第344話 第四章「一夜目の別人」後編
アディルの靴底には、赤茶の砂があった。
南鏡市ナジャ区の砂。
鉄分が多く、指で擦ると薄い朱になる。
ミレイの靴底には、黒紫の砂。
北回廊の舞踏学校で床材に使う、細かな鏡岩。光へ当てると紫、影では黒。
三人目の足跡には、白い砂が一粒だけ残っていた。
塩ではない。
鏡砂でもない。
「骨粉」とロロ。
「人骨?」とハル。
「言い方! 貝殻骨材。無面回廊の滑り止め」
「無面」
「役籍のない住民区」とトーヴ。「宮廷役へ登録されない者、登録を拒む者、旧戦争で役名を失った家が住む」
「仮面の国に、仮面がない場所」
「ある。ただし名称は住民側の自称ではない。王都行政が付けた」
「誰が嫌う?」
「多くの住民」
「じゃ使わない方が」
「他の共通名がない」
「ないんじゃなく、聞いてない?」
トーヴの眼鏡が曇る。
「脚注を一つ。現地呼称は複数で、統一を拒んでいる。公式文書では便宜上――」
「長い」
「正確です」
セレナは白い骨材を証拠袋へ入れた。
「砂の産地は、人物の所属を証明しません」
「でも行った場所」とハル。
「または靴を置いた場所」
「借りた靴」
「または故意に付けた」
「何でもあり」
「だから、複数の証拠を重ねる」
彼女は三種の靴底拓本を並べる。
高い補正板。
低い補正板。
補正なし。
左踵を逃がす。
右足首を逃がす。
半拍早く爪先へ体重を置く。
「三人目」とハル。
「半拍早い?」
「薄い跡。踵が落ちる前に爪先が強い」
「警備回廊の跡と比較します」
「同じなら」
「警備役の誰かが花婿役を持った可能性」
「犯人?」
「早い」
「分かってる」
「分かっていて言う癖を直して」
「練習」
白い骨材が本当に無登録回廊だけのものか、現場班は歩いて確かめた。
七面宮の下層には、鏡を洗うための裏路がある。
表の客は一度も見ないが、宮殿の全ての像は、その道を通る水と布で磨かれる。
「隠し通路?」とハル。
「公開設備路です」とトーヴ。
「客に公開してない」
「設備図には」
「誰が見る」
「設備担当者」
「じゃ俺には隠れてる」
「あなた基準で世界を隠し通路にしないでください」とセレナ。
鏡洗いの女たちは、靴へ白殻骨を撒いていた。
「滑るから」と一人。
「警備も通る?」
「夜だけ。上層の交代が近道に使う」
「誰が」
「顔は見ない。黒い靴」
白い骨材は、無登録回廊の住民だけを示さなかった。
宮殿へ働きに来る人、下層を通る警備、洗浄布を運ぶ車輪にも付く。
「手掛かりが弱くなった」とハル。
「正確になった」とセレナ。
ロロが床の溝を見る。
「ただし粒の付き方が違う。歩いた奴は爪先と踵へ入る。洗浄車から落ちたなら外側だけ」
三人目の靴跡は、右爪先の溝へ深く詰まっていた。
「自分で歩いた可能性が上がる」
「可能性」とセレナ。
鏡洗いの一人が、古い布袋を持ってくる。
「二日前、警備靴の人が一袋買ったよ。持込み樹脂が足りないって」
「名前」
「役名しか名乗らなかった」
「重力警備?」
「黒い顎の札」
靴工台帳と一致する。
それでも十二人いる。
道を歩けば、証拠は一人へ近づく。
同時に、最初の思い込みから離れる。
捜査とは、狭める作業である前に、誤って狭めた範囲を何度も広げ直す作業だった。
洗浄車の記録も調べた。
車輪には、一周ごとに色の違う水印が付く。
第一夜の三時間前、白殻骨を積んだ車は下層から北鏡柱まで上がり、そこで引き返していた。大広間中央へは入っていない。
「なら、現場で靴へ付いたんじゃない」とハル。
「北鏡柱より前に付着」とセレナ。
