第347話 第六章「自然な即興の稽古」前編

即興とは、準備していないように見せるための準備である。

 この定義を嫌う芸術家は多い。

 この定義を必要とする政治家は、もっと多い。

 人前で転びそうになった子供へ、たまたま差し出される手。

 荒れた会議で、偶然に鳴る一音。

 敵対する二人が同時に笑える、よく出来た言い間違い。

 それらが本当に偶然なら、美しい。

 偶然でなくても、美しく働くことはある。

 問題は、美しさが働いたあと、誰が選んだことになるのかだった。

 ユノ・ヴァレントは、空の椅子を三度救った。

 一度目は、椅子が倒れる前に右手で背を掴んだ。

 二度目は、倒れた後に左足で脚を止めた。

 三度目は、椅子を救わず、隣の花瓶だけを抱えた。

 どの椅子も倒れなかった。

 音で共通幻像を奏でる術〈ファントム・カデンツァ〉によって作られた、倒れる予定の椅子だったからである。

「三つ目が一番自然」とリゼ。

 七面宮の北練習廊。

 朝の鏡砂はまだ低く、細長い窓の向こうで銀色に波打っていた。床は通常重力へ固定されている。壁には舞踏会で使われる五十六種の礼役が、仮面ごとに吊られていた。

 ユノは白いヴァイオリン、アルマから弓を離す。

「花瓶を見捨てたように見えない?」

「椅子を見捨てた」

「同じ意味では」

「椅子は人じゃない。人だったら、三つとも不自然」

「なぜ」

「ユノは本番で転ぶ人を見たら、練習より速く動く」

 リゼは薄墨の面紗の端を三角に折った。

「だから練習した自然さが壊れる」

「僕の努力を、性格の欠点で無効にしないでほしい」

「長所で無効にしてあげた」

「そちらの方が修正しづらい」

 トーヴ・セルは壁際の長椅子で、分厚い折り畳み眼鏡を一段だけ開いていた。膝の上には、第二夜の進行台本が三冊ある。

 公開版。

 候補者版。

 警備版。

 同じ舞踏会が、読む者の役によって三種類の順番を持っている。

「第四案を提案します」とトーヴ。「自然な救援を作らない」

「脚注としては大胆だね」

「本文へ昇格させてもよい」

「外交舞踏会で、何もしない?」

「何もしないことと、相手の判断を待つことは別です」

 ユノはアルマの第一弦を軽く弾いた。

 倒れる椅子が、四つ現れる。

 すべての輪郭に白い縁がある。

 幻であることを示す白縁〈ステージ・エッジ〉

 右の椅子は、誰かが支えれば止まる。

 左の椅子は、触れれば崩れる。

 中央の二つは、互いへ倒れて支え合う。

「見た人は、どれを救う?」とユノ。

「白縁があるから、救わない」とリゼ。

「本物の危険へ重ねた場合」

「ユノの見せ方を疑う」

「君は最初から僕を疑うので、標準例にならない」

「誉め言葉?」

「家族評価」

 ユノは弓を引く。

 椅子の一つへ、赤い矢印が現れた。

 推奨行動を示す矢印。

 その瞬間、白縁が薄くなった。

 銀白だった輪郭が、床の光へ溶けかける。

 ユノの右手薬指に、細い痛みが走る。

 弓が一度だけ震えた。

 リゼがすぐ近づく。

「薄い」

「分かっている」

「分かってる人は、もう一回やらない」

「確認した」

「確認という言葉は、失敗を再演する許可じゃない」

 ユノは矢印を消した。

 白縁が戻る。

 争いを止めるための共通像なら、アルマは安定する。

 未知を未知として示し、危険の位置だけを共有し、見る者が自分で選べる余白を残すなら、なおさら安定する。

 だが、右へ行け。

 この手を取れ。

 この人を信じろ。

 選択を一つへ寄せるほど、幻と現実の境界は薄くなる。

 術が強くなったのではない。

 術者が、相手の現実へ入り込みすぎた徴候だった。

「第二夜は」とトーヴが台本を閉じる。「候補者の救援演出を削除します」

「僕が偶然、エリア殿の進路を開く場面?」

「三案とも削除」

「三案あることを記録へ残さないで」

「既に版番号を付けました」

「消せる?」

「消しません」

「家族より厳しい」

「史官です」

 廊下の入口で、小さく咳払いがした。

 ユノは振り向く。

 セイ・ハルファが立っていた。

 白灰の短い髪。

 袖口を三度折った礼服。

 昨夜、花婿役の誓紋が本人の否定と同時に浮かび、受諾争いの保護区画へ移された若者。

 今日は誓紋がない。

 それでも、胸元を隠すように片手を置いている。

「一人で話したい」とセイ。

 誰へ向けた言葉かは、明らかだった。

 リゼがユノを見る。

「一人は危ない」

「僕が?」

「二人とも」

 セイの肩がわずかに上がる。

 ユノはアルマをケースへ入れないまま、弓だけを置いた。

「リゼは窓の外。トーヴは扉の外。音は聞かない。僕が二回壁を叩いたら入る。それでいい?」

 セイは頷く。

 リゼは頷かない。

「三回」

「二回」

「二回は偶然に似る」

「三回は緊急に聞こえない」

「二、間、二」

「長い」

「生きてる方がいい」

「採用」

 二人が出る。

 扉は完全には閉めなかった。

 指一本分の隙間を残す。

 自然に見える即興より、人工的に見える安全の方がよい時もある。

 セイは椅子へ座らなかった。

