第350話 第七章「二人目の花婿」後編

 七夜続く外交舞踏会〈セブン・マスク〉、第二夜。

 第一夜より観客が少ない。

 第一夜より警備が多い。

 第一夜より、誰もが他人の靴を見ている。

 優雅さは、監視されると奇妙な歩き方になる。

 七面宮大広間。

 白床。

 東壁。

 青天井。

 三つの重力面を結ぶ銀の帯が、今夜は幅広く光っている。落下時の捕捉術を増設したためだ。

 中央の条約台には、婚約条約原本の白銀箱。

 箱の周囲を、三種の権限が守る。

 王家封鎖。

 星律証羽。

 花婿役の近接権。

 最後の一つだけが、踊りながら移る。

「顔を追うな」とセレナ。

「分かってる」とハル。

「仮面像を人物名で呼ばない」

「金仮面一」

「開幕保持者」

「長い」

「間違えるより短い」

「セレナ、冗談うまくなった?」

「事実です」

 楽長オルフェ・ラズが指揮台へ上がる。

 左耳の骨振動片を二度押し、銀の指揮杖を展開する。

 七つの関節が一列へ伸びる。

「第二夜第一曲。『反転庭園』。転調は三回。重力移行、白床から東壁、東壁から青天井、青天井から白床。役移転可能窓、各転調の第四拍から第七拍。窓外の移転は不成立」

 オルフェの声は、昨夜より硬い。

「警備へ。私の指揮を疑え。候補者へ。警備を疑え。観客へ。異常を見たなら、礼儀より先に叫べ」

「楽長へ」とカイルが小声で言う。「自分も疑え」

 オルフェは聞こえたらしい。

「既に疑っている。だから記録鏡を三台置いた」

 拍手が起きる。

 陽気ではない。

 それでも、始めることへの拍手だった。

 仮面を着けたラウドが、花婿役へ署名する。

 金の誓紋が胸から喉へ走る。

 像が整う。

 左右異色の瞳。

 金の頬。

 歴史上の花婿役。

 ラウド本人の砂焼けも、肩の遅れも、顔からは消える。

 靴は消えない。

「開幕保持者、左肩遅れ」とロロ。

 天井側の監査足場で、補助腕二本が記録盤を回している。

「確認」とセレナ。

 ハルは役名を見ない。

 顔を見ない。

 転調までの拍を数える。

 一。

 二。

 三。

 エリアの手を取る。

「役の手?」とエリア。

「俺の手」

「確認」

 音楽が走り出す。

 第一夜より速い。

 安全のために遅くするのではない。

 遅い曲では、重力面の境界に長く留まり、転落事故が増えるからだ。

 政治は、危険を避けるために速度を上げることがある。

 ハルはエリアと白床を進む。

 右。

 左。

 半歩。

 回転。

 足を踏まない。

「成長」とエリア。

「誉めた?」

「観測」

「セレナみたいになってる」

「悪い?」

「少し怖い」

 転調前。

 オルフェの指揮杖が折れ、第四関節だけが上がる。

 役移転窓。

 第四拍。

 花婿役のラウドが、北列の中継鏡へ触れる。

 同時に、ミレイが反対側の鏡へ手を置く。

 金の像は一度も消えない。

 ラウドの右肩遅れが止まり、次の一歩から、右足首を庇うミレイの癖へ変わる。

「一回目」とハル。

「移転成立」とセレナ。

「受諾者ミレイ」とロロ。

 役は合法に渡った。

 第七拍。

 重力が東壁へ移る。

 広間全体が横へ落ちる。

 エリアが槍を出さない。

 今は舞踏で受ける。

 ハルは一、二、三と数え、東壁の銀帯へ足を置く。

 ミレイの花婿役は、右足を浮かせ気味に着地した。

 第一夜と同じ癖。

 第一転調後、東壁の観客列で、一枚の仮面が外れた。

 外れただけなら事故である。

 外れた仮面を見て、隣の外交官が悲鳴を上げた。

 昨日まで交戦していた都市の顔だった。

「敵!」

 短剣が抜かれる。

 抜いた者も、抜かれた者も、重力が横へ移った床で姿勢を崩す。

 ミレイの花婿役が進路を変える。

