第348話 第六章「自然な即興の稽古」後編

 同じ頃。

 七面宮から遠く離れた空で、ミラ・ベルウェザーは道を買おうとしていた。

 自由港の救難路〈フリー・ライン〉は、署名できない者でも使える。

 使った後、名前を書ける者は書く。

 書けない者は荷札を一枚置く。

 何も置けない者は、そのまま行く。

 救命を先にする制度は、正しい。

 正しい制度は、無料ではない。

「一季、東風路を借りる」とミラ。

 空へ張り出した仮設卓の上に、銀貨、修理券、救難用帆布、三つの港の通行保証札を並べる。

 向かいに座るガンガ・オルバは、角の根元へ小さな木札を結んでいた。

 七地域の群れが、それぞれ違う拍で移動していることを忘れないための札である。

「道は貸せない」

「所有者は?」

「歩く者」

「全員へ払う」

「今日歩く者と、明日生まれる者が違う」

「生まれる前の契約は無理」

「だから買い切れない」

「買い切りじゃない。一季」

「一季の途中で、群れが戻るかもしれない」

「戻る時は通知」

「通知できない群れもいる」

「煙、鈴、足跡」

「音を出せない幼獣もいる」

「じゃあ、何なら決められる」

 ミラの義足が卓の下で一度鳴った。

 苛立つと、足首継ぎ手を外側へ逃がす癖がある。

 ガンガは返事を急がない。

 以前なら急いだ。

 群れの全ての鼓動を聞き、最も大きな合意へまとめていた。

 今は、聞こえない拍があることを先に数える。

 卓の横で、ネム・オルバが干し果実を一つずつ検品していた。

「兄さん」とネム。「聞いてない群れがいる」

「どこ」

「南の薄脚群」

「代表は来てない」

「来ないのが答えだと思った?」

 ガンガは黙る。

 沈黙は賛成ではない。

 この言葉は、空域を越えて流行し始めていた。流行語は、使われすぎると意味を失う。だが、意味を失うまで使われる前に、誰かの生活を一つでも救えばよい。

 ミラは銀貨を一枚、卓から下げた。

「薄脚群の道を外す」

「外した道へ、救難船が入れない」とネム。

「求められてない」

「求める声を出せない時は?」

「無署名救難」

「通過権は?」

「救命を先にする」

「救命かどうか、誰が決める」

 ミラの顔が止まる。

 買えない道。

 署名できない利用者。

 沈黙する群れ。

 どれも、契約の外へいる。

「一回ごと」とミラが言った。

「何が」とガンガ。

「道を一季借りない。通るたび、前へ合図を出す。返事がなくても、群れの跡が新しければ止まる。救難時だけ入る。入った理由と費用は後で公開。次の通行を当然にしない」

「毎回、交渉?」

「面倒」

「嫌そう」

「嫌だよ。だから役に立つ。便利な契約は、誰かの返事を省く」

 ガンガは木札を一つ外し、卓へ置いた。

「歩く者が、道を持つ」

「持ち続けない」

「通った後、返す」

「返した証拠は」

「次の者が止められること」

 ネムが干し果実を三つに分ける。

「試すなら、小さい群れから。薄脚群は最後」

「なぜ」とミラ。

「あなたたちが失敗しても逃げられる群れから」

「信用されてない」

「信用は、最初に払う金じゃない」

 ミラは笑った。

「高い」

「値段を付けないで」

 その交渉は、成立しなかった。

 代わりに、一度だけ試す許可が出た。

 制度というものは、成立した条文より、成立しなかった言葉の周囲で育つことがある。

 交渉の報告は、伝羽ではなく、値札の裏へ書かれて届いた。

 ミラらしい。

『道は買えなかった。一回だけ通る。次も同じ条件だと思うな。――費用未定』

 ガンガの追記。

『返事をしない群れを、賛成へ数えない。待つ時間も通行時間へ入れる』

 ネムの追記はさらに短い。

『二人とも、まだ速い』

 ユノは三枚の文を、第二夜の台本の横へ置いた。

「関係ある?」とリゼ。

「直接はない」

「なら、事件を遠くの友達に解かせないで」

「解かせない。自分への注意にする」

「何を」

「返事を待つ時間を、作戦時間へ入れる」

「今まで入れてなかった?」

「政治の予定表では、同意は一行なんだ。説明、質問、沈黙、撤回を入れると一行で終わらない」

