第341話 第三章「重力が踊る床」前編

踊りは、歩くことに余計な規則を加えた行為である。

 足を出す。

 戻す。

 相手へ近づく。

 離れる。

 それだけなら、人は幼い頃からできる。

 音へ合わせろ。

 姿勢を崩すな。

 相手の足を踏むな。

 見られていることを忘れるな。

 見られているからといって、相手を忘れるな。

 規則が増えるほど、歩行は舞踏になる。

 外交も似ていた。

 話すだけなら簡単である。

 誰が、どの役で、どの期限まで、誰のために、どこまで本気で言ったかを加えると、言葉は政治になる。

 ハルは歩くのが得意だった。

 政治も舞踏も、得意ではなかった。

「第二曲を始めるの?」

 中断から一刻と十四分後。

 ハルは、七面宮の控室で鏡靴の紐を締め直していた。

「第一夜の再開ではありません」とエリア。「安全確認用の短縮舞踏。重力機構、役渡し鏡、警備位置を実地で確認します」

「客もいる」

「各国の監査役」

「見るだけ?」

「見るだけの人が、一番たくさん発言します」

「会議と同じ」

「舞踏会も会議です。足を動かす分、眠りにくい」

 セイ・ハルファの誓紋は、受諾争いのまま凍結された。

 本人は別室でセレナと宮廷法務官の聴取を受けている。

 アディルは治療区画。

 ミレイは花婿役を返却し、右足首の固定帯を巻き直していた。

 花婿役は空位。

 空位になれば条約原本の防護が止まる、とミレイは言った。

 だがロロが調べたところ、止まるのは防護そのものではなかった。

「防護の更新」とロロ。

 彼は舞踏靴の踵へ、細い白墨筒を差し込んでいる。

「役が空いても箱は開かねえ。三時間ごとの認証ができなくなる。三時間過ぎると原本が自動で保管鏡へ移る」

「安全じゃない?」とハル。

「移る先が王家管理」

「今は」

「共同管理」

「誰にとって安全かが違う」

「お前、やっと機械の説明を人の話へ翻訳できるようになったな」

「エリアの影響」

「旅の被害」とリゼ。

 壁へ向けた鏡の前で、彼女は偏光眼鏡のつるへ黒糸を巻いている。

「今夜の光量、三。頭痛は一。兄さんの顔は二」

「なぜ上がった」とユノ。

「第二曲を再開しようとした」

「短縮監査だよ」

「名前を短くすると危険も短くなる?」

「ならない」

「正直」

 ユノはアルマを持っていない。

 演奏は宮廷楽団へ任せ、候補役として歩く。

 ハルは彼の足元を見る。

 黒い靴。

 踵の減りは左右ほぼ同じ。

 右薬指が不完全でも、足には関係ない。

「顔じゃなく足」とユノ。

「見てた?」

「見られていた」

「自意識」

「職業病」

「エリアの足も見る?」

「舞踏相手の足は見る。本人の顔も見る」

「それ、普通に言うんだ」

「言わないと、君は勝手に難しくする」

「難しくしてるのは舞踏会」

「感情まで制度へ請求しないで」

 ハルは答えない。

 赤いマフラーの結び目を締め直す。

 エリアが見ている。

「何」とハル。

「今夜、そのマフラーは外した方が安全です」

「持込禁止じゃない」

「重力転換で首へ巻きつく可能性がある」

「短くする」

「外す選択は」

「しない」

「理由」

「俺の服で、俺が選んだ部分がこれだけ」

 エリアの顎が少し上がる。

 命令する時の姿勢。

「安全上――」

 そこで止まった。

「今のは、公女役の指示」と彼女。

「うん」

「本人としては」

 彼女はマフラーの端を取り、二重の結び目を一つほどく。

「短くして。外してとは言わない」

「分かった」

「役の返事?」

「本人」

「先に言って」

「難しい」

「練習です」

 舞踏より、こちらの方が難しい。

 短縮舞踏は、七面宮の西半分だけを使った。

 重力面は三つ。

 白鏡床。

 東壁。

 青天井。

 客席は閉鎖。

 監査者は固定座へ結ばれる。

 条約原本は白銀箱ごと中央台へ残され、周囲にセレナの証羽、王家の監視鏡、ルーンベルグ家の封鎖針が三重に置かれた。

 フリードリヒは、地図へ通行条件を固定する封鎖針〈ロック・ルート〉を七本、台の周囲へ打った。

「役務者以外は半径五歩へ入れない」

「期限」とエリア。

「監査終了まで」

「時刻で」

「三十分」

「延長は」

「本人確認を含む共同署名」

「承知」

 父娘は、愛情より先に解除条件を話す。

 ハルはそれを冷たいと思わなくなっていた。

 言葉にしない愛情は美しい、と物語は言う。

 解除できない保護も美しい、と制度は言う。

 どちらも、閉じ込められる側には同じ扉になる。

 オルフェ・ラズが指揮台へ立つ。

「監査曲は、第一夜序曲の前半を使用。役割移転は行わない。転調は重力のみ。警備は通常位置。異常を感じた者は、礼法を無視して三重鈴を鳴らせ」

「礼法より安全」とハル。

「礼法の中に安全を入れるための監査です」とオルフェ。

 左耳の骨振動片へ触れる。

「ただし、私の指揮杖へ飛びつくな。前回、王太子がやった」

「十年前」とカイル。

「今も杖に歯形がある」

「俺は噛んでない」

「落ちた時、口で受けた」

「救難」

「器物損壊」

「セレナみたい」

「歴史は証拠を残す」

 銀の杖に、本当に小さな歯形がある。

「カイル、十年前で何歳」とハル。

「七」