 壁に吊られた仮面を、順番に見ている。

「どれが嫌い?」とユノ。

「全部」

「正直で助かる」

「正直を褒める人は、次に詳しく話せと言う」

「話さなくていい」

「その言い方で、話したくさせる」

「では訂正する。僕は聞きたい。君が話した範囲だけを使う。話さない範囲を推測で埋めない。ただし、誰かの命が今夜危険なら、その危険だけは止めたい」

 セイは初めてユノを見る。

「長い」

「短くすると、抜ける条件がある」

「王族みたい」

「残念ながら」

「残念そうに言えるのも、王族だけ」

 セイは袖口を一度ほどいた。

 また折る。

 一回。

 二回。

 三回。

 呼吸を整える癖だった。

「昨日」とセイは言う。「僕は、花婿役を受けた」

「誓紋はそう示した」

「受けたくなかった」

「両方、本当になり得る」

「なら、どっちが本人?」

 ユノは答えない。

 サリフの役籍法では、役務契約は同意の形式を重んじる。

 口頭。

 署名。

 仮面への接触。

 定められた拍の中での受諾動作。

 脅されていても、形がそろえば契約は成立する。

 脅迫が立証されれば、後から取り消せる。

 後から。

 この二文字ほど、危機の最中に役に立たない言葉はない。

「役渡し鏡へ手を置いた」とセイ。「置かなければ、弟の役籍を消すと言われた」

「弟は」

「名前を出さないで」

「出さない」

「僕は役籍がない。弟だけ、食糧配給のために仮登録した。僕が断れば、仮登録の理由を調べる。住んでる区画も分かる。そう言われた」

「誰に」

 セイは壁の警備仮面を見る。

 黒い顎。

 額に重力線。

「役名でしか知らない」

「顔は」

「仮面」

「声」

「補正されてた」

「歩き方」

 セイの目が動く。

「早かった」

「走った?」

「違う。床が変わる前に、もう次の床へ体重を置いてた」

 半拍早い。

 ユノの中で、昨夜の警備列が並ぶ。

 重力警備主任ヴァルド・ケシュ。

 他の警備員より、変化へ備えるのが半拍早い立ち方。

 だが、証言は名前ではない。

 癖である。

 癖は証拠になり得るが、癖だけで人を犯人にしてはいけない。

「その役は、今夜も動く?」

 セイの指が袖口で止まる。

「第二夜の転調」

「何拍目」

「曲ごとに違う」

「次に誰へ渡る」

「言えない」

「分からない?」

「分かる」

「なら」

「言えば、僕が契約を破る」

「破った罰は」

「弟の仮登録が消える」

「その条項も脅迫で無効にできる」

「後から?」

 ユノは口を閉じる。

 セイは笑わなかった。

「王子でも、後からなんだ」

「僕が今、保護を出す」

「その保護は、いつまで?」

「必要な限り」

「誰が必要を決める」

 また、答えが長くなる問いだった。

 ユノは椅子の幻を消した。

 空だった場所が、本当に空になる。

「君が決められる形を作る」

「作るまで」

「僕が隠す」

 言った瞬間、アルマの弦が一つ、かすかに鳴った。

 触れていない。

 共鳴だった。

 選択を誘導する時に薄くなる白縁と同じように、嘘へ近づいた術者の楽器は、本人より早く緊張を知る。

「何を」とセイ。

「君の名前と、君が立っていた経路」

「捜査から?」

「全てからではない。危険を止めるために必要な範囲は出す。君が強要されたことは、君の許可なしに公開しない」

「それで犯人を捕まえられる?」

「別の証拠で」

「なかったら」

「探す」

「間に合わなかったら」

「間に合わせる」

「それ、答えじゃない」

「約束だ」

「約束の方が危ない国で?」

 ユノは自分の右手薬指を見る。

 古傷が、弓を持たない時にも疼いていた。

「だから、条件を付ける。君の保護と、他の候補の生命が両立しないと僕が判断した場合、危険の位置だけを共有する。君の名は出さない。判断理由を記録し、後で君へ見せる。僕一人で決めたことも隠さない」

「自然な即興みたいに?」

「不自然な独断として」

 セイは三度折った袖口を見た。

「僕は、次の役を知ってる」

「うん」

「言わない」

「うん」

「でも、曲は変わる」

「転調で」

「楽長が指揮する」

「オルフェ殿が」

「指揮した曲の中でしか、渡せない」

 ここまでは話せるらしい。

「役を受ける相手は、楽長?」

「違う」

「警備?」

 セイは答えない。

 沈黙は賛成ではない。

 ユノはその教訓を、もう何度も聞いてきた。

 それでも人は、自分が欲しい答えの形へ沈黙を削りたくなる。

「分かった」とだけ言った。

 分かった内容を、説明しない。

 セイは扉へ向かう。

「僕を守るために、誰かが傷ついたら」

「君の責任にはしない」

「それも、僕が決める」

 扉が開く。

 リゼが入ってきた。

「二、間、二がなかった」

「無事だった」

「無事は結果。手順を守って」

 セイはリゼを見る。

「この人、いつもこう?」

「ユノはもっとひどい」とリゼ。

「僕を基準に会話を始めないで」

「自然」

「稽古してない自然は刺さるね」

 セイは、ほんの少しだけ口元を動かした。

 笑ったのではない。

 笑わないことを、やめかけた。