第342話 第三章「重力が踊る床」後編
鏡砂環の古い城は、砂嵐のたび下が変わった。床が壁になり、壁が天井になり、昨日の安全路が今日の落下口になる。そこで人々は、隣の者へ体重を預ける前に合図を決めた。
握る。
離す。
待つ。
支える。
四つの合図が、後世には舞踏礼法となった。
礼法になると、なぜ必要だったかが忘れられ、美しい形だけが残る。
今夜の監査曲では、その古い合図が復活していた。
エリアがハルの手を二度軽く叩く。
「二回は」
「次の重力面へ自分で移れる。支えは不要」
「一回は」
「手を貸して」
「三回」
「止まって」
「四回」
「礼法にはない」
「俺が足を踏んだ」
「それは合図でなく事故」
背後の組で、老いた使節が相手の手を取らず、杖を二度鳴らした。
相手は怒らない。杖の先へ白い布を結び、その布越しに距離だけを合わせる。
「触れない踊りもある」とハル。
「触れないから拒絶、ではない」
「触るから同意、でもない」
「ええ」
エリアの声が、少しだけ柔らかくなる。
「あなたは、助ける時すぐ掴む」
「落ちるから」
「必要な時は掴んで。でも、落ちていない時まで救助にしないで」
「今は」
「踊っている」
「じゃ、聞く。手、取っていい?」
「もう取っている」
「次の拍も」
エリアは答える前に一拍置く。
「いい」
許可は、一度取れば曲の終わりまで自動で続く札ではない。
次の拍、次の重力、次の距離で、同じ返事になるとは限らない。
ハルはその面倒さを、面倒だと思った。
そして面倒だから省いてよいとは思わなかった。
七夜舞踏会は国家の婚約を決める。
だが本来、舞踏が教えていたのはもっと小さいことだった。
次の一歩を、同じ方向へ踏むか。
今、もう一度聞くこと。
ハルは次の拍へ入る前に、聞かなくてよいことを聞いた。
「ユノの方が踊りやすい?」
エリアの右眉が上がる。
「今?」
「今じゃないと後で逃げる」
「あなたが?」
「俺が」
正直は、相手へ答える義務を作る免許ではない。
エリアは一拍、返事を保留した。
「舞踏技術はユノが上です」
「知ってる」
「ではなぜ聞いたの」
「知ってるのと、本人に言われるのは違う」
「傷つきたい?」
「違う。役のせいにしたくない」
エリアは手を二度叩く。
自分で移れる合図。
「踊りやすさと、誰の隣を選ぶかは同じではありません」
「今、俺の隣?」
「随伴役として」
ハルの顔が少し落ちる。
「そして本人として、あなたに頼みました」
戻る。
「先に後半を」
「前半を消したくない。役として必要だから選んだことも、本人として頼んだことも、両方です」
「二つあると、どっちが本当か迷う」
「二つとも本当」
「難しい」
「簡単な一つへ減らさないで」
ハルは頷く。
「じゃ、次の拍も聞く。隣、いい?」
「いい」
答えは小さい。
国家の婚約より小さく、だから本人の近くにあった。
転調。
低弦が一音下がる。
四拍。
ハルは踵を上げない。
五拍。
靴の可動錘が東へ滑る。
六拍。
身体を傾ける。
七拍。
重力が東壁へ移る。
エリアの左手が、ハルの右肩へ来る。
ハルは腰を支えない。
事前に決めた位置だけを取る。
二人は壁へ着地した。
「生存」とハル。
「舞踏二点」
「前は零」
「成長率は」
「母数が小さい」
同時に言う。
少し笑う。
その笑いの向こうを、金の仮面が通った。
花婿役はいないはずだった。
だが監査用の空仮面が、役渡し鏡の上へ投影されている。
中身のない像。
歩かない役。
第一楽節では、左足を少し引いていた。
転調後、右足を引いている。
「エリア」
「何」
「あの仮面、足が変わった」
「投影に足は」
エリアが見る。
空仮面の下に、淡い影がある。
左。
右。
影は、舞踏記録から作られている。
「第一夜の再現像」とユノが言う。「記録された花婿役の動きを、監査用に重ねている」
「一人分?」
「役一つ分」
「前半は左を庇う」
「アディル」
「後半は右」
「ミレイ」
「じゃ途中で変わった」
「緊急継承時に」
「撃たれた後?」
「記録では」
「影が変わったのは転調の前」
ユノの目元が動く。
ハルは数えた。
第一夜。
光が飛んだのは七拍目。
重力が変わった。
アディルが落ちた。
ミレイが反対回廊に現れた。
だが再現像では、右足を庇う歩き方が六拍目から始まっている。
「撃たれる前に、ミレイへ移ってる」
「なら撃たれた花婿は」とカイル。
「役じゃないアディル」とハル。
「見た目は役のまま」
「残光」
ユノが低く言う。
「襲撃者は、交代を知っていた?」
「または交代させた」とセレナ。
監査席から立ち上がる。
「オルフェ。再現像を停止しないで。記録時刻を固定」
「承知」
「役移転なしの監査なのに、なぜ像が切り替わる」
「記録がそうなっているからだ」
「誰が記録を選んだ」
「楽長用譜面が、役務鏡から自動取得する」
「譜面を見せて」
「監査終了後」
「今」
セレナの敬称が消えた。
オルフェは銀杖を止めない。
