第338話 第一章「七夜舞踏会」後編
七面宮の大広間は、床が一つではなかった。
白い鏡床。
東壁の黒砂面。
西壁の金格子。
天井の青い舞踏環。
どれも椅子と扉と花台を備え、重力が来るのを待っている。
中央には、七層の弦楽団。
最下層に低弦。
その上に打弦。
鏡笛。
指鈴。
砂太鼓。
声楽。
最上層に楽長。
楽長オルフェ・ラズは、銀の指揮杖を七つの関節で折り曲げた。灰白の髪を短く刈り、左耳へ骨振動の小片を当てている。
「第一夜、開幕前確認」
声は大きくない。
大広間そのものが復唱する。
「現在重力、白鏡床。第一転調、東壁。第二転調、青天井。緊急停止は三重鈴。役割移転は転調の四拍目から七拍目まで。それ以外の移転は無効」
ハルは小声で言う。
「四から七」
「数えられる?」とエリア。
「そこは得意」
「踊りながら」
「そこは未知」
「未知を安全へ補完しない」
「ユノの授業が感染」
「良い影響です」
「評価じゃなくなった」
招待客は、入口で仮面を受け取る。
顔を完全に覆うものではない。
目元から頬へ薄い鏡片が沿い、役名だけを同じ像へ整える。
迎賓役は銀の翼。
証人役は黒い縦線。
護衛役は割れない透明板。
候補役は白い花弁。
辞退告知役は裏返した鏡。
そして花婿役は、左右の異なる目を持つ金の仮面だった。
「ユノと似てる」とハル。
「逆だ」とユノ。「僕の公式肖像が、古い花婿役へ似せて整えられた」
「本人が役へ寄せられた」
「王族の顔は、だいたい役の制服だよ」
花婿役の名札には、人名が小さく書かれていた。
アディル・ナジャ。
二十一歳。
南鏡市の外交補佐官。
今夜の最初の役務者。
本人の顔は金の仮面像へ薄く重なり、身長まで少し高く見える。だが足元の黒い靴だけは実物だった。左踵が、右よりわずかに外へ逃げている。
隣で、短い黒髪の女性が待機する。
ミレイ・コルド。
役務舞踏の専門代理人。
右足首へ銀の固定帯。
少し離れた柱際に、白灰の短髪をした若者がいる。
セイ・ハルファ。
性別欄も家名の所属欄も、招待名簿では未記入。
袖口を三度、同じ幅へ折り直していた。
さらに天井側の警備列。
黒い鎧の男が、曲の始まる前から右足へ体重を置いている。
ヴァルド・ケシュ。
七面宮の重力警備主任。
ハルは名前をまだ知らなかった。
ただ、他の者より半拍だけ早く動きそうな立ち方だと思った。
思っただけで、証拠にはならない。
役札確認の前に、衣装係がハルの赤いマフラーへ手を伸ばした。
「随伴護衛役の色と競合します。外してください」
「嫌」
「規定です」
「短くするなら」
「本人識別を弱めます」とリゼ。
衣装係は困る。
「護衛役は、個人の目印を隠すことで狙撃対象を分散します」
「舞踏会が始まる前から怪しい言い方」とハル。
「舞踏会?」とエリア。
「今夜の舞踏会」
「なら、最初からそう言って」
「今夜、俺まで同じ護衛の顔になったら、エリアが俺を見つけにくい」
「見つけられます」
「何で」
「靴」
「リゼと同じ」
「右外側の摩耗、着地前に三つ数える、壁へ片手をつく」
「特徴が全部格好悪い」
「本人識別としては優秀」
衣装係は規定書を開き、脚注へ指を置く。
「私物標識は、役像を妨げない範囲で一つ残せます」
「じゃ、マフラー」
「長さを半分」
「三分の二」
「半分」
「間を取って」
「規定に交渉条項はありません」
結局、マフラーは結び目を変えず、端だけ礼装の内側へ入れた。
役像は顔と肩を整える。
靴と、本人が手放さない目印までは同じにしない。
最初から公平な手掛かりは、赤い布のように目の前にあった。
「役札確認」と宮廷書記。
ユノが前へ出る。
「第一継承者ユノ・ヴァレント。第一夜、花嫁候補役。参加。撤回期限、第二曲開始前」
白い花弁の仮面が、彼の左右で異なる目へ重なる。
演出が役へ重なると、どこまでが本人か分からなくなる。
エリア。
「ルーンベルグ公爵令嬢エリア・ルーンベルグ。候補公女役。第一夜のみ参加。私的同意は別。撤回は本人申告」
仮面は着けない。
候補本人は、顔を隠さない規則らしい。
ハル。
「凪野ハル。随伴護衛、舞踏相手役」
「役務範囲」と書記。
「エリアの進路を妨げない。危険があったら――」
守る、と言いかける。
フリードリヒの言葉が戻る。
「本人へ聞いて、必要な役をやる」
書記が筆を止めた。
「書式外です」
「長い?」
「逆です。範囲が不定」
エリアが横へ来る。
