第353話 第九章「襲撃者の拍子」前編
作戦とは、勇気を順番へ変える技術である。
誰が先に走るか。
誰が最後に退くか。
何を失ったら中止するか。
誰の命令なら断ってよいか。
順番を書かない勇気は、しばしば一番弱い者を先頭へ押し出す。
「役割、期限、撤退条件」
セレナが言う。
臨時調査室の机から菓子も椅子も撤去され、代わりに七面宮の立体図が置かれていた。
白床。
東壁。
青天井。
重力移動ごとに、それぞれが廊下、壁、床へ変わる。
条約原本の白銀箱は、一時間三十分後、自動移送へ入る。
目的地は天井中央保管庫。
経路は警備分割通知。
「役割、俺」とハル。
「それは人物名」とセレナ。
「走る」
「曖昧」
「箱へ行く」
「警備と衝突する」
「必要なら」
「必要の判断者」
「エリア」
エリアが顔を上げる。
「私?」
「道を見るから」
「あなたの身体判断は、あなた」
「じゃ、道はエリア。肩は俺」
「左肩の痛み四以上で撤退」
「三」
「四」
「三・五」
「整数で」
「じゃ四」
「交渉成立」とカイル。
「恋愛の次は医療まで市場化」とロロ。
「市場じゃない」
「ハルが値切った」
「自分の痛みを安売りするな」とカイル。
「王太子に言われたくない」
「その反論は正しい」
セレナの証羽が続ける。
「エリア」
「移送路を光路化。攻撃曲線への転換は、警告後。踵の痛み四、呼吸困難二で停止」
「二は低い」とハル。
「私の呼吸は、一から三です」
「基準が違う」
「だから数値だけで比べない」
「今、俺が言ったこと返された?」
「本人の教育」
エリアの言い方は硬い。
だが、指示口調になった時、自分の頼みが隠れることを彼女はもう知っている。
「ハル」と改めて言う。
「何」
「私が止まったら、地図を持って先へ行って」
「役の命令?」
「航路士としての判断。本人の頼みでもある」
「分けて」
「航路士としては、地図を持って先へ。本人としては、戻ってきて」
「両方やる」
「矛盾」
「順番で解く」
セレナは何も言わず、その言葉を証羽へ書いた。
「カイル」
「条約箱の防護。王盾炎は局所使用。背中の痛み三で交代」
「交代相手」
「フリードリヒ公の封鎖針」
「人ではありません」
「俺の盾を人へ渡せない」
「では、交代でなく箱を固定」
「了解」
「ロロ」
「移送機構と重力路の修理。喘息発作、右目の視野欠落、補助腕二本停止のどれかで下がる。修理代は宮殿」
「最後は撤退条件?」
「絶対条件」
「記録」
「ノクス」とハル。
黒い小獣は机の下から顔を出す。
「七つから一つ選ぶ」
「命令になっていません」とセレナ。
「選びたくなったら選べ」
「人へ適用しない」
「嘘判定に使わない」
「危険へ近づけない」
ノクスは欠伸をした。
「一番自由」とカイル。
「一番正しい」とリゼ。
「ユノ」
セレナの声で、室内の温度が下がる。
ユノは壁際に立っている。
アルマの弦を一本交換し、古い弦を捨てずに手首へ巻いていた。
「共有幻は、実在確認済みの避難路と危険位置だけ。人物を隠す場合、対象本人の同意。白縁を全像へ表示。選択矢印を出さない」
「役割は」とセレナ。
「混乱の停止」
「期限」
「原本が保管庫へ入るまで」
「撤退条件」
ユノは少し考える。
「右手薬指の痛み三。耳鳴りで拍を一つ誤認。白縁が二度薄くなる。いずれか」
「一度で」とリゼ。
「二度」
「一度」
「一度は環境光の誤差がある」
「誤差かどうか、自分で決める」
「では、リゼが判定」
「採用」とセレナ。
「本人の同意は」とユノ。
「今した」とリゼ。
「強い」
「家族評価」
フリードリヒが立体図の一部を回す。
「ヴァルド拘束後も、警備分割通知の一片が消えている。天井保管庫へ至る七経路のうち、第五経路だけ通知先が空白」
「ユノが隠した経路?」とハル。
「違う」とユノ。
「即答」
「僕が隠したのは人物の通過経路。警備通知ではない」
「どこ」
「言わない」
「まだ?」
「作戦へ必要な危険位置は出す」
ユノがアルマを一音鳴らす。
立体図の中に、白縁を持つ三本の線が現れた。
一つは、セイが第一夜に通った可能性のある鏡廊。
一つは、役渡し鏡へ続く候補者通路。
一つは、その間の空白。
「空白は」とエリア。
「僕が確認していない」
「確認していないのに、両側を知っている」
「そう」
「そこに立ち会った人がいる」
「そう」
「名前は」
「言わない」
エリアは怒らない。
「危険は」
「ある」
「程度」
「高い」
「では避ける。人を罪人扱いしない。これでいい?」
ユノは頷く。
「ありがとう」
その礼は、秘密を認めた礼ではない。
危険だけを分けたことへの礼だった。
作戦は、紙の上で一度失敗させた。
七面宮の立体図へ、小さな木駒を置く。
赤い駒、ハル。
青い駒、エリア。
金の駒、条約箱。
黒い駒、襲撃者。
白い駒、まだ誰か分からない役保持者。
「黒と白を同じ駒にしない」とリゼ。