「曲を止めれば、重力がどの面へ固定されるか不定になる」
「三重鈴は」
「機構停止ではなく、次の床へ安全移動するまで曲を続ける合図だ」
「では続けながら渡して」
「私の両手は指揮中だ」
「代理」
「楽長譜は役務者以外へ渡せない」
「また役」
ハルは呟く。
エリアの手が強くなる。
「次の転調が来ます」
音が上がる。
青天井へ重力が移る準備。
ハルは金の再現像から目を離さない。
左足。
右足。
同じ仮面。
違う身体。
四拍。
オルフェの指揮杖が高く上がる。
五拍。
天井側のバルコニーで、黒い影が動いた。
六拍。
誰かが、重力の変わる前に膝を曲げる。
半拍早い。
「上!」
ハルが叫ぶ。
七拍。
狙撃音。
鏡弦を弾くような、乾いた一音。
白い光弾が、天井側から中央条約台へ走る。
フリードリヒの封鎖針が一本砕ける。
重力が青天井へ移る。
条約原本の白銀箱が、台座から浮いた。
「原本!」
カイルが走る。
右籠手はない。
それでも星痕へ炎が集まる。
「盾は三日過ぎてる!」とハル。
「過ぎたから使う!」
「医師の許可!」
「小さく!」
深紅の王盾炎が、白銀箱の下へ開いた。
衝撃を受ける。
カイルの背が反る。
鏡砂隊商で腫れた古傷へ、痛みが戻る。
「二」と彼。
「今、申告する余裕!」
「共同習慣だ!」
箱は盾へ落ち、跳ねる。
東壁側へ。
ハルが蹴る。
一。
二。
三。
空中で白銀箱の取っ手へ指を掛ける。
重い。
左肩が一から二へ跳ねる。
「ハル、離して!」
エリアの声。
「箱が!」
「あなたの肩が先!」
「原本!」
「ロロ!」
今度は本人の頼みだと分かった。
ロロの補助腕が、天井の格子から伸びる。
「放せ、三で!」
「一、二」
「三!」
ハルは離す。
補助腕二本が箱を受け、一本が格子へ固定し、残り一本が勢いを逃がす。
金属が悲鳴を上げる。
「修理代!」
「誰に!」
「狙撃犯!」
「逮捕後に請求して!」とセレナ。
彼女は証羽を天井バルコニーへ飛ばす。
黒い羽根が、弾道を一本の線へ変える。
狙撃位置。
青天井の上層。
警備専用回廊。
だが人影はもういない。
残っているのは、靴底の白い擦れ。
重力が変わる半拍前に踏み込んだ跡。
監査曲は三重鈴で終わった。
安全床へ戻るまで、あと二分四十秒。
その二分四十秒が長い。
人は危険を知った瞬間、止まりたくなる。
機械は、安全に止まるため最後まで動かなければならない。
オルフェは指揮を続けた。
客は踊りをやめ、手すりへ移る。
エリアは路図を出さない。
監査範囲は測定済みだが、混乱した人々の選択まで線で決めない。
「白鏡床へ戻る者、右手」と彼女。
手が上がる。
「東壁へ待避する者、左手」
別の手。
「保留は、中央手すり」
誰も動かない人が、中央へ残る。
ハルは左肩を回しかけ、止めた。
「二」とエリア。
「今は一半」
「半を使わない」
「一」
「後で冷却」
「役の指示?」
「本人の頼み」
「分かった」
答えた後で、胸の奥が少し熱くなる。
同じ言葉でも、誰がどの立場で言ったかで重さが変わる。
花婿役の事件だけではない。
ハルとエリアの間にも、役と本人がいる。
安全床へ戻った後、ハルは証羽の弾道線を見上げた。
「狙ったの、花婿じゃない」
セレナが隣へ立つ。
「根拠」
「光弾は条約台へ。花婿の再現像は、台の左」
「射出時刻に重力が変わる。弾道は曲がります」
「それでも箱へ行った」
「観測事実です」
「第一夜も?」
「アディルの肩へ当たった」
「狙いが本人だったかは分からない」
「はい」
「でも今回、箱」
「はい」
「花婿の役が、箱へ近づく役だから?」
「仮説です」
セレナは否定しない。
「もう一つ」とハル。
「何です」
「上の警備、重力より早く動いた」
「誰」
「顔は見えない」
「役」
「警備」
「何拍」
「六と七の間。半拍」
「あなたの感覚」
「数えた」
セレナは羽根へ記す。
「証拠ではありません」
「分かってる」
「検証します」
いつもの順番。
ハルの違和感を切る。
捨てずに、測れる形へ変える。
エリアが来る。
「再現像の歩行差も、時刻へ重ねます」
「ユノは」
「楽長譜の閲覧交渉」
「見せてもらえる?」
「役務権限が足りないと言われています」
「第一継承者なのに」
「だからこそ、楽長譜を自由に見られない仕組みにした、と王家は説明します」
「王が悪いことするのを止める?」
「建前では」
「実際は」
「楽長が新しい権力になる」
オルフェは遠くで、銀杖の歯形を布で拭いている。
犯人に見える。
権限がある。
記録へ触れられる。
転調を知る。
だがハルが見た半拍早い影は、指揮台ではなく警備回廊にいた。
同じ曲を知っていても、同じ役ではない。
同じ権限を持っていても、同じ人ではない。
金の再現像が、監査終了とともに消える。
最後まで、前半は左足を庇い、後半は右足を庇っていた。
一つの役が、一曲の中で別の身体へ変わっている。
それを誰も不自然と思わないよう、仮面は同じ顔を作り続けた。