「王子は昔から王子だな」

「褒め言葉に聞こえない」

「評価」

 音が始まる。

 今度のハルは叫ばなかった。

 一。

 右。

 二。

 左。

 三。

 寄せる。

 エリアの手は軽い。

 軽いが、進路を示す圧がある。

「肩」

「零」

「方向」

「一」

「呼吸」

「俺?」

「私」

「零?」

「零」

「共同申告」

「踊りながら問診を習慣にしないで」

「安全」

「今のは役?」

「本人」

「先に」

「難しい!」

 周囲では、ユノが別の候補役と回っている。

 候補役同士は、直接手を取らない。

 間に白い弦を一本持ち、互いの引く強さで距離を決める。

 エリアとユノの公式舞踏は、この後に予定されていた。

 ハルは知っている。

 知っているから、見ないようにした。

 見ないようにすると、視界の端へ余計に入る。

「足」とエリア。

「見てる」

「私の」

「見てる」

「では踏まないで」

 ハルの右足が、エリアの左爪先へ乗った。

「……」

「……」

 曲は続く。

「ごめん」

「止まらない」

「痛い?」

「一」

「降りる?」

「続ける。あなたは次の一歩を」

「でも」

「ハル」

 短い。

 危険時の呼び捨て。

「右」

 ハルは右へ出る。

 失敗した足を見続ければ、次も踏む。

 謝るために止まれば、相手も止める。

 二歩。

 三歩。

 エリアが息を吐く。

「今、笑っていい?」

「何が」

「踏んだ」

「笑う理由では」

「隠すと次が遅れる」

 鏡砂の宴で学んだこと。

 ハルは笑う。

「下手!」

「自覚は正確です」

 エリアも笑った。

 右手で口元を隠す。

「でも続いた」

「評価します」

「褒めた?」

「評価」

 監査曲の第一楽節が終わり、組み替えの合図が鳴った。

 相手を変える。

 政治上は交流。

 舞踏上は休憩を装った技能試験。

 感情上は、ハルにとって説明のつかない不満だった。

「次はユノ」とエリア。

「知ってる」

「手を放して」

「放してる」

「指が一本」

 ハルの右小指が、エリアの手袋の縁へ残っていた。

「残ってた」

「意図は」

「ない」

「では離して」

「本人の頼み?」

「今は舞踏手順」

「手順なら」

 離す。

 ユノが入れ替わる。

 白い弦を一本、エリアとの間へ渡した。

 直接触れない候補者舞踏。

 弦が張りすぎれば、相手を引いている。

 たるめば、相手へ任せすぎている。

 ユノとエリアの弦は、最初から最後まで同じ弧を保った。

「完璧」とハル。

「不満?」とリゼ。

 いつの間にか隣にいる。

「観測」

「セレナ病」

「俺は病気じゃない」

「顔が三」

「何の数」

「兄さんを見た時の不機嫌」

「一」

「値切った」

 ユノは回転の前、ほんの一瞬だけエリアの左踵を見る。

 怪我の確認。

 次に、白い弦を一センチ緩める。

 エリアは自分で距離を詰める。

 助けたのではない。

 助けられる余白を置いた。

「今の、稽古した?」とハル。

「三種類」とリゼ。

「何を」

「エリアが踵を痛めた場合。気づかないふり、気づいて弦を緩める、曲を止める」

「自然じゃない」

「自然に見せる稽古」

「どれ選んだ」

「二」

「なんで知ってる」

「私が三回見た」

 ユノは自然に見える。

 自然であることを、前夜から三案準備している。

 ハルは、自分が足を踏んだ時のことを思い出す。

 準備していない。

 笑った。

 続けた。

 どちらが正しいわけでもない。

 ただ、ユノの完璧さには練習の跡がある。

 ハルの不格好さには、相手へ渡してしまう偶然がある。

「兄さんに勝ちたい?」とリゼ。

「何で」

「踊り」

「勝てない」

「婚約」

「それは勝負じゃない」

「正解」

「試した?」

「兄さんの相手を、敵にすると楽だから」

「楽?」

「相手が悪い。自分が正しい。それで終わる」

「終わらない」

「だから正解」

 リゼは薄墨の面紗の下から、エリアを見る。

「エリアは、誰かの賞品じゃない」

「分かってる」

「兄さんも」

「分かってる」

「ハルも」

「俺?」

「自分を一番安い敗者にしないで」

 曲が次の組へ移る。

 ユノとエリアが離れた。

 白い弦は切れない。

 結ばれもしない。

 候補者舞踏とは、つながっているように見せながら、どちらもいつでも手を放せる距離を測る踊りだった。

 ユノがハルの前を通る。

「足を踏んだね」

「見てた?」

「見られていた」

「その言い方、便利」

「君も僕を見ていた」

「足を」

「それで十分」

「何が」

「僕は転調前、右踵を上げる。君は上げない。どちらかが花婿役なら、同じ顔でも見分けられる」

 感情の会話に見せて、事件の手掛かりへ戻す。

「今の、自然な即興?」

「四案目」

「稽古してない」

「君が足を踏む予定はなかった」

「そこまで計画されてたら嫌だ」

「安心して。失敗は君のものだ」

「返してほしくない」

 ユノが少し笑う。

 完璧な笑顔ではない。

 その瞬間だけ、ハルは彼を花嫁候補でも第一継承者でもなく、同じ舞踏で足元を見ている一人の少年として見た。

 重力舞踏は、もともと恋を見せる踊りではなかった。