前、婚約者の日記を史料価値で保管して破談になりました」
食卓が一瞬静まる。
「重い情報を豆料理の横へ置いた」とロロ。
「質問へ正確に答えただけです」
「日記、返した?」とリゼ。
「返しました。複製も廃棄しました。廃棄記録は」
「そこから先がだめ」
「……承知」
人には皆、続きがある。
ゼロスター号と別れた後にも。
事件が始まる前にも。
通信へ載らない夜にも。
トーヴの破談は、今日の救難では解決しない。
リゼの記憶も戻らない。
ユノの王位も婚約も決まらない。
サミラの隊商は、次の砂嵐を避ける路を明日から探す。
ナジュは水路救援の交代手順を作り直す。
水車の家族は、小さな三台の費用を巡って、たぶん何度も喧嘩する。
船が去っても、人はそこで暮らし続ける。
宴の途中、低い太鼓が届いた。
音は鏡からではない。
小さな種鳥が、赤天幕の支柱へ降りた。脚に青灰の珠。胸には、薄い骨板。
「ヴァルカの振動便」とエリア。
「ガンガ?」とハル。
骨板を床へ置く。
ロロが小型の振動針を当てる。
「壊れてない?」
「先に聞け!」
「聞いてる」
「俺の工具へ!」
骨板が震える。
低い二拍。
長い一拍。
休符。
ネムの暗号が、光文字へ変わる。
――新しい群れの会議。
――議題、水と歩く駅。
――最初の沈黙、十一拍。
――ガンガ、四拍で話した。
ハルが笑う。
「十一まで待てなかった」
次の文字。
――『全員が困っている。なら大きい水場へ集まる』と提案。
――私は書いた。
――『聞く前に答えた』。
ユノが胸へ手を当てる。
「会ったことがないのに痛い」
「同じ失敗仲間」とリゼ。
続く。
――会議を止めた。
――困っている対象を分けた。
――水がない群れ。
――水はあるが道がない群れ。
――大きい水場へ行きたくない群れ。
――返事を決めていない群れ。
――ガンガは謝った。
――次の沈黙、十三拍。
――十二拍で胸を叩きかけた。
――私が足を踏んだ。
「ネム、強い」とハル。
「兄の足、踏めるの?」とカイル。
「体格差が」
「裸足だから効く」とエリア。
最後。
――結論は出ない。
――次回、各群れが欲しい出口から話す。
――エリアへ。地図の余白、借りる。
――ハルへ。走る前に十三拍待て。
――ロロへ。無音通信器、乾燥対策。
――皆へ。聞いた。賛成ではない。
太鼓板は止まる。
「続いてる」とハル。
「何が」とユノ。
「ガンガの話」
「僕たちと別の場所で」
「当たり前」とリゼ。
「当たり前だけど、見えないと終わったみたいに思う」
エリアは骨板へ返事を刻む。
――余白は貸さない。
――共有する。
――出口条件の図を送る。
――結論が出なかった記録も。
「ハルは」とエリア。
「十三拍は長い」
「返事」
「努力する」
「何拍まで」
「七」
「半分」
「今まで三だから倍以上」
「自分へ有利な統計」
「成長率」
「母数が小さい」
「ロロみたい」
「数字を悪用するな!」
ロロは無音通信器の乾燥対策を書き足す。
別航路の物語が、今の食卓へ一枚だけ重なった。
解決はしない。
遠隔で事件を助けもしない。
ただ、同じ空の別の場所で、誰かが失敗し、謝り、次の会議を決めている。
食事が半分ほど終わった頃、三弦琴が止まった。
サミラが青鈴を一度鳴らす。
「救援者へ、宴の余興を頼む」
ユノを見る。
「今日は耳を休める日」とリゼ。
「演奏なしでもいい」とサミラ。
「王家の芸が見たいわけじゃない。今夜の音が欲しいだけ」
ユノはアルマを見る。
ひびの入った白いヴァイオリン。
右薬指二。
耳鳴り右三、左二。
「短い曲を」と彼は言う。「幻なし。途中で音を外したら、そのまま続ける」
「宣言する?」とハル。
「自然な失敗を、事前に三案練習できないから」
「それが自然」
「恐ろしい」
ユノは弓を弦へ置く前に、目を閉じる。
一音。
白くない。
赤くもない。
ただの木と弦の音。
二音目で、右薬指が遅れる。
音が少し濁る。
誰も息を止めない。
三音目。
隊商の鈴が一つ加わる。
四音目。
子どもが水車歯を叩く。
五音目。
山羊の腹から、ぴ、と測定音。
笑いが起きる。
ユノも笑い、音を一つ外す。
外した音を、次の音で消さない。
曲の中へ残す。
完全な演奏ではない。
