第339話 第二章「花婿候補の仮面」前編

事件現場へ最初に必要なのは、名探偵ではない。

 止血できる人である。

 次に、落ちてくる物を止める人。

 次に、踏まれる証拠を拾う人。

 次に、怖がって動けない人へ、どこへ行けばいいかを示す人。

 犯人を指す指は、その後でよい。

 早すぎる指は、ときどき傷口へ刺さる。

「三分四十二秒」

 セレナ・クロウは、黒い証羽を一枚伏せた。

 大広間は天井重力のまま固定されている。

 青い舞踏環が床になり、元の白鏡床は遥か頭上にある。割れた杯、花弁、仮面片が白い面へ張り付き、落ちる方向を失った星のように見えた。

「何が」とカイル。

「襲撃から医師の止血開始まで」

「早い?」

「肩の動脈は外れています。出血量から見れば許容内。許容は安全という意味ではありません」

「王太子が聞くと、数字の後ろへ必ず釘を打つな」

「殿下は数字の前だけ聞いて走るためです」

 アディル・ナジャは、青天井に設けられた臨時治療区画で上衣を切られていた。

 光弾は右肩を浅く貫き、肩甲骨の外側を削った。骨折なし。腱の損傷は小さい。出血は多く見えたが、舞踏衣装の白が赤を広げたためでもある。

「右腕、上げない」と医師。

「第二曲の役務が」

「役は肩を縫わない」

「代理へ」

「もう移った」とハル。

 アディルの視線が、反対側の回廊へ向く。

 そこにいた金の仮面は、今は警備円の中にいる。

 同じ花婿役。

 だが中身は別人だった。

 ミレイ・コルド。

 右足首へ銀の固定帯を巻く、役務舞踏の専門代理人。彼女は金の仮面を外さず、両手を見える位置へ上げている。

「役を解除すれば顔を確認できます」とセレナ。

 宮廷書記が首を振る。

「第一夜の花婿役を空位にできません。襲撃時の緊急継承が成立しています」

「中断中です」

「中断は閉幕ではない」

「負傷者の本人確認より、役の継続を優先するのですか」

「本人確認は名簿と生体鏡で済んでいます。ミレイ・コルド。役務資格、現行。誓紋、真正」

「真正であることと、事件に無関係であることは別です」

「分かっています」

 書記の声には苛立ちより疲れがあった。

 制度を守る者は、いつも制度を信じているわけではない。

 自分が手を離した瞬間、もっと悪い何かが起きると恐れている場合も多い。

 セレナは単眼鏡の縁を一度押した。

「では仮面を外さず調べます。拒否できます」

「調べて」とミレイ。

 金の仮面から出る声は、低く均されていた。

 役の音声補正。

「本人の声で」

 セレナが言う。

 宮廷書記が眉を寄せる。

「役務中です」

「証言は本人が行う。役に尋問はできません」

 ミレイが仮面の顎へ指を当てた。

 金の像が薄くなる。

「これで?」

 乾いたアルト。

 先ほどより速い話し方。

「十分です」

「私は転調六拍目に役を受けた。アディルからではない。役渡し鏡から。緊急継承札が開いたから、受諾した」

「理由」

「花婿役が空くと条約原本の防護が止まる」

「誰から教わった」

「役務訓練」

「襲撃を予測していた?」

「予測していたなら、もっと低い靴で来る」

 ミレイは右足を少し上げた。

 踵が三センチ高い。

 銀の固定帯が足首の外側を支えている。

「その足は」

「六年前の腱裂傷。舞踏はできる。急停止は嫌い」

「第一曲前半、あなたはどこに」

「北回廊。待機役」

「証人」

「十四人」

「多い」

「私の衣装が目立つ」

「役の衣装です」

「だから目立つ」

 ミレイは金の仮面を指で軽く叩いた。

「私は偽物ではない。代理人だ。そこを間違えないで」

「記録します」

 セレナは証羽へ、一語ずつ刻む。

 偽物ではない。

 代理。

 アディルは止血が終わると、役務書へ左手で署名しようとした。

「休んで」と医師。

「役移転の確認だけ」

「右肩を撃たれた人が、左手で役を守る書類へ署名するのは休養ではありません」

「利き手は左です」

「では、なおさら使わない」

 ハルが薄餅を一枚取り、彼の手元へ置く。

「食べるのが役」

「何役」

「患者」

「患者は身分で、役務ではない」

「セレナが増えた」

 アディルは薄餅を割る。

 左手の指先に、細い剣だこがある。

 左足を長く出せない理由は、古いふくらはぎの裂傷だと本人が申告した。

「花婿役に選ばれた理由」とセレナ。

「婚約当事国のどちらにも継承権がなく、既婚でも未婚でもない中立役務者。舞踏資格。外交語三種」