「襲撃者が役を着る」とロロ。
「だから身体と役を二つ置く」
リゼは黒い駒の上へ白い輪を載せた。
「今は、黒い人が白い役を持ってる」
「色の意味が増えた」とハル。
「人を色にするから」とリゼ。
セレナが別の札を作る。
人物。
役。
行為。
三段。
「簡略化はここまで。これ以上減らすと誤認します」
「最初の失敗」とハル。
ロロが搬送輪を動かす。
金の駒が白床から東壁へ進む。
ハルの赤駒が最短路を追う。
「ここで封鎖」とエリア。
青い線が一本。
黒駒は、最短路を外れて役渡し鏡へ行く。
「逃げられた」とカイル。
「もう一回」
二度目。
ハルは黒駒を追う。
金の箱が無人で保管庫へ進む。
別の白駒が搬送役へ入る。
「箱を取られた」とセレナ。
「二つ追えない」
「だから役割表」とエリア。
三度目。
ハルは接触点へ行く。
エリアが金駒の経路を監視。
カイルが箱を守る。
ロロが役渡し鏡を数える。
黒駒は、候補者通路を通って白駒へ役を渡す。
「空白」とハル。
ユノが隠している経路。
「ここは入らない」とエリア。
「襲撃者が入ったら」
「出口を二つ塞ぐ。中へ追わない」
「中の人が危ない」
「だから、ユノへ危険度だけ聞いた」
「高い」
「なら、中へ入る方が危険を増やす」
「でも」
ハルは赤駒を空白へ置こうとする。
エリアの指が止める。
「あなたは、分からない場所へ自分を置く癖がある」
「誰かがいるから」
「その誰かが、あなたに来てほしいかは」
「分からない」
「では、出口を守って聞く」
「間に合わなかったら」
「私も怖い」
エリアの声が少し低くなる。
「指示ではなく、本人として言います。分からない場所へあなたが消えるのは、怖い」
ハルは駒から手を離す。
「俺も、エリアが線を使いすぎるの怖い」
「痛み条件を置いた」
「条件があっても」
「それでも、進む?」
「進む」
「私も」
「じゃ、お互い怖いまま」
「作戦へ入れる」
セレナが証羽へ一行足す。
『互いの撤退条件を、相手が代行して発動できる。ただし本人が意識ありの場合、理由を告げる』
「俺の肩四を、エリアが言える?」
「言う」
「エリアの呼吸二を、俺が」
「言って」
「役?」
「本人の頼み」
「記録」とセレナ。
「そこまで書く?」
「作戦条件です」
四度目の模擬。
黒駒は箱へ届かなかった。
だが、白駒が一つ取り残された。
「誰」とハル。
「避難を保留した人」とリゼ。
役割表に入っていない者。
作戦は、目的物と犯人ばかりを見ると、動けない人を置き去りにする。
「保留担当」とハル。
「新しい役を作らない」とセレナ。
「じゃ、誰」
「動けない人を見た全員が、近くの避難路を二つ提示する。選ばない場合、その場を安全化」
「全員の仕事」
「だから、誰か一人へ押しつけない」
五度目。
作戦は、ようやく成功した。
紙の上で。
本番は、紙に載っていない人から始まる。
五度目の模擬を片づけている時、伝羽が一枚、窓へ頭から突っ込んだ。
ミラの船印。
ガンガの七拍印。
「別の空から作戦会議へ乱入」とカイル。
「届いた時刻が今なだけ」とセレナ。「本件を知りません」
文面は、移動群れの通過契約についてだった。
『買い切り不可。通過ごとに、群れの現在意思を聞く。前回の許可を次回へ自動継続しない。危機時は救命だけ先行、定住、課税、航路所有へ拡張しない。金額は通過後に公開計算。――ミラ』
下へ、ガンガの追記。
『群れは一つの声ではない。先頭が同意しても、遅い者の拒否を消さない。沈黙は遅れている可能性がある』
「今の事件みたい」とハル。
「似ているだけです」とエリア。「土地の通過権と、花婿役の移転は同じではない」
「でも、前回の許可を次へ使わない」
サフィナが役移転規則を見る。
「花婿役は、一夜の開始署名をすれば、同夜内の緊急移転へ包括同意したと推定されます」
「包括」とハル。
「一回受けたら、その夜は何度でも戻される可能性」
「ミレイの『二回まで』は、本人の宣言だけ」
「現行役文には反映されていません」
ミレイが便利だから三回目を回される、と言った。
「本番作戦へ足す」とエリア。「移転ごとに受諾確認。前回同意を使わない」
「転調窓は四拍しかない」とオルフェ。
「短い確認句を」
ハルが言う。
「受ける、断る、保留」
「保留では窓が閉じます」とサフィナ。
「閉じていい」
「外交役が空位になる」
「空位になる危険と、本人を勝手に入れる危険を比べる。自動で後者を選ばない」
カイルは伝羽の端を押さえる。
「遠くにいる二人は、今夜の答えを送っていない」
「でも、前に喧嘩した結果が届いた」とハル。
「作戦へ採用するなら、こちらで責任を持つ」
セレナが追記する。
『役移転確認――受諾、拒否、保留。四拍内に返答なしの場合、不成立。沈黙を受諾としない』
遠くに残った仲間の仕事は、都合よく今夜を救う切り札ではない。
それでも一枚の文が、遠くの失敗をこちらの手順へ変える。