「止める」と彼女。

 役の声。

 だが右足首は、急停止を嫌う。

 ハルは顔を追わない。

「ミレイ、三歩先で止まれ!」

「命令?」

「足の忠告!」

 ミレイは三歩使って減速する。

 ユノがアルマを鳴らす。

 二人の間へ、白縁を持つ透明な壁。

 壁には、どちらが敵か書かれていない。

 短剣の射程だけが赤く示される。

「武器を置く場所、中央!」とユノ。

 赤い矢印を出しかける。

 白縁が薄くなる。

 リゼがすぐ叫ぶ。

「縁!」

 ユノは矢印を消す。

「選んで! 鞘へ戻す、床へ置く、警備へ渡す!」

 三つの選択を並べる。

 短剣を持った外交官は、警備へ渡した。

 仮面を失った相手は、顔を隠さないまま言う。

「私は今夜、攻撃役ではない」

「役がなければ敵じゃない?」

「本人としても、今ここであなたを傷つけない」

「昨日は」

「昨日の責任は消さない。今夜の刃を増やさない」

 警備が二人を分ける。

 舞踏曲は止まらない。

 止めれば重力境界へ人が滞留する。

 オルフェの指揮杖が、混乱を見ても拍を守る。

「楽長、冷たい」とハル。

「止めないことが救難」とエリア。「でも、止めない人は冷たく見える」

「役の顔」

「本人の痛みは見えない」

 オルフェの左耳の骨振動片がずれている。

 補助楽師が直そうと手を伸ばす。

 彼は首を振る。

 両手を指揮から外せない。

 左耳が聞こえにくいまま、床へ振動を伝えて拍を取る。

 ハルは気づく。

 楽長は半拍先を知っている。

 だが、先に身体を動かさない。

 全員が同じ拍へ届くまで、自分だけ待つ。

 警備は逆だ。

 全員より先に動くことを訓練される。

「オルフェじゃない」とハル。

「何が」とエリア。

「半拍。楽長は先を知ってても、先に踏まない」

「警備は踏む」

「ヴァルドはもっと踏む」

 第二転調の予告音。

 観客の争いは止まった。

 ユノの白縁も戻る。

 ミレイは花婿役のまま、右足首を一度回した。

「痛み」とハル。

「一」

「二回目まで?」

「覚えていた?」

「役じゃなく人を見る練習」

「なら、次へ渡す」

 ミレイがセイのいる列へ向かう。

 本人は二回目を受けると言った。

 まだ一回目である。

 それでも、役の経路は彼女の宣言より先に別の人へ近づいていく。

 第二転調。

 ミレイが、西側候補列へ近づく。

 そこにはセイがいる。

 今夜は候補ではない。

 役籍保護の監査証人として、白い無役面を着けている。

 顔を隠す仮面ではない。

 役を持っていないことを示す仮面。

 ミレイの金仮面が、セイの前を通る。

 第四拍。

 セイは動かない。

 第五拍。

 袖口を一度折る。

 第六拍。

 役渡し鏡の縁へ、指が触れる。

 金の誓紋が移る。

「二回目」とハル。

 ミレイの右足首の庇いが消えた。

 花婿役は、両手の袖を三度確かめる。

 セイ。

 ユノは知っていた。

 ハルの視線が、候補列のユノへ行く。

 ユノは見ない。

 アルマを構え、避難路の共通像だけを奏でている。

 全ての輪郭に白縁がある。

 今のところ、薄くない。

「第三へ渡る」とハル。

「根拠」とセレナ。

「ユノが隠した」

「事実で」

「第一夜、三人目が二回持った。セイは次の役を知ってた。まだ襲撃者じゃない」

「仮説として記録」

 第二転調。

 東壁から青天井へ。

 世界が上へ落ちる。

 観客の悲鳴。

 舞踏靴の一斉着地。

 ハルはエリアの腰へ手を回し、二人で回転して天井へ降りる。

「腰」とエリア。

「役?」

「今は安全動作」

「本人は」

「後で話す」

「了解」

 話を後へ送ることは、逃げることと同じではない。

 後で本当に話せば。

 青天井には、警備役が十二名。