「三人目は北側から来た」
「または、その靴だけが来た」
ロロが第三の靴跡を拡大する。
「白粒の上へ金の舞踏砂が一層。大広間へ入る前に白を踏み、入場後に金を踏んだ順だ」
「移した証拠じゃない」
「少なくとも、後から白砂を撒いて警備を装った線は弱くなる」とセレナ。
仮説は、当たるか外れるかだけではない。
強くなり、弱くなり、別の仮説より少し長く立つ。
「捜査って、ずっと『少し』だな」とハル。
「最後まで少しを重ねます」
「最後は百になる?」
「人を裁く時、百と思い込まないために重ねるのです」
一夜目の再現時刻は、四つあった。
大広間の公式鐘。
楽長譜の拍記録。
役渡し鏡の契約時刻。
セレナの証羽。
四つは同じ速さで進まない。
大広間の鐘は、音が鏡へ反射する分だけ場所でずれる。
楽長譜は拍を基準にし、秒を持たない。
役渡し鏡は、受諾完了時に記録する。
証羽は、セレナが見た瞬間を彼女の脈へ同期する。
「時計が四つあると、時間が四つある?」とハル。
「時刻表示が四つ」とエリア。「出来事は一つ」
「前にも聞いた気がする」
「月冠祭の時計で学んだでしょう」
「時計が七分ずれてた」
「今回は、時計が間違っているのではなく、測る対象が違う」
エリアは四本の時間線を路図へする。
第一曲開始。
第一転調。
役移転窓。
光弾。
重力転換。
アディル落下。
ミレイ出現。
ハルは、自分の数えた拍を赤い糸で置く。
「四、五、六、七」
「記憶の確度」とセレナ。
「曲なら間違えない」
「自信ではなく」
「拍は、足で覚えてる。四で右、五で錘、六で傾け、七で落ちた」
「身体記憶。確度二」とセレナ。
「三じゃない?」
「あなたはエリアの足も見ていた」
「なんで知ってる」
「踏んだからです」
「証拠が強い」
エリアは何も言わない。
右眉だけ上がる。
時間線が重なる。
役渡し鏡の受諾完了は、転調六拍と七拍の間。
光弾は七拍目。
「移ったのが先」とハル。
「〇・六拍」とエリア。
「ミレイへ」
「記録上の受諾者名は封印」とトーヴ。
「でも再現像の足は右へ変わった」
「ミレイの歩行特徴と一致する可能性が高い」
「なら、アディルは撃たれた時、もう花婿じゃない」
「残光だけを持っていた」
「襲撃者は、移った後の人を狙わなかった」
「アディル本人を狙ったか、移転を知らなかったか、別の物を狙ったか」とセレナ。
「三つ」
「もっとあります」
「増やさないで」
「事件は減らしてくれません」
カイルが条約箱を見る。
「第二の狙撃は箱へ向いた」
「一度目の弾道を再現する必要があります」とセレナ。
「アディルがいたせいで曲がった?」
「または、アディルが箱を庇った」
「本人へ聞く」
アディルは、右肩を固定したまま、南側の客室で食事を取っていた。
スープ。
乾いた薄餅。
薬。
役務者の食事は、仮面を外すと急に普通になる。
「光を見た?」とセレナ。
「鏡柱の隙間」
「狙い」
「私」
「なぜそう思う」
「私の胸へ来た」
「肩です」
「動いたから」
「どう動いた」
「箱を見た」
「先に?」
「光が見えた。箱の封鎖針が一瞬、消えた」
フリードリヒの封鎖針。
「あなたは箱の前へ入った」
「花婿役の義務」
「その時、もう役は移っていた可能性があります」
アディルの顔が止まる。
「私は役だった」
「誓紋の残光はあった」
「役だった」
「本人として答えて」
「……私は、箱を守った」
「役がなくても?」
「見えたから」
セレナは証羽を伏せる。
「今の答えを記録します」
「役務違反?」
「いいえ。あなたが自分の意思で動いた証言です」
