第337話 第一章「七夜舞踏会」前編
仮面は、顔を隠すために作られた。
そう説明すれば話は早い。
早すぎる説明は、たいてい何かを置き去りにする。
鏡砂環サリフで仮面が発達した理由は、誰が来たかを分からなくするためではなかった。誰が来ても、今だけは同じ役を引き受けられるようにするためだった。
戦争中の二国が、同じ卓につく。
王と反乱者が、同じ廊下を歩く。
昨日まで互いの名へ賞金を懸けていた者たちが、今夜だけは迎賓役、証人役、護衛役として同じ儀式を続ける。
その時、顔は邪魔になる。
顔には家がある。
血がある。
過去がある。
恨みがある。
役には、期限がある。
鏡砂の宮廷人は、その期限を文明と呼んだ。
役を降りれば昨日の敵へ戻るとしても、役を着ている間だけ刃を下ろせるなら、その一夜には価値がある。
もっとも、後世の歴史家は同時にこう書いた。
人は役を着ることを覚えると、やがて役を脱がない人間を作る。
「脱げない」
凪野ハルは、黒い礼装の襟へ指を突っ込んだ。
「衣装係の前で言わないでください」
エリア・ルーンベルグは、鏡の前で左側の三つ編みを一本だけ残していた。
濃紺の髪は普段より長く背へ流れ、銀の地図針が細い星座を作る。白と濃紺の舞踏礼装は、学院服より身体の線を拾う。右肩だけの短いケープは残っているが、槍へ変わる白い日傘グリムリリーは、会場規定に合わせて細身の杖形へ封じられていた。
「首が閉まる」
「正装は首を閉めるものではありません」
「でも閉まってる」
「あなたが一番上の留め具まで掛けたからです」
「掛けろって札が」
「『必要に応じて』と書いてあります」
「必要の判断ができない人向けに、大きく書いて」
「今、必要でないと分かりましたね。学習です」
エリアが一つ外す。
喉へ空気が入った。
「生還」
「その程度で救難実績へ数えないで」
ゼロスター号の客室は、八人分の正装と予備二着、七枚の仮面札と、ロロ・ピクスの工具で足場がなかった。
「踏むなよ!」
床下から声がする。
「どこを」
「全部!」
「無理」
「じゃ動くな!」
「舞踏会へ行くのに?」
「船の中で舞踏すんな!」
黄色い作業上着が、長椅子の下から出てきた。続いて、四本の補助腕。最後にロロ本人。
額の二眼ゴーグルの右レンズだけが青く光っている。両手には、ハルの現代のスニーカーと、宮廷から支給された黒い舞踏靴が一足ずつあった。
「完成」とロロ。
「何が」
「お前の靴」
「二足ある」
「一足へする」
「どうやって」
「見ろ」
舞踏靴の底へ、スニーカーの擦り減った溝が移植されていた。黒い上革、銀の留め具、赤い縫い目。踵には薄い鏡砂板と、小さな可動錘。
「礼装に運動靴の足」とカイル・アークレイ。
王太子は深紅の礼装で、長椅子の背へ逆向きに座っていた。鏡砂隊商で傷めた右脇腹の治療帯は外れているが、背を預ける角度は浅い。盾型籠手は会場へ持ち込めないため、右手首だけに星痕を隠す細い赤帯を巻いていた。
「ハルらしい」と続ける。
「褒めた?」
「外交上、評価を保留した」
「保留を悪口へ使うな」とリゼ・ヴァレント。
薄墨の面紗の下で、紫の瞳が細くなる。彼女は鏡を全て壁へ向けた一角を確保し、その中で自分の白紫の短衣へ光除けの糸を縫っていた。
「兄さんは自然な褒め方を三案練習するけど、カイルは自然な悪口が一案で出る」
「王太子教育の成果だ」
「国費の使い道」
「返還請求は父へ」
「自分の教育費を王へ請求する王太子」とハル。
「国家は長期投資だ」
「不良債権」とロロ。
「おい」
笑い声の横で、ユノ・ヴァレントは白いヴァイオリン・アルマの弦を一本ずつ確かめていた。
顎で揃えた白銀髪。
右眼は紫、左眼は金。
黒い細身の礼装には、鏡砂の旅で決めた白い演出縁と同じ線が、胸元から左袖へ入っている。楽器の鏡片には、砂嵐で生じたひびが残されていた。
「ハル」
「何」
「その靴なら、重力が移る半拍前に踵を上げないで」
「なんで」
「可動錘が床を探す。先に足を離すと、次の下へ頭から落ちる」
「下は床じゃない?」
「今夜は、曲が決める」
ユノは弓を弦へ置く前のように一度目を閉じた。
「七夜続く外交舞踏会〈セブン・マスク〉の会場では、音楽の拍ごとに重力面が変わる。第一拍は床、第二楽節は東壁、転調後は天井。踊りは礼法であると同時に、役割を移すための交通手段だ」
「踊れない人は外交できない?」
「代理を立てられる」
「代理を立てられない人は」
「政治へ参加しにくい」
「制度として踊りが上手すぎる」
「それは褒めていないね」
「評価」
「便利に使わない」とエリア。
ユノは笑った。
「船内の口癖が混ざってきた」
「旅の被害」とリゼ。
トーヴ・セルは、招待状の折り返しを開いたまま、分厚い眼鏡を二段にしていた。
「本人署名欄、確認済みです。参加は第一夜のみ。翌夜は再署名。版番号は三。公開条件は――」
「長い」とハル。
「正確です」
「俺、どこへ署名した?」
「護衛相手役」
「護衛と相手、どっち」
「両方」とエリア。
「一人二役?」
「役を二つ持つわけではありません。公女参加者の随伴護衛が、舞踏時だけ相手役を兼ねる書式です」
