第349話 第七章「二人目の花婿」前編
顔を見張る警備は、顔が変われば破られる。
名前を見張る警備は、名前が変われば破られる。
役を見張る警備は、役そのものが敵へ渡った時、敵を守る。
制度には、善悪を見分ける目がない。
あるのは、条件が満たされたかを数える指だけである。
第二夜の花婿役は、アディルでもミレイでもセイでもなかった。
正確には、開幕時点では。
南鏡都市から派遣された若い外交官、ラウド・エメル。
背が高く、左頬へ砂焼けがあり、両足の長さが同じで、今のところ撃たれていない。
「紹介として最後だけ重要」とハル。
「舞踏会の花婿役としては、最も珍しい長所です」とセレナ。
「不吉な褒め方をするな」
ラウドは金の仮面を手に、警備円の中央で靴を見せていた。
靴底は新品ではない。
踵外側に一週間分ほどの摩耗。
左足の母趾球へ薄い樹脂。
身長補正板はなし。
ロロが四本の補助腕を使い、前後左右から同時に測る。
「歩幅八十二。静止時は右へ三ミリ。踊りは?」
「宮廷式は四年」とラウド。
「癖」
「左回転の時、肩が遅れる」
「自覚あんのか」
「昨日から、靴と癖と傷を十七回聞かれました。自分の身体に詳しくなります」
「役に立つ?」とハル。
「今夜、生きて帰れば」
ラウドの声は乾いている。
恐れていないのではない。
恐怖を外交文へ翻訳する訓練を受けている。
セレナが黒い証羽へ書く。
『第二夜開幕保持者。ラウド・エメル。歩幅八十二。左回転時、右肩遅延。役務靴、補正なし。本人署名、当夜限り。撤回点、各転調前二拍』
「当夜限り」とエリアが確認する。
「はい」とラウド。「第三夜の私へ、第二夜の私が約束しない」
「良い条項です」とカイル。
「王太子が言うと、王位継承拒否に聞こえる」とハル。
「今夜は給仕じゃないから、余計な皿は運ばない」
カイルは軽い礼装の上に、小さな円盾を背負っている。全身を覆う王盾炎は負担が大きい。今夜は、危険が確定した瞬間だけ最小限に出す。
エリアは深青の髪を一つの長い編みへまとめ、銀の地図針を髪飾りへ隠していた。
「隠れてない」とハル。
「武器であることは隠していません。礼装に合わせただけです」
「その髪飾りで壁切れる?」
「壁を切る必要があるなら」
「床は」
「床も」
「父親に聞かせられない」
「聞こえている」
背後からフリードリヒの声。
ハルは振り返らない。
「今のは役の台詞?」
「本人の注意です」とエリア。
「悪化した」
今夜、エリアは候補公女役へ入る。
ただし、第一夜の継続ではない。
第二夜だけ。
第一曲から第三曲まで。
第三曲の終止で自動失効。
次夜への推定同意なし。
個人会話を婚約受諾と解釈しない。
舞踏上の接触を身体的同意へ拡張しない。
条項は増えた。
安全は、言葉を増やすことで作られる場合がある。
言葉が増えすぎて、読む前に署名させることで壊れる場合もある。
「全部読んだ?」とハル。
「三版比較しました」
「俺は二行目で迷子」
「迷った箇所を言って」
「全部」
「では一つ。今夜、私の舞踏相手を務める?」
エリアは正面から聞いた。
候補公女役の声ではない。
父へ見せる公式姿勢でもない。
「本人の頼み?」
「本人の頼み」
「やる」
「即答」
「そこは迷わない」
「では、足を踏まないで」
「役の命令?」
「本人の願い」
「努力する」
「成功を約束して」
「無理」
「正直すぎる」
エリアの口元が、ほんの少し上がった。
フリードリヒは五秒黙った。
その五秒の中で、娘の選択を止める理由と、止めた場合に失うものを計算している。
「撤退条件」と公爵は言う。
「第三射、条約箱への接近、警備役の権限異常、候補者の同意撤回。いずれか一つで舞踏会を停止」
「役移転そのものは」とセレナ。
「合法。停止理由にできない」
「合法な手順で襲撃者が入る可能性」
「承知している」
「それでも」
「合法な手順を全て止めれば、誰が仕組んだか分からない。今夜は、止める準備をした上で動かす」
ハルはフリードリヒを見る。
守るために閉じる男が、今夜は閉じない。
変わったのではない。
閉じることで危険が増えると理解したのだ。
「エリア」とフリードリヒ。
「はい」
「退く判断を、私へ委ねる必要はない」
「分かりました」
「しかし、退く時は知らせなさい」
「命令?」
エリアが聞く。
フリードリヒは、また五秒使った。
「父親の頼みだ」
「分かりました」
今夜の舞踏会は、役の台詞と本人の頼みを分ける練習場にもなっていた。
開幕前、全員は「止める言葉」を一つずつ決めた。
宮廷の非常停止語は長い。
『共同条約安全条項第五項に基づき、当夜役務の一時凍結を申請する』
「落ちてる最中に言えない」とハル。
「では短縮句を」とサフィナ。
「止めて」
「誰が何を」
「全部」
「広すぎます」
結局、役務停止は「白」。
身体接触の停止は「手」。