「予定表が間違ってる」

「そうだね」

 ユノは、第二夜の候補者控室予定を一つずつずらした。

 衣装確認、十分。

 役文確認、十五分。

 質問、十五分。

 返事を保留する時間、十五分。

 撤回後の退出路確認、十分。

「舞踏開始に間に合わない」とトーヴ。

「遅らせる」

「宮廷は嫌う」

「僕も嫌う」

「なぜ入れる」

「嫌だから必要かもしれない」

 リゼは兄の横顔を見る。

「自然な即興を稽古するのも、待てないから?」

 ユノはすぐ答えなかった。

 幼い頃、宮廷では、驚く順番まで教えられた。

 贈り物を見て喜ぶ。

 相手の家紋を確認する。

 価値を推測しない。

 他の贈り物と比べない。

 贈り主へ視線を戻す。

 自然な喜びには、五つの手順があった。

 泣く時も同じだった。

 悲しみを否定しない。

 公衆の不安を増やさない。

 誰かへ責任を推定しない。

 次の行動が可能であることを示す。

 人は役を演じるうち、感情そのものまで役の持ち物だと思い始める。

「待っている間に」とユノ。「相手が僕を嫌うかもしれない」

「嫌われたくない?」

「当然」

「王子の答えじゃない」

「本人」

「先に言って」

「君まで」

 リゼは、値札の裏の『費用未定』を指で弾いた。

「嫌われない方法を先に作ると、相手が嫌う時間を盗む」

「厳しい」

「家族評価」

 ユノは候補者予定の『返事を保留する時間』へ、さらに一行足した。

『沈黙中、候補者の前で期待する顔を作らない』

「それ、できる?」とトーヴ。

「稽古する」

「また稽古」

「自然に待つため」

「矛盾」とリゼ。

「僕の生活だよ」

 それでもユノは、鏡の前で待つ顔を三つ作った。

 一つ目は、穏やかすぎた。

 二つ目は、悲しそうだった。

 三つ目は、何も期待していないように見えた。

「全部、返事を誘導する」とリゼ。

「ではどうする」

「顔を外へ向ける」

「失礼」

「相手が決める間、譜面を見る」

「逃げているように」

「待ってると言えば」

「言葉で?」

「役じゃなく」

 ユノは鏡から離れた。

「待っています。急がなくていい」

「それでいい」とリゼ。

「簡単」

「だから難しい」

 自然さを設計する男が、初めて自然に見せることを諦めた。

 昼食だけは、予定表へ入っていなかった。

 ユノは時間を十五分ずつずらした結果、自分の食事を消していた。

「目的が良いと身体が無料になる制度」とリゼ。

「今、取る」

 運ばれたのは、酸葡萄の冷製スープと、砂麦の薄焼き。

 ユノは一口飲み、眉を寄せた。

「塩が多い」

 給仕が青ざめる。

「殿下、作り直しを」

「違う。嫌いではない。汗をかいた後なら良い。今は耳鳴りが強くて、塩味が尖る」

「お下げしますか」

「薄められる?」

「水で」

「では、それを選ぶ」

 リゼが面紗の下で笑う。

「食事の感想だけは演出しない」

「身体が先に顔を作る」

「外交でもそうすれば」

「条約相手をスープみたいに薄められない」

「薄めるのは説明じゃなく、王子の演出」

 トーヴが脚注札へ何か書く。

「記録しないで」

「食事記録ではありません。予定表へ休憩を追加」

「僕一人のために遅れる」

「一人が食べない予定は、後で全員の判断を遅らせます」

 ユノは薄めたスープを飲む。

「今は?」とリゼ。

「ちょうどいい」

「本人の感想」

「本人」

 自然な顔を稽古しなくても、塩の多いスープは王子から役を少し剥がした。

 夜。

 第二夜の開始まで、あと四時間。

 ユノは七面宮の衣装鏡前で、三種類の笑い方を稽古していた。

 一つ目は、偶然会えて嬉しい笑顔。

 二つ目は、会うと分かっていたが嬉しい笑顔。

 三つ目は、会いたくなかったが政治上嬉しい笑顔。

「三つ目、怖い」とハル。

 扉にもたれて見ていた。

 ユノは鏡越しに返す。

「入るなら、音を立てて」

「立てた」

「君は歩く音が事件の時だけ小さい」

「事件中だから」

「私室へ忍び込むことも事件に含める?」

「扉、開いてた」

「リゼが閉め忘れた」

「リゼは閉め忘れない」

「では、僕が開けておいたのかもしれない」