拍手も揃わない。
途中で食事を続ける者。
眠る子。
泣く老女。
話し続ける若者。
鏡へ背を向けるリゼ。
全員が同じ感動へ整えられない演奏。
ユノが最後の音を切る。
「感想」とリゼ。
「怖かった」
「食事じゃないのに正直」
「少しずつ範囲を広げる」
サミラは青鈴を鳴らす。
「聞いた」
「賛成ではない?」
「良かった」
「評価だ」
「今夜はね」
ユノは頭を下げた。
「踊る?」
ユノが言った。
ハルは赤い煮込みを喉へ詰まらせた。
「誰が」
「借りがある二人」
エリアの礼儀が急に完璧になる。
「救援後の健康条件を満たしていません」
「踵一、呼吸零」とハル。
「あなたは肩一、睡眠不足」
「足だけ」
「舞踏は足だけではないと説明しました」
「姿勢、呼吸、重心、曲、床、周囲」
「覚えている」
「一個ずつと言いました」
「今日は足と歩調」
ユノが弓を上げかける。
「演奏者は休む」とリゼ。
「口笛なら」
「耳を休める意味」
「じゃ鈴」とサミラ。
青鈴をハルへ投げる。
「遅い音で踊れ」
「どうやって」
「鳴ってから一歩」
ハルは鈴を持つ。
エリアを見る。
「一曲は無理」
「四小節」とエリア。
「借りは減る?」
「利息だけ」
「増えてたの?」
「白環杯から長く放置しました」
「高利貸し」
「ミラへ言って」
「いない人の口癖が増える」
二人は立つ。
宴の端。
鏡砂の上。
周囲の鏡には、二人が何十組も映る。
どの像も正しい。
少しずつ角度が違う。
ハルが右手を出す。
エリアは左手を乗せる。
「利き手、逆?」
「あなたの左肩を使わせないため」
「具体的」
「救難で学びました」
青鈴。
音が遅れて響く。
一歩。
エリアの右足。
ハルの左足。
二歩。
互いの足だけを見ない。
姿勢。
呼吸。
重心。
床。
周囲。
三歩。
ハルが顔を上げる。
エリアの淡緑の瞳。
彼女も彼を見る。
四歩。
ハルの足が、エリアの爪先へ近づく。
全員が息を飲む。
ハルは止める。
「踏まない!」
「止まったので曲としては失敗です」
「事故は減った」
「進歩は認めます」
「褒めた?」
「評価」
拍手。
揃わない。
カイルが一番大きい。
「十一秒!」
「十二」とセレナ。
「また最後の一秒が事故?」
「今回は停止です」
「借り、どうなる」とハル。
エリアは手を離さないまま答える。
「一曲分のまま」
「減ってない!」
「四小節は利息です」
「利息を払って元金が減らない!」
「制度の勉強」
「ミラが喜ぶ!」
エリアは笑った。
右手で口元を隠す。
左手は、ハルの手の上に残った。
一拍。
二拍。
十三拍は待てない。
けれどハルは、七拍まで何も言わなかった。
八拍目で、エリアが先に手を離す。
「七」と彼女。
「成長率」
「母数が小さい」
歩調だけが、少し先へ進んだ。
宴の終わりに、ナジュが青鈴をハルへ差し出した。
「返した」とハル。
「今度は貸す」
「何に」
「速い像に迷った時」
「ずっと借りる?」
「次に会うまで」
「会わなかったら」
「別の救援者へ渡す」
「約束じゃない」
「道具だ」
ハルは受け取る。
青鈴の内側には、新しい傷が一つ入っている。
循環路で、ナジュが毎周刻んだ傷。
「傷、直さない?」
「直すと、同じ赤天幕へ戻った回数が消える」
「残す」
「でも、傷を増やすために迷うな」
「分かってる」
「分かった人は」
「先にする」
「皆、同じこと言うね」
「まともな指示は感染する」
「ロロまで」
「旅だ」
サミラは黒縄から一つの結び目を外す。
小さな札へ結び直す。
客員席へ残す航路札ではない。
今回の救難だけの礼でもない。
千扉隊商が、ゼロスター号へ渡す「戻る時に裏へ触る前、必ず持ち主へ聞け」という通行札。
「次に来た時、道は変わってる」とサミラ。
「今日の地図、使えない?」とハル。
「今日のままなら、誰かが生活を止めた証拠だ」
エリアが頷く。
「次は、最初に更新日を聞きます」
「最初に、泊まるか聞け」
「泊めてくれる?」とハル。
「料金」
「労働」
「ロロみたいな請求になるよ」
「現金ない」
「その時の道で相談」
「それがいい」
夜明け前。
ゼロスター号の片帆が開いた。
王獣鈴は船腹にある。
七地域の共同保管札はそのまま。
