第340話 第二章「花婿候補の仮面」後編
ユノは大広間の中央で、避難路の幻を消していた。
白い縁が、一枚ずつ閉じる。
「最後の人、出た」とリゼ。
「確認?」
「現実の足で」
「ありがとう」
「兄さんの幻へお礼を言わせないため」
「動機が複雑」
「結果は単純」
ユノは弓を下ろした。
右手薬指が完全には伸びない。
鏡砂の旅での演奏と救援で悪化した腱は、一まで回復している。それでも長い和音を押さえると、指先が遅れる。
耳鳴りは右一、左一。
白い縁を保つたび、右耳の奥で細いガラス音が増える。
「休んで」とリゼ。
「一曲も弾いていない」
「幻は一曲より長い」
「避難のため」
「目的が良いと身体が無料になる制度、いつ廃止?」
ユノは答えない。
リゼが面紗の端を三角へ折り直す。
「今の黙り、同意?」
「違う」
「なら言って」
「休む」
「成立」
「ミラの影響まで」
「旅の被害」
ハルが近づく。
「ユノ」
「うん」
「一人の役に、仮面が何枚ある」
「最大七枚」
「同時に七人?」
「権限は一人だけ。像を準備する仮面は複数。役を受けた一枚だけが誓紋を持つ」
「今、ミレイ」
「そう」
「アディルの誓紋は」
「消えかけている」
治療区画を見る。
アディルの右肩から胸へ伸びていた金の星紋は、薄い線になっている。完全には消えていない。役を渡した直後の残光。
「二人にある」
「移転後、七十七拍は残る」
「じゃ、同じ誓紋があっても同じ人じゃない」
「最初から、同じ人を示していない」
「でも見たら、同じ人だと思う」
「そう見えるように作られている」
「なんで」
「役が途切れたように見せないため」
「誰に」
「観客。敵。条約相手。歴史」
ハルは金の仮面を見る。
「本人は」
「本人も、ときどき」
ユノの左右で異なる目が、別の光を返す。
「役が続けば、自分が交代しても外交は続く。平和には便利だ。自分がいなくても同じ笑顔が立つから」
「怖くない?」
「怖いよ」
完璧な微笑みではなかった。
目元が先に崩れている。
「だから、今夜は顔を追わないで。役がどこへ動くかを見て」
「それ、知ってる人の言い方」
「制度を」
「事件を?」
「知らない」
答えは早い。
早すぎない。
ハルは羅針盤の蓋へ指を置く。
一度。
二度。
弾かない。
今、探すべき失われたものを、まだ言葉にできない。
セレナは、金の仮面を透明箱へ入れた。
「役務中の押収は」と宮廷書記。
「複製面体一枚だけです。ミレイの現用面体は残す」
「契約鏡へ接続したまま」
「接続を切れば痕跡が消える可能性があります」
「切らなくても上書きされる」
「上書き開始時刻」
「第二曲開始」
「第二曲を止める」
「外交上の損失が」
「損失額を提示してください」
「額ではなく」
「測れない損失を、負傷者より自動優先しないで」
フリードリヒが間へ入る。
返答前の五秒。
「第一夜は中断を継続する。第二曲は、負傷者の同意と警備監査が終わるまで始めない」
「ルーメン側の決定権は」と書記。
「候補公女の参加撤回権と、共同条約当事者の安全条項。どちらも現行だ」
「鏡王家へ確認を」
「確認する。返答まで停止」
命令で時間を買った。
エリアは父を見る。
「期限」
「一刻」
「一刻後に安全が確認できなければ」
「再停止を提案する」
「自動再開ではなく?」
「そうだ」
エリアは小さく頷く。
父の権限を喜んだのではない。
終了条件があることを確認した。
仮面の調査は、持ち主を決めるところから始まった。
仮面は宮廷の物。
役は条約の物。
香りはミレイの物。
血はアディルの物。
痕跡は事件の物。
「事件の物って誰の」とハル。
「誰の所有物でもありません」とセレナ。「だから勝手に捨てられない」
「誰のでもないと、皆が触る」
「ここでは逆です。誰も所有しないから、共同手順で触る」
ロロが透明箱の外から光を当てる。
「内側、擦れが三種類」
「三」とセレナ。
「鼻梁の高さ。頬骨。顎。これ、一人が長く使った傷じゃねえ」
「仮面自体が複数では」
「この一枚の中で三人分」
「いつ」
「分からねえ。磨き直してる。でも一番新しい擦れは右頬。次が鼻。古いのが顎」
「ミレイは」
「右頬」と本人。
「アディル」
「鼻が当たる」
「古い顎は」
誰も名乗らない。
セレナは仮面の内側へ、細い紙片を入れる。
夜葡萄香。
血。
鏡油。
砂。
「砂、二色」とロロ。
赤茶。
黒紫。
「南鏡市と北回廊」とエリア。
「アディルとミレイの待機区画」
「二人が使った説明には合う」
「三人目の擦れには合わない」
「砂が残っていないだけかもしれません」
「事実だけを」とセレナ。
彼女は羽根を一枚ずつ置く。
一。アディルが負傷した。
二。負傷直後、ミレイへ花婿役が移った。
三。役務仮面の一枚に、少なくとも三種類の装着擦れがある。
四。血痕の歩幅は、アディルの申告歩幅より長い。
五。仮面内の最新香料はミレイと一致する。
六。役割移転記録は非公開。
「七」とハル。
「何です」
「二人見た」
「観測者多数。記録済み」
「一役なのに」
「残光時間内は、旧保持者と新保持者へ同じ誓紋が見えます」
「制度上は説明できる」
「はい」
「事件じゃない?」
「二人いたこと自体は、事件ではありません」
セレナは単眼鏡を外さない。
「合法は、無関係という意味ではない」
その時、大広間の入口で鈴が鳴った。
一度。
二度。
ミレイが警備円から歩き出す。
「どこへ」とセレナ。
「第二曲の再開審査」
「まだ決定していません」
「花婿役は、条約台へ立って待つ義務がある」
「本人は拒否できます」
「拒否しない」
彼女の右足は、固定帯のため少し短い。
金の仮面が、アディルと同じ顔を作る。
同じ誓紋が胸へ流れる。
同じ身長に見える。
けれど靴は違う。
血痕の歩幅とも違う。
ミレイが条約台へ着く直前、別の入口が開いた。
白灰の短髪。
袖口を三度折る若者。
セイ・ハルファが入ってくる。
その胸へ、金の誓紋が一瞬だけ灯った。
「今」とハル。
ミレイの誓紋は消えていない。
アディルにも残光がある。
セイにも、新しい金線。
三人。
同じ花婿役の印。
セイは自分の胸を見た。
驚きより先に、袖口を折り直す。
「私は、受けていない」
声が震えていた。
宮廷書記が役渡し鏡を見る。
鏡面には、正式な受諾印。
「成立しています」
「していない」
「誓紋は真正」
「私は言っていない」
「役は移っています」
「本人は拒否しています」とセレナ。
「拒否手続は、役を受けた後に」
「受けたことを争っています」
セイの金線が、喉まで上がる。
金の仮面像が、本人の顔へ重なり始める。
同じ役名なら、同じ人に見える。
同じ人に見えても、同じ意思ではない。
セレナは黒い証羽を、金の誓紋の前へ立てた。
「第二曲は開始させません」
「星律官に権限は」
「今、本人の受諾が争われています。争いが解けるまで、役を証拠として保全します」
「役を?」とハル。
「人ではなく」
セレナの声が、大広間へ乾いて響く。
「この事件では、まず役を止めます」