「本人として、なぜ受けた」

 アディルはすぐ答えない。

「南鏡市では、条約が切れると水路税が戻る。妹の薬が高くなる」

「自分が結婚するわけじゃないのに」

「だから受けられた。花婿役は私ではない」

「でも撃たれたのは本人」

「そうだ」

 役は中立でも、傷口は中立にならない。

「辞める?」とハル。

「今は決めない。痛み止めが効いている時の勇気を、明日の私へ契約しない」

「言い方、うまい」

「外交官です」

 彼は薄餅を一口食べ、顔をしかめた。

「固い」

「本人の感想」とユノ。

「食事だけは演出しない人が増えた」とリゼ。

 この事件では重要な差になる。

 ロロは、事件現場へ触るなと言われたため、事件現場の三ミリ手前へ寝転んでいた。

「その姿勢は」とセレナ。

「触ってない」

「質問していません」

「先に弁護」

「後ろ暗い人の癖です」

「技術者の経験!」

 四本の補助腕が、血痕の周囲へ透明な枠を置く。

 血は青天井へ、七滴。

 最初の二滴は大きい。

 三滴目から細くなる。

 六滴目と七滴目の間隔だけ長い。

「歩いた?」とハル。

「落ちながら足を着いた」とロロ。「重力が移る途中、東壁から天井へ三回。最後だけ跳んでる」

「アディルは跳べる状態じゃない」とカイル。

「傷を受けた直後なら、身体は動く。痛みが遅れることもあります」

 セレナは血滴の中心を結ぶ。

 歩幅。

 七十一。

 七十四。

 七十三。

 最後だけ九十六。

「アディル」とセレナ。

「はい」

「通常歩幅」

「舞踏で?」

「急いだ時」

「六十二から六十五。左足を長く出せない」

「血痕は七十を越えています」

 アディルが眉を寄せる。

「私の血です」

「血液反応は一致しています」

「なら私が」

「血があなたのものでも、足跡まであなたのものとは限りません」

 ハルが首を傾げる。

「誰かが血を持って歩いた?」

「可能性の一つ」

「怪我人を?」

「衣装の布、手袋、仮面。運べる物は多い」

「今は断定しません」とセレナ。

 彼女は見ていない角を振り返る。

 証羽が一枚、白鏡床の方向へ飛ぶ。

 黒い羽根は重力に逆らわない。今の床である青天井へ落ち、血痕の横へ止まった。

「ハル。あなたがアディルを掴んだ位置」

「東壁の上から二番目の鏡柱」

「血は」

「もう出てた」

「仮面は」

「ずれてた。落ちる前は、ちゃんと顔へ」

「匂い」

「血」

「他に」

 ハルは鼻を寄せようとする。

 セレナが外套の端で止めた。

「現物へ近づかない」

「聞いたから」

「記憶を答えて」

「甘くない花。ぶどうっぽい。あと金属」

 ミレイが顔を上げた。

「夜葡萄香」

「あなたの?」

「舞踏前に一滴。鏡光で酔わないため」

「アディルは」

「香料を使わない」と本人。「南鏡市では、外交役が香りを持つと砂嵐後の救助犬を惑わせる」

「仮面の内側へ、ミレイの香りがある」

 ハルが言う。

「でもアディルが被ってた」

「役務仮面は一枚ではありません」と宮廷書記。

「同じ像を投影する面体が複数あります」

「なら香りは別の仮面」

「可能です」

「アディルの仮面はどれ」

 書記が黙る。

「回収箱は」とセレナ。

「重力移動時に混線しました」

「混ざった」

「役番号で識別できます」

「番号」

「契約中は非公開です」

 セレナの声が、さらに低くなる。

「証拠保全より役務秘匿を優先する根拠を示してください」

「候補者暗殺対策」

「今、襲撃が起きています」

「だからこそです」

 理屈は円を描く。

 守るために隠す。

 隠れているから調べられない。

 調べられないから守る。

 制度は、鏡のように自分を映し続けると、外へ出口を持たなくなる。

 その円の外で、誰かが泣いていた。

 幼い給仕見習いだった。

 重力反転で銀盆を落とし、飛んだ杯が隣の客の額を切ったらしい。本人に傷はない。だから避難列の端へ置かれたまま、両手だけを震わせている。

 セレナは現場から目を離さず、証羽を一枚飛ばした。

「名前」

「ノ、ノエ」

「怪我」

「ないです」

「責められた?」

「僕が盆を」

「落とした原因」

「床が、上へ」

「床は上へ行っていません。重力が移りました。あなたが悪いという意味ではありません」

「でも、僕の盆」