アディルは肩の固定帯を見る。
「花婿役だから守ったと思っていた」
「違いますか」
「分からない」
「分からないと記録できます」
「そんな項目がある?」
「作ります」
制度は、分からない人間を嫌う。
役は、次の動きを決めてくれる。
役が剥がれた後に残る「自分がなぜ動いたか」は、どの契約書にも自動で書かれない。
役割移転記録の閲覧申請は、三度拒否された。
一度目。
候補者保護。
二度目。
外交上の機密。
三度目。
閲覧すれば、役務者の交代順が敵対勢力へ知られ、次の襲撃を助ける。
「今の襲撃を調べないと次を止められない」とハル。
「宮廷側も分かっています」とセレナ。
「なら見せる」
「見せた結果、別の候補が襲われる可能性を恐れている」
「じゃ誰が見る」
「閉幕役、楽長役、王家監査役の三者」
「その三人が犯人だったら」
「制度は、制度を守る者が犯人でないことを前提に作られています」
「一番危ない前提」
「多くの制度がそうです」
トーヴが申請書へ脚注を付ける。
「代案。氏名を伏せ、移転時刻と身体補正値だけ開示」
「身体補正値は個人特定へつながる」と宮廷法務官。
「身長そのものではなく、高・中・低」
「三人しかいなければ特定できる」
「今、三人以上いると証拠が示しています」
「だから危険だ」
「だから必要です」
言葉が鏡の間を回る。
セレナは、相手の言葉を遮らない。
遮らないが、引かない。
「私の証羽を、閲覧室へ持ち込みます。記録を外へ出さない。氏名を見た場合、私自身の証言を本件で使用しない」
「星律官が証拠から降りる?」とカイル。
「必要なら」
「それは駄目」とハル。
「理由」
「セレナが見たのに言えない人になる」
「役割分担です」
「便利な人を一人、黙らせる仕組み」
「便利ではありません」
「じゃ、嫌」
「あなたの好みで」
「事件を解く人が、事件から外れる」
セレナは単眼鏡の縁へ触れる。
左眼は、証羽の記録逆流で傷んだ。
見たものへ責任を負いすぎる身体。
「私一人が見れば早い」と彼女。
「早い道が安全とは限らない」とエリア。
セレナを見る。
「あなたが以前、私へ言ったことです」
「状況が違う」
「違うから、検討する。あなたを証拠の箱へしない案を」
トーヴが新しい脚注札を出す。
「四者閲覧。星律官、鏡史官、候補本人代表、役務者代表。氏名は各自の鏡へ別々に表示し、共通で確認するのは移転数と時刻だけ」
「全員が違う名を見れば、漏洩源を追える」とロロ。
「同時に、誰も完全な一覧を持たない」とエリア。
「申請」とセレナ。
法務官は紙を受け取る。
五分。
十分。
戻ってきた回答は、否。
理由。
閲覧権不足。
「権利が足りない」とハル。
「人数を増やしても」
「役が足りません」とトーヴ。
「必要な役は」
「閉幕役」
「誰が持つ」
「七夜目まで、誰も」
「じゃ七夜終わるまで調べられない」
「正確には、王家が臨時閉幕を宣言すれば」
「宣言しない?」
「外交舞踏会の失敗を認めることになる」
ハルは天井を見上げる。
今は白鏡床が天井。
七面宮では、上と下が曲で変わる。
責任の場所も、役で変わる。
「真実にも、仮面がある」と彼。
「詩的にまとめないで」とセレナ。
「ユノみたい?」
「悪い影響です」
「評価?」
「注意」
役割移転記録は、封印されたまま残った。
だがその日の調査で、一夜目の花婿役が途中で交代したことだけは確定した。
交代は合法。
負傷は現実。
狙いは未確定。
第三の靴は、名を持たない。
事件は一歩進んだ。
名を当てる方向ではなく、人と役を分ける方向へ。