「どっち」

「自然な即興」

「稽古した?」

「三案」

 ハルは鏡の横へ立つ。

 ユノの右手薬指に細い固定帯が巻かれている。

 耳鳴りが強い時に触る左耳の後ろへ、今日は指が行かない。

「セイと何を話した」

「本人が話してよいと言った範囲では、役の移転が転調に限られること」

「それ、もう規約にあった」

「規約の運用を確認した」

「次の役を知ってる?」

 ユノは鏡の中で笑いを一つ捨てた。

「誰が」

「ユノ」

「僕は花嫁候補役」

「役じゃなくて本人へ聞いてる」

 鏡の中の左右異色の目が、ハルを見る。

 ハルは続けた。

「次に花婿役を持つ人を知ってる?」

「知っている可能性がある」

「それ、知ってる人の言い方」

「知らない人も、可能性は持つ」

「言葉で逃げるな」

「走って逃げたら君に負ける」

「そういうの」

 ハルの左肩が小さく回る。

 痛みはもう強くない。

 緊張の癖だけが残っている。

「誰かを守ってる?」

 ユノは、すぐに答えなかった。

 五秒ではない。

 フリードリヒのように条件を計算する沈黙でもない。

 音楽の休符に似ていた。

 次に鳴らす音を、既に決めている休符。

「守りたい」とユノ。

「その人だけ?」

「違う」

「じゃあ言え」

「言えない」

「言わない?」

「今は」

「今夜、また撃たれたら」

「止める」

「どうやって」

「別の証拠で」

 ハルは一歩近づく。

「俺、同じことを聞いた気がする」

「誰から」

「知らない。ユノが誰かへ言った顔してる」

 ユノの笑顔が、完全に消えた。

「君は時々、方向より顔の方がよく分かる」

「方向をなくした分」

「便利な交換ではない」

「分かってる」

「僕も、分かっている」

「何を」

「隠すことが、守ることと同じではない」

「なら」

「それでも隠す」

 その言葉だけは、役の台詞ではなかった。

 ハルは怒る。

 怒りは、声を大きくするより先に、息を短くした。

「俺たちを使うな」

「使う」

 ユノは否定しなかった。

「君は顔でなく拍を見る。エリア殿は経路を測る。セレナ殿は証拠を分ける。ロロ殿は靴を読む。僕一人より、止められる可能性が高い」

「それを、何も言わずに?」

「言えば、君はその人を守ろうとする」

「当たり前だ」

「だから、襲撃者にも読まれる」

「俺の当たり前を、勝手に計算へ入れるな」

「入れた」

 ハルの手が握られる。

 殴らない。

 殴る相手ではない。

 殴れば分かりやすくなる場面ほど、人間関係は分かりにくい。

「失敗したら」とハル。「その人だけじゃない。ユノも、俺たちも、傷つく」

「知っている」

「知ってる顔で言うな」

「どういう顔なら許される?」

「許される顔を稽古するな」

 ユノは、鏡へ向けていた身体をハルへ正面から向けた。

「では、許されないまま言う。僕は襲撃者の次の役を知っている」

 ハルの呼吸が止まる。

「誰」

「言わない」

「なぜ」

「言えば、強要された候補が先に罪人になる」

 候補。

 セイ。

 名前は出ない。

 だが、思い浮かぶ。

 ハルはそれを口にしなかった。

「襲撃者は、その人じゃない」

「そう考えている」

「次の役を持つ人が襲撃者でもない?」

「役は、さらに渡る」

「どこで」

 ユノは窓の外を見る。

 七面宮の鐘が、第二夜の予告を一つ鳴らした。

「転調で」

「誰へ」

「言わない」

「ユノ」

「僕を信用しなくていい」

「それ、楽な言い方だ」

「そうだね」

「信用されない方が、失敗した時に傷つかない」

 ユノの右手が、アルマのケースへ触れる。

「傷つくよ」

 小さい声だった。

「信用されなくても」

 ハルは返事をしなかった。

 鏡には二人が映っている。

 一人は、言わないことで誰かを守ろうとしている。

 一人は、聞き出すことで全員を守ろうとしている。

 どちらも、自分の方法だけが最も安い犠牲だと思っていた。

 第二夜まで、あと三時間五十二分。

 襲撃者の次の役を、ユノは知っている。

 そして、その事実を知っている者が、もう一人増えた。