「盆を持たせたまま転調を知らせなかった配置責任があります。額を切った客は治療中。あなたは医師の確認を受けた後、休憩。証言はその後でも断れます」

 少年は理解した顔をしない。

「怒られない?」

「誰に」

「役務長に」

「怒るかもしれません」

 ハルがセレナを見る。

「そこは安心させるところ」

「事実でない安心は出しません」

 セレナは少年へ向き直った。

「怒られた場合、事故報告へその怒りも記録します。一人で受けないで」

 少年の震えが、少しだけ小さくなった。

 犯人を探す前に、事件へ勝手に犯人にされる者を減らす。

 捜査の速度は、それで遅くなる。

 遅くなるからこそ、後で戻る時間が少なくなる。

 医師の確認を終えたノエは、休憩室へ行く前に一度戻ってきた。

 泣き止んではいない。

 泣きながらでも、言うべきことを思い出した顔だった。

「仮面の箱」

「何を見た」とセレナ。

「見たっていうか、触りました。僕、開幕前に飲食口を磨く係で」

「どの面体」

「金の七枚。役番号は見ちゃ駄目だから、裏返さないで磨きます。でも、紐の結びが違う」

「結び」

「一番は右輪。二番は左輪。三番は二重。暗くても戻せるように」

 ノエは震える指で空中に七つの結びを作る。

 子供へ数字を読ませない制度が、代わりに指へ順番を覚えさせていた。

「襲撃の後」とセレナ。

「三番の箱へ、右輪が入ってました」

「入れ間違い?」

「僕かもしれない」

「あなたが入れた?」

「回収輪が勝手に運ぶ。でも僕が盆を落とした時、箱棚へぶつかった」

「ぶつかっただけで箱の中身は移らない」とロロ。

「蓋は」

「閉じてた。……たぶん」

 セレナは『たぶん』を消さない。

「右輪の仮面は、開幕前どこに」

「一番。アディル様用。鼻当てを一枚足した」

「三番は」

「予備。誰用か知らない」

「ミレイ用は」

「五番。夜葡萄香が付くから、別布」

 目の前の金仮面には、右輪の紐。

 夜葡萄香。

 アディルの血。

 一枚の中で、箱の順番と使った人の順番がずれている。

「証拠?」とハル。

「ノエの記憶だけでは」とセレナ。「ただし、紐の擦れと箱の金具を比較できます」

「僕、間違えた?」

「今は分かりません」

「もし僕なら」

「間違えた行為と、襲撃を同じ欄へ書きません」

 ノエは鼻をすすった。

「同じ欄じゃないなら、話してもいい」

 その一言は、小さかった。

 だが捜査というものは、話した瞬間に全部の責任を背負わされないと分かる時、ようやく次の証言を得る。

 ノクスが血痕の周囲を歩く。

 二本の尾を、アディルとミレイへ同じ角度で向けた。

「どっち」とハル。

 ノクスは答えず、透明枠を一周してから、回収箱に積まれた七枚の金仮面へ近づく。

 一枚。

 二枚。

 三枚。

 七枚のうち一枚を前脚で引く。

 宮廷書記が声を上げた。

「触れさせないで!」

 ハルが抱き上げる。

「選んだ」

「破られた約束の匂いですか」とセレナ。

「たぶん」

「たぶんは証拠にしません」

「でも調べる理由には?」

「優先順位の提案にはします」

 ノクスが選んだ面体は、外見上ほかと同じだった。

 金の頬。

 左右異色の目。

 内側の役番号は封じられている。

 セレナは箱へ触れないまま、面体の縁へ証羽を滑らせた。

 羽根が、右頬の位置で止まる。

「油分が新しい」

「ミレイ?」

「夜葡萄香と一致する可能性。ほかに、血液の微粒子」

「アディル」

「可能性」

「一枚に二人」

「役務面体は回収後、次の受諾者へ自動搬送されます」と書記。

「誰が運ぶ」

「宮殿」

「宮殿は歩きません」

「鏡路です」

「搬送経路」

「秘匿」

「また」

 ハルの声が尖る。

 セレナは面体の顎を観察する。

 薄い擦れ。

 新しい傷の下に、古い傷。

「運ばれた順序が残っています」

「どうして」

「磨き油の層。血液は夜葡萄香の上。香りは鏡油の上。少なくとも、この面体はミレイの匂いを得た後、アディルの血へ接触しています」

「アディルが先に被って、後でミレイじゃない」

「順序が逆に見えます」

 書記が反論する。

「回収箱で接触した可能性」

「箱内配置を保全してください。接触位置と一致するか検証します」

 セレナは結論を急がない。

 ノクスも、正解を示したわけではない。

 ただ、七つの同じ顔から一つを引いた。

 そこに人間が調べられる違いがあった。

 違いがあることと、意味が分かることは別である。