会話の停止は「待つ」。
重力舞踏そのものの停止は三重鈴。
「言えない時」とエリア。
各自、身体合図も決める。
ラウドは左靴の輪結びをほどく。
ミレイは右足を二度鳴らす。
アディルは使える左手を胸へ置く。
セイは袖口の三つ折りを全部伸ばす。
「それ、普段の癖と逆?」とハル。
「普段は三度折る。伸ばしたら止めて」
「覚える」
「役じゃなく」
「本人の合図として」
セイは少しだけ頷いた。
ユノの合図は、演奏を止めることだった。
「音が止まると、重力曲と区別できない」とオルフェ。
「では、弓を上へ」とリゼ。
「指揮と似る」
「弦を押さえない」
「観客から見えない」
「兄さん、自然な停止まで演出しないで。アルマを床へ置く」
「楽器を床へ?」
「止まりたい人が、見栄えを優先しない」
ユノは苦い顔をする。
「分かった」
「分かった顔」
「本当に難しい」
エリアは、自分の停止合図を最後まで決めなかった。
「言葉で言う」と言う。
「言えない時」とハル。
「あなたが呼吸を数えて」
「勝手に止める?」
「二になったら、本人へ聞いて。返事がなければ、舞踏役を止める。私の移動そのものは、危険なら続ける」
「細かい」
「役を止めることと、人を動けなくすることは別です」
非常時の短い言葉を決める作業は、縁起が悪いと嫌われる。
だが「止めたい時は止められる」と知ることは、始める勇気の一部だった。
第二夜の役務説明は、円卓ではなく、靴棚の前で行われた。
ラウド。
ミレイ。
セイ。
アディル。
花婿役を持った者、持つ予定の者、持ったと争っている者、持たなくなった後に撃たれた者。
同じ役名へ並べられると、四人は似ていなかった。
アディルは右肩を吊っている。
ミレイは右足首の固定帯を二重にした。
セイは白い無役面を膝へ置き、袖口を三度折る。
ラウドは靴紐を左右で別の結び方にしていた。
「なぜ」とロロ。
「間違えられないため」とラウド。「左は平結び、右は輪結び」
「仮面像から見えねえ」
「見える人にだけ見えればいい」
「自分?」
「自分が、今どちらの足へ力を入れているか」
ラウドは左靴を指した。
「役に入ると、顔も声も高さも変わる。昨日の映像を見たら、自分の歩き方まで分からなくなった。だから、足へ戻る印がいる」
ハルは赤いマフラーへ触れる。
同じ理由だった。
「役が変わっても、本人へ戻る物」とハル。
「あなたはそれ?」
「これ」
「危険だから外せと言われたら」
「短くする」
「妥協が似ている」
アディルが薄餅を片手で割る。
「私は役へ戻らない」
全員が見る。
「第二夜、緊急継承資格を返却した。肩のためではない。私が昨日、役を守ったのか、自分で箱を守ったのか分からないまま、もう一度役へ入れば、次も役のせいにする」
「怖い?」とハル。
「役がなくても同じことをする自分が、少し」
「善いことなのに」
「善いことをする自分を疑わなくなれば、誰かへ同じ善を強いる」
ユノがアディルを見る。
「その言葉を借りていい?」
「誰へ」
「僕へ」
「借りた記録を残すなら」
「残す」
ミレイが固定帯の金具を締める。
「私は二回まで受ける。三回目は断る」
「なぜ二」とセレナ。
「一回目は仕事。二回目は緊急。三回目は、私が便利だから回される」
「回数で本人の限界を決める」
「役は疲れない。人が疲れる、と殿下が言った」
「兄さんの良い言葉、珍しい」とリゼ。
「本人の前で珍しいを付けないで」とユノ。
セイは、何も言わない。
セレナは待つ。
発言順を与えられた沈黙を、発言拒否と決めない。
やがてセイが言う。
「僕は受けない」
「今夜の意思として記録」とセレナ。
「もし誓紋が出ても」
「あなたの申告と誓紋を別々に記録します」
「役は成立したと言われる」
「成立の有無と、強要・錯誤・本人拒否を分ける」
「分けた後、どうなる」
「すぐ答えられません」
「正直」
「事実です」
セイは袖口を一度ほどく。
「僕が役を受けないせいで、箱が危なくなったら」
「箱を守るのは、あなた一人の役ではない」とエリア。
「候補が言うと、きれい」
「きれいに聞こえることを理由に、否定しないで」
「信じろって?」
「信じなくていい。役割表を見て」
エリアは机へ紙を置く。
箱の王家封鎖。
星律証羽。
警備輪。
候補拒否権。
花婿近接権。
「一つが抜けても、全部は抜けないようにする」
「昨日、抜けた」
「だから今夜、抜けた場所へ人を足す」
「僕を?」
「あなた以外を」
セイは初めて、紙へ手を置いた。
受諾ではない。
確認。
「僕がいなくても守れる?」
「守る」とカイル。
「王子の約束?」
「盾役の計画。本人としては、失敗しないとは言えない」
「正直な王子、珍しい」
「今夜二回目」
小さな笑いが起きた。
誰も安心したわけではない。
ただ、怖がっている人が、自分だけではないと分かった。