第343話 第四章「一夜目の別人」前編

靴は、顔より正直だと言われる。

 靴に意思がないからである。

 本人が笑っても、靴底は疲労を隠さない。

 本人が身分を偽っても、踵は歩いてきた地面を持ち込む。

 本人が「平気」と言っても、片側だけ減った底は、どちらの脚を庇ったかを残す。

 ただし、靴は喋らない。

 正直であることと、説明できることは別である。

「大広間を一回転させます」

 ロロが言った。

「却下します」とセレナ。

「まだ理由言ってねえ!」

「事件現場を一回転させる提案へ、理由を聞く義務はありません」

「血痕を本来の床へ戻さないと、靴底の圧が読めねえ!」

「先にそれを言って」

「言う前に却下した!」

「結論は変わりません」

「横暴!」

「星律法第十二条。証拠保全官は、不可逆な現場変形を拒否できる」

「回転は可逆!」

「同じ位置へ戻っても、落下物の接触順が変わります」

「じゃ部分回転」

「範囲」

「血痕周囲、縦三歩、横四歩。透明受け膜を張る。砂一粒ごと座標取る。回転角は九十、速度は一拍に一度。戻す」

「失敗時」

「俺が払う」

「金銭でなく証拠損失」

「失敗しねえ」

「その言葉は記録しません」

「信用!」

「確率を」

「九六・二」

「残り三・八の内訳」

「嫌な官僚!」

「褒め言葉として記録します」

 セレナは黒い羽根を伏せた。

 結局、部分回転は行われた。

 ロロの説明が通ったからではない。

 他の方法では、青天井へ張り付いた血痕と、白鏡床へ残った靴跡を同じ重力条件で比較できなかったからである。

 大広間の一区画へ透明膜が張られる。

 膜の四隅を、ロロの補助腕が保持する。

 エリアが回転範囲の路図を描く。

 カイルが物理的な落下防護を担当する。

「小さい盾」とセレナ。

「小さい」

「痛み返し上限」

「二」

「一を越えたら解除」

「了解」

「冗談を言わない」

「景気が悪い」

「今のは」

「確認」

 カイルの王盾炎は、掌ほどの深紅の板になった。

 ハルは透明膜の外へ立つ。

「俺は」

「見るだけ」とセレナ。

「落ちたら」

「カイル」

「足場が外れたら」

「エリア」

「隙間へ入るなら」

「入らない」

「役がない」

「良いことです」

「役がないと、何もできない人みたい」

「何もしないことも、現場保全では必要な技能です」

「難しい」

「練習して」

 ロロが回転輪を一段進める。

 透明膜の中だけ、下が横へ移る。

 血滴が膜へ浮き、ゆっくり形を変える。

「止めるな」とロロ。「固まった表面が割れる」

「速度一定」とエリア。

「一拍、二拍、三拍」

 ハルが数える。

「なぜあなたが」とセレナ。

「得意」

「役に立つ」とロロ。

「役ができた」

「数取役」とカイル。

「肩書が弱い」

「事件現場で強い肩書を欲しがらないで」

 九十度。

 青天井の血痕が、元の白鏡床と同じ向きへ再現される。

 血滴の形。

 足を置いた圧。

 滑った方向。

 ロロが青い光を斜めから当てる。

「一個目。踵なし。爪先だけ」

「落下中」とセレナ。

「二個目。右踵が深い。左爪先が外」

「アディルは左足を庇う」

「逆だ」

「三個目」

「両足。歩幅七三。右足首、外へ逃げる」

「ミレイの古傷と一致」

「ただし靴は違う」とロロ。

「違う?」

「ミレイの現用靴は踵三センチ。こっちは一・五。役務靴の高さ補正」

「本人の身長を、役の像へ合わせるため」

「そう。上は幻で同じ高さに見せる。足元は物理だから、靴で差を埋める」

 セレナは単眼鏡を近づける。

 黒い靴跡の縁に、銀粉。

「補正板」

「三種類ある」とロロ。

「ここは」

「中。ミレイ用」

「一個目は」

「高。アディルは役の基準身長より低い」

「アディルは百七十六」とトーヴ。

 折り畳み眼鏡を三枚重ね、名簿を読んでいる。

「役の投影基準は百八十。四センチ補正」

「ミレイは」

「百八十一。靴を低くして投影と合わせる」

「三人目は」

 ロロは別の靴跡を指す。

 血から離れた、鏡柱の裏。

 見落とされていた薄い黒痕。

「補正なし。足幅狭い。踵の外側だけ異常に新しい」

「誰」

「靴だけで名前は出ねえ」

「正直な靴が黙っている」とハル。

「お前が勝手に喋らせるな」

 ロロは透明膜を元へ戻す。

「でも、第一夜の花婿役は、最低三人」

「アディル、ミレイ、未確認の一人」とセレナ。

「セイは?」

「誓紋が出たのは中断後です。第一曲中の保持は未証明」

「本人は受けてないって」

「その証言も記録しています」

「信じる?」

「信頼と立証は別です」

「嫌いじゃない言い方」とリゼ。

 壁へ向けた鏡の陰から口を挟む。

「兄さんは信じると立証を忘れる」

「妹は信じないことを立証だと思う時がある」とユノ。

「今、役の微笑み」

「本人の反論」

「先に言って」

 船内の習慣が、宮廷へ侵入している。

 部分回転を戻す途中、透明膜の北角が一度だけ沈んだ。