 黒い顎の仮面。

 額に重力線。

 全員が同じ装備。

 全員が同じ訓練。

 その中で、一人だけ、重力が変わる前に左足へ体重を置く。

 半拍早い。

 ヴァルド・ケシュ。

 重力警備主任。

 ハルは顔を見ない。

 胸の役名も見ない。

 足を見る。

「いた」

「誰」とエリア。

「半拍」

 第三転調へ向かう曲が、低くなる。

 オルフェの指揮杖が、第二形へ折れる。

 ここで役を渡せるのは、第四拍から第七拍。

 セイの花婿役が、青天井中央の条約箱へ近づく。

 警備役ヴァルドが、規定通り接近阻止線へ入る。

 警備と花婿。

 二つの役が、同じ場所へ立つ。

 第四拍。

 セイの手が、役渡し鏡へ触れる。

 ヴァルドの手は、警備確認としてその上へ重なる。

「接触」とセレナ。

「監査動作内」とカイル。

 第五拍。

 金の誓紋が、セイの胸から薄れる。

 第六拍。

 ヴァルドの黒い警備紋へ、金線が重なる。

 二つの役は同時には持てない。

 普通なら。

 だが花婿役には、警備役を一時休止して引き受ける特例があった。

 条約原本へ接近する者が、警備確認のため役を受ける古い手続き。

 ヴァルドの警備紋が消える。

 金の花婿誓紋が完成する。

 仮面像が、黒い顎を金の顔へ塗り替える。

 金線が完成した瞬間、七面宮の仕組みがヴァルドを別の人間として扱い始めた。

 警備柵は開く。

 監視鏡は黒い警備対象を失い、金の外交保護対象へ切り替わる。

 天井弓の照準は外れ、代わりに護衛灯が彼の足元を照らす。

「対象分類変更」と警備副官。

 自分の上司へ向けていた拘束具を下げる。

「本人は同じ!」とハル。

「役務上は花婿です!」

「本人確認!」

「花婿役への近接尋問は候補者の同意が必要!」

 エリアが一歩出る。

「同意します」

「候補公女役として?」

「本人として」

「現行規定では無効です」

 本人の声が、役より弱い。

 セイは役を渡した鏡から手を離し、袖口を三度とも伸ばしていた。

 停止合図。

 ハルは見た。

「白! セイが止めてる!」

「移転完了後の撤回は審査対象」とサフィナ。

「今、止めろって言ってる!」

「聞こえています!」

 聞こえている。

 届いていない。

 制度は声を無視しているのではない。

 声を、処理できる時刻まで待機させている。

 その待機時間だけ、ヴァルドは前へ進める。

 警備列が一斉に道を開けた。

 仲間を通したのではない。

 花婿役へ、規定通りの近接権を与えたのだ。

「止めろ!」

 ハルが叫ぶ。

 ヴァルドは振り向かない。

 花婿役として、条約箱へ手を伸ばす。

「停止理由!」と警備副官。

「襲撃者だ!」

「人物指定では役務停止できない!」

「そいつが――」

「今、花婿役です!」

 制度が敵を守る。

 ヴァルドは箱の第一封鎖へ触れた。

 王家封鎖が、花婿近接権を認証する。

 白銀箱が開き始める。

 エリアが地図針へ手を伸ばす。

「候補公女役として、原本接触を拒否します」

 封鎖が一度止まる。

 ヴァルドは初めてエリアを見る。

 金の仮面の下で、声が補正される。

「候補の拒否権は、閲覧後に行使される」

「本人として拒否します」

「本人は、当夜役の権限外です」

 エリアの瞳が冷える。

「本人が役の外?」

「条文上は」

 ヴァルドの左足が、半拍早く次の重力へ備える。

 ハルは走る。

 だが第三転調の第七拍。

 青天井が、壁になる。

 全員が白床へ向かって落ち始める。

 ヴァルドだけが、先に踏み出していた。

 花婿役の近接権を持ったまま。

 条約箱の把手を掴んだまま。

 警備は彼を撃てない。

 封鎖は彼を拒めない。

 仮面は顔を隠していない。

 制度が、襲撃者へ正しい顔を与えていた。