「公女ってエリア」
「他に誰が」
「リゼ」
「私は観覧辞退。光が多い。踊る理由もない」
「ユノは」
「花嫁候補」とトーヴ。
ハルはユノを見る。
ユノは平然としている。
「花嫁?」
「サリフの古い外交語では、家を離れて共同条約へ入る側を花嫁と呼ぶ。性別とは関係ない」
「じゃ、花婿は」
「受け入れ側の役」
「エリア?」
「今夜、エリアは候補公女。花婿役そのものは、中立役務者が持つ」
「結婚する人と、花婿が別」
「だから役と本人を分けて考えて」とユノ。
「始まる前から、事件みたい」
「始まる前は制度です」とセレナ・クロウ。
黒い外套を舞踏用の短い型へ替えた星律官は、七枚の仮面札を重さ順に並べていた。左眼の六角単眼鏡には、鏡光を落とす菫色の薄片が差し込まれている。
「事件になった場合も、制度を理解していなければ事実を誤ります」
「ならないように言って」
「私の言葉に予防効果はありません」
「セレナが『今夜は平和』って言うと、逆に起きそう」とカイル。
「王太子殿下。無断外出、身分詐称、王室船持出し、警護命令違反、証拠庫侵入――」
「今夜は招待されている」
「一件だけ訂正します」
「勝った」
「残りは未決です」
ノクスが七枚の仮面札を見た。
一枚をくわえる。
「だめ!」
全員が同時に手を伸ばす。
ノクスは跳んだ。
黒い小獣の二本尾が別々の方向へ光る。口にあるのは、護衛役の仮面札。
「それ俺の?」とハル。
「共有護衛札です」とトーヴ。
「ノクス、護衛する?」
「ナァ」
「辞退」
「翻訳を勝手にしない」とセレナ。
ノクスは札を床へ置いた。
七枚がまた揃う。
揃ったのが気に入らず、一枚だけ前脚で遠くへ押した。
「制度へ異議」とリゼ。
「七を一つ外すだけ」とロロ。
「異議の形が一貫している」とエリア。
船外で、低い弦が鳴った。
鏡王都の迎船が着いた合図だった。
鏡王国ヴァレントの王都は、昼と夜で形が違った。
昼は光を集める。
夜は光を選ぶ。
砂漠の上へ立つ白い塔々は、日中には千の太陽を反射し、夜になると一枚ずつ黒い幕を下ろす。全部を映すことが豊かさだった時代と、映さない選択が権利になり始めた時代が、同じ建物へ縫い合わされている。
迎船は鏡面の細い帆を七枚持っていた。
乗り移る時、ハルは一、二、三と数えた。
左肩は日常動作零、頭上へ腕を上げる時だけ一。鏡砂の旅で負った擦過傷は薄い線になり、内耳の方向感覚も、静止中なら問題ない。
ただし、鏡の中の自分が違う方向へ歩く場所では、数字が一つ増える。
「方向一」とエリア。
「まだ言ってない」
「右へ渡るのに左を見た」
「鏡が左へ道を出した」
「現実の綱を見て」
「エリアを見れば?」
「私は綱ではありません」
「でも正しい方へいる」
エリアの歩幅が半歩だけ乱れた。
すぐに戻る。
「護衛役の台詞としては不適切です」
「本人の感想」
「……区別するなら、先に言って」
「今のは本人」
「記録しました」とセレナ。
「記録しなくていい!」
「感情は証拠羽へ入れていません」
「じゃ何を」
「足場選択の誤り」
「そっちも消して」
「事実です」
迎船の先に、宮殿が見えた。
七面宮。
正面が七つある。
どの方向から来ても、正門が一つだけ開く。
残り六つは鏡像だと説明されたが、鏡像にも階段があり、灯りがあり、人影がある。千扉隊商で「どの像も正しい」と学んだばかりの一行には、説明が足りない。
「どれが入口」とハル。
「今夜、招待状を持つ者が近づいた面」とユノ。
「全員違う面から来たら」
「七つとも入口になる」
「建物が足りない」
「内部の廊下が折れる」
「建物が頑張りすぎ」
「王権は、建築へ無理をさせる」とカイル。
「自国の城にも言ってください」とセレナ。
正門前には、黒紺の礼装を着た長身の男がいた。
フリードリヒ・ルーンベルグ。
エリアの父。
ルーメン王国航路相。
薄い半月眼鏡の奥で、淡緑の目がまず娘を見た。
次にハル。
次に、ハルの舞踏靴。
返答前でなく、挨拶前に五秒置いた。
「その靴は」
「安全仕様です」とロロ。
「王都支給品を改造したのかね」
「元へ戻せます。戻す工賃は別」
「請求先は」
「今決めたい」
「後で書面を」
ロロの補助腕が全部上を向いた。
「話が通じる金持ち!」
「喜ぶ場所がそこ?」とハル。
フリードリヒはエリアへ向き直る。
「体調は」
「踵零、呼吸零。遮光片による擦れもありません」
「参加は第一夜だけでよい」
「私が決めます」
「決めるための情報を用意した」
「用意した情報だけで決めることはしません」
五秒。
「承知した」
承知は同意ではない。
父娘の間では、とくに。
フリードリヒはハルを見る。
「凪野君」
「はい」
「今夜の随伴護衛役は、彼女の進路を妨げないことが第一義だ」
「守るより?」
「守るという言葉で進路を消す者が多い」
エリアが父を見る。
彼は娘を見ない。
「ただし」と続ける。「即興の跳躍は避けたまえ」
「努力します」
「しない返事だな」
「成功率は上がってます」
「母数が小さい」とエリア。
「旅の被害が父へも」とリゼ。