「止める」とセレナ。

「止めると血膜が割れる!」とロロ。

「北角、保持力低下」

 補助腕の一本が震えている。

 ロロの右眼側。

 細かな鏡光を長く見たため、弱い右眼の焦点が遅れ、補助腕の距離補正もずれ始めていた。

「視界」とセレナ。

「右一」

「作業前は」

「零」

「交代」

「今抜いたら膜が落ちる」

「交代方法」

「外から同じ角を持つ。荷重を半分ずつ移す」

「誰」

「ハル」

「俺、見るだけ」

「役ができたな」

「弱い肩側へ持たせない」とエリア。

 光路が透明膜の脇へ一本伸びる。

「右手で北角。左肩は身体へ固定。落下物へ手を出さない。私の線から足を出さない」

「役の命令?」

「現場指示」

「本人は」

「無事に戻って」

「了解」

 ハルは膜の縁へ入る。

 世界が九十度ずれた区画では、足元の砂粒が壁へ向かって落ち続けている。透明膜の内側だけが別の下を持つ。

 北角へ右手を伸ばす。

 一。

 二。

 三。

 ロロの補助腕と同時に掴む。

「まだ離すな」とロロ。

「分かってる」

「お前の分かってるは、先に跳ぶ時の合図だから信用ならねえ」

「今日は待つ」

「成長?」

「本人の頼み」

「誰の」

「エリア」

「作業中に恋愛情報を入れんな!」

 荷重が移る。

 透明膜が、紙一枚分だけ傾く。

 白い砂粒が一つ、古い靴跡の窪みから転がった。

 セレナが証羽を飛ばす。

 だが左側から来た粒を、彼女の左眼は捉えきれない。

 単眼鏡を通した右眼が追うまで、一瞬遅れる。

「左、二十センチ!」とハル。

 証羽が方向を変える。

 砂粒の下へ滑り込む。

 受け止めた。

「採取」とセレナ。

「見えなかった?」

「左側の焦点が遅れました」

「痛み」

「二」

「撤退」

「採取後」

「今、採った」

 セレナは反論しようとし、やめた。

「交代します」

「誰と」とハル。

「トーヴ。記録照合だけ。現場観察は右眼が戻るまで休止」

「自分で言えた」とカイル。

「評価は不要です」

「褒めた」

「不要」

 役割分担は、弱い者を外すことではない。

 見えない位置を言い、持てない角を渡し、渡した後も結果へ参加できるようにすることだった。

 ハルは北角を支えたまま、透明膜の向こうを見る。

 第三の靴跡。

 補正なし。

 踵外側が新しい。

 爪先へ体重が早い。

 その横へ落ちた白い粒には、細い黒線が付いていた。

「塗料?」

 ロロが片目で覗く。

「警備靴の縁材」

「断定」とセレナ。

「材料は警備規格。誰の靴かは断定しねえ」

「記録」

 セレナは休止すると言った後も、口で記録を指示する。

 トーヴが脚注札へ書く。

 見る者が交代しても、調査は続く。

 透明膜は元の向きへ戻った。

 証拠の一粒も落とさず。

 ただし、全員が無傷ではない。

 ロロの右眼は休ませる。

 セレナの左眼は冷却する。

 ハルの左肩は使わない。

 事件を解くために身体を壊せば、その身体も事件の被害になる。

 部分回転の記録を封じる前に、宮廷靴庫の管理人が呼ばれた。

 名はバルサ。

 七十を越えた小柄な女で、候補者の顔は覚えず、足の痛みだけを覚えている。

「アディル様は左ふくらはぎが張る。ミレイは右足首。セイは靴を借りない。あの子は自分の靴の中敷きを三度叩いてから履く」

「三人目」とセレナ。

「名前じゃ分からない」

「補正なし。足幅二六前後。右爪先へ強く乗る」

 バルサは、床の拓本へ自分の靴を置き、しゃがむ。

「この歩き方は、次の下を待たない人」

「警備?」とハル。

「警備にも踊り手にもいる。落ちる前に、落ちた後の床へ足を出す」

「半拍早い」

「靴工は拍で言わない。前へ逃げる足」

 彼女は靴庫台帳を開いた。

 人物名ではなく、修理内容で並ぶ台帳。

『左を長くする』

『右踵を柔らかく』

『爪先板、重力予告前の踏み込み用』

『外踵を削り直す。古い摩耗を見せない』

 最後の二行は、同じ注文札から来ていた。

「署名」とセレナ。

「役名。上層重力警備」

「個人名は」

「秘匿注文。警備靴は誰が履くか知らせない」

「修理日」

「第一夜の二日前」

「材料」

「宮廷樹脂が足りなかったから、持込み。白殻骨」

 白い砂粒。

 警備靴の縁材。

 削り直された外踵。

 線は近づく。

 まだ一人の名へは届かない。

「注文を受けた時、変だと思わなかった?」とハル。

「靴は、歩く人が何をするか聞かない」

「でも今、話した」

「撃たれた人が出たから」

「その前は」

「仕事だった」

 バルサは自分の答えを嫌う顔をしない。

 仕事だったことを、無罪にも罪にもしていない。

「次から、用途を聞く?」

「全部聞けば、足を隠したい人が修理へ来なくなる。聞かないままでも危ない」

「どうする」

「危険用の爪先板だけ、使用後に返させる。名前じゃなく枚数を数える」

 完全な監視へはしない。

 完全な無関係にも戻らない。

 靴工の答えは、足元から作る制度だった。