今回の旅では一度も能動的に使われなかった。
使えなかったのではない。
使う権限がなかった。
必要な答えが、別の証拠と別の人々の手にあった。
ロロは鏡砂除けを三重にする。
「修理費、王家へ請求」と彼。
「削除された条件」とカイル。
「でも砂はサリフ産!」
「自然災害」
「王家の鏡路!」
「因果未証明」とトーヴ。
「史官が敵!」
「証拠を出してください」
「船腹にいっぱいある!」
「砂の産地と王家責任は別」
「正しいけど腹立つ!」
ユノは客員席へ座る。
椅子の背へ、白い弦を一本だけ結んだ。
「生活痕」とリゼ。
「荷物目印」
「演出」
「半分」
「正直」
リゼは隣の鏡を壁へ向ける。
トーヴは資料箱へ版番号。
ゼロスター号に、新しい三人の生活が始まる。
整った王族の客室ではない。
ユノの切れた弦。
リゼの空の額縁札。
トーヴの返却日付き眼鏡布。
客員席は、人物を記念品にしない。
その人が今、暮らしている途中の物を残す。
「出航前確認」とエリア。
「片帆、出力七割」とロロ。
「機関砂、許容内」
「王獣鈴、共同札七、欠損なし」とセレナ。
「救援物資、返却記録」
「暫定二版」とトーヴ。
「乗員」
「ハル」
「エリア」
「カイル」
「ロロ」
「セレナ」
「ノクス」
「ナァ」
「ユノ」
「リゼ」
「トーヴ」
「人数九、存在一」とハル。
「ノクスを存在で数えるな」とカイル。
「人じゃない」
「本人の分類は」
ノクスがハルを噛む。
「同意してない!」
「では人数八、未分類一」とセレナ。
「船員簿が細かい」
「正確です」
出航しようとした時、船首の鏡窓が白く光った。
一枚の封書が、鏡面から滑り出る。
物質通過の遅延。
封書が半分出て、止まる。
「誰も引くな」とロロ。「接続確認!」
砂袋。
通る。
温度。
暖。
入口側。
鈴の遅延。
四秒。
「安全」とエリア。
「安全確認済みの範囲で、封書を受け取れます」とセレナ。
ハルが引く。
白銀の封。
七つの小さな仮面紋。
宛名。
ゼロスター号乗員一同。
中には、正式な招待状。
表面に書かれているのは、日時、場所、七夜の参加条件、仮面役、持込禁止物、辞退の手順。
事件は書かれていない。
未来の結末も書かれていない。
本人署名欄は、折り返しの裏にある。
「また裏」とハル。
「めくる?」とユノ。
「誰の署名欄」
「招待を受ける側」
「今、決める必要」
「到着翌日の正午」
「じゃ、今は」
ハルは招待状を閉じた。
「保留」
エリアが言う。
「保留を賛成にしない」
ユノが続ける。
「保留を拒否にも演出しない」
リゼが言う。
「署名欄は、本人が見る時に開く」
トーヴが札を付ける。
「未開封ではなく、表面確認済み・裏面未確認」
「長い」とハル。
「正確です」
ロロが操機輪を回す。
「行くかどうかは後! 船は砂を食う前に出す!」
片帆が風を受ける。
ゼロスター号が浮く。
千扉隊商の鏡が、朝日を返す。
赤天幕。
新しい小水車の骨組み。
ナジュの青鈴がない腰。
サミラの黒縄。
笑う子ども。
暫定一版の報告書。
保留札の付いた鏡。
どの像も正しい。
けれど、どの鏡を通るかは、像だけでは決まらない。
「次の方角」とハル。
エリアは地図を開く。
ユノは答えを言わない。
カイルは王命を先に出さない。
ロロは機関の可能範囲だけを示す。
セレナは観測事実を読む。
リゼは未選択の枠を空ける。
トーヴは更新欄を残す。
ノクスは船首で七回、風を嗅ぐ。
ハルは羅針盤の蓋へ指を置いた。
一度。
二度。
三度目は弾かない。
答えを急がせるためではなく、今いる全員の返事を待つために。
エリアが彼を見る。
「王都方面。途中変更可能」
「それで」
「異議は」
誰も、同じ速さでは答えない。
一拍。
二拍。
三拍。
七拍目。
「なし」とハル。
「保留なし」とカイル。
「機関上可能」とロロ。
「観測上、天候安定」とセレナ。
「途中で嫌になったら言う」とリゼ。
「版更新可能」とトーヴ。
「僕は案内される」とユノ。
エリアは最後に、自分の線を引いた。
地図の端まで。
その先は、空白。
空白を埋めない。
空白の手前で止まらない。
ゼロスター号は、壁のない砂漠の扉を離れた。
後方で、千枚の鏡がそれぞれ違う朝を映していた。