「緊急時は身体護衛。平時は舞踏相手。進路判断は共同。本人の拒否で停止」
「それ」とハル。
「私の役の定義です」
「本人?」
「今は両方」
書記が記す。
役と本人は、いつも完全には分かれない。
分けるための言葉が必要になるだけである。
オルフェの指揮杖が上がった。
一音。
白鏡床へ、青い輪が走る。
二音。
壁の燭台が、一斉に横を向く。
三音。
ハルの靴底で、可動錘が小さく鳴った。
「右、左、寄せる」とエリア。
「早い」
「曲は待ちません」
「人の同意は待つのに」
「だから準備します」
彼女が右手を出す。
ハルは左手を重ねる。
左肩へ負担を掛けない位置。
「目線」
「足」
「相手」
「床が動く」
「床ではなく重力」
「同じくらい困る」
第一拍。
一歩。
第二拍。
二歩。
ハルはエリアの爪先を踏まない。
「進歩」と彼女。
「褒めた?」
「評価」
第三拍。
弦が上がる。
大広間の重力が、白鏡床から東壁へ倒れた。
客たちは踊りのまま横へ落ちる。
落ちるのではない。
新しい床へ移る。
そう理解できる者は美しく回転し、理解できないハルは正直に叫んだ。
「壁!」
「次の床!」
「言い換えても壁!」
エリアが彼の腕を引く。
ハルは東壁の金具へ右足を当て、一、二、三で身体をひねる。移植されたスニーカー底が噛み、舞踏靴の可動錘が遅れて落ち着く。
着地。
片手を壁――今の床へつく。
「舞踏として零点」とエリア。
「救難として」
「生存」
「満点」
「評価基準を勝手に変えないで」
周囲の客が笑う。
笑われた。
ハルも笑う。
失敗を隠そうとすると、次の足が遅れる。
笑って認めれば、身体が次へ動く。
エリアが右手で口元を隠した。
心から笑った時の癖。
ユノは少し離れた場所で、別の相手と完璧に回っていた。
花嫁候補役の白い仮面。
黒い礼装。
音へ遅れない足。
ハルは一拍だけ、見る。
「次」とエリア。
「分かってる」
「今のは命令」
「本人?」
「相手役」
「じゃ、従う」
四拍目。
花婿役のアディルが、中央の条約台へ進む。
金の仮面。
同じ誓紋。
左踵をわずかに庇う歩き方。
条約台には、白銀の箱が置かれていた。
婚約条約原本。
まだ開かれない。
今夜は、役の存在だけを確認する儀式だ。
オルフェの指揮杖が、最初の転調へ入る。
役割移転可能時間。
四拍。
五拍。
ハルは無意識に数える。
六拍。
金の仮面が、こちらを向いた。
七拍。
鏡柱の隙間から、細い光が飛んだ。
音は遅れた。
アディルの肩が裂ける。
赤い血が、東壁の鏡面へ一本の線を引く。
次の瞬間、重力が天井へ移った。
花婿役が落ちる。
上へ。
客の悲鳴も、食器も、白い花弁も、青い天井へ吸われた。
「ハル!」
エリアの声。
役の命令か、本人の頼みかを考える時間はない。
ハルは一、二まで数えた。
三を言わずに跳ぶ。
左肩を使わない。
右手で鏡柱。
両足で東壁を蹴る。
落下するアディルの腕を掴む。
重い。
血で滑る。
カイルの深紅の影が、天井側から伸びる。
「投げろ!」
「人を?」
「俺へ!」
「言い方!」
ハルはアディルの腰帯を掴み、身体ごと回す。カイルが左手で受け、青天井の欄干へ引き込む。
セレナの証羽が黒く開く。
ロロの補助腕が飛散した留め具を回収する。
ユノがアルマを一音鳴らす。
白い縁を持つ避難路の幻が、大広間へ現れた。
幻であることを示す白縁〈ステージ・エッジ〉。
「北環へ!」とユノ。「実在確認済み。未確認区間なし!」
群衆が動く。
エリアは路図を重ねる。
「白い線の内側だけ! 天井重力、残り十二拍!」
ハルはアディルの顔を見る。
金の仮面がずれた。
若い男の顔。
唇が白い。
「大丈夫」
「その言葉は」とアディルが息を切る。「医師が言うまで、役外だ」
「じゃ、今から助ける」
「それは、役内だ」
彼は左足を引きずろうとする。
だが傷は肩だ。
血の滴が青天井へ落ちる。
その向こう。
反対側の鏡回廊に、金の仮面が立っていた。
同じ左右の目。
同じ花婿役の誓紋。
同じ身長に見える像。
傷はない。
右足を、わずかに庇っている。
「二人」とハル。
「一役です」とユノ。
「でも二人いる」
「だから」
ユノの完璧な微笑みが消える。
「顔を追わないで」
大広間の鐘が、三度鳴った。
七夜の第一夜は、開幕から十二分で中断された。
後世の公式記録は、その時点で花婿役が一人だったと書く。
現場にいた全員は、二人見た。