第354話 第九章「襲撃者の拍子」後編
楽長オルフェは、疑われるために譜面を開いた。
指揮台の裏。
七冊の楽譜。
公開曲順。
重力転調表。
役移転窓。
警備交代表。
候補者用休止記号。
宮廷旧曲。
「全部」とセレナ。
「全部だ」
「私物」
「咳止め、耳当ての予備、亡妻の写真」
「写真は」
「事件に関係ないと考える。確認するなら見せる」
「見ません」
「助かる」
オルフェは銀杖を机へ置く。
「私が転調を指揮する。役移転は転調でしか成立しない。だから私が鍵だと考えた」
「自分で?」とハル。
「最初に疑う者を一人減らせる」
「減ってない。自分が増えた」
「算術が苦手でね」
「楽長なのに」
「拍と人数は別だ」
ロロが楽譜の紙質を調べる。
「差し替えなし。指揮杖の関節記録も曲順と一致」
「楽長が犯人なら、半拍早く動ける」とカイル。
「全員より先に知っているから」とエリア。
「だが足跡は警備回廊」とセレナ。
「俺は指揮台を離れていない」とオルフェ。
「記録鏡三台が確認」
「幻で代行?」とハル。
ユノが譜面を見る。
「共通幻なら白縁が必要」
「宮廷の古い曲は?」
リゼが一冊を指す。
最後の楽譜。
銀糸で綴じられた『王家祝調』。
譜面の余白に、小さな注記。
『宮廷公式像につき、幻表示縁を省略できる』
「白縁なし」とハル。
「古い免除」とトーヴ。「宮廷が現実として提示する公式幻像は、幻であることを示さなくてよい」
「それ、嘘を現実扱いできる」
「制度上は、演出です」
「言葉を着替えさせるな」
ユノの指が譜面へ触れないまま止まる。
「僕は使っていない」
「使える?」
「演奏できる」
「誰でも?」
「訓練された宮廷楽師なら」
「オルフェも」
「できる」と楽長。
「ヴァルドは」とセレナ。
「警備訓練で曲順と転調を暗記する。演奏は知らない」
「じゃ、鍵は楽長じゃない」とハル。
「なぜ」とカイル。
「転調を作る必要がない。知ってれば先に動ける」
「半拍早く」
「オルフェは指揮で全員を動かす。ヴァルドは、指揮より早く自分だけ動く」
楽長が銀杖を見る。
「警備は、音を待たない」
「どういう意味」とエリア。
「王族へ危険が届く前に動く訓練だ。私の杖の関節を読む。音より半拍前に重力転換を予測する」
「ヴァルドだけ?」
「主任級は全員。だが彼は、予測を隠さない。早く動けることを誇っていた」
「動きの癖じゃない」とセレナ。「職務上の訓練」
「職務が本人の癖になった」とハル。
役と本人は、完全には分けられない。
役を長く着れば、身体が役の拍を覚える。
役を脱いでも、その半拍は残る。
セレナが作戦図へ書く。
『襲撃者候補――楽長ではなく、指揮を先読みする警備役』
「候補」とハル。
「まだ立証前」
「でも捕まえてる」
「捕まえたことと、有罪は別」
「逃げたら」
「追う」
ヴァルドの拘束室は、重力が変わらない。
それが安全とされた理由だった。
壁に役渡し鏡はない。
扉は二重。
拘束輪は本人の脈へ同期。
警備役は外に二人。
「完璧」とハル。
「完璧と言うと壊れる」とロロ。
「言葉で?」
「見落としを探さなくなる」
セレナは扉の前から質問する。
「あなたの警備役を一時停止しています」
「聞こえている」とヴァルド。
「花婿役も返却済み」
「役は返した。行為は返らない」
「第一夜、転調一と三に花婿役を持った?」
「答えない」
「第二夜、セイから受けた?」
「記録がある」
「本人として」
「役が受けた」
「役は、あなたの手を使った」
「宮殿が権限を与えた」
「宮殿へ責任を渡す?」
「宮殿は責任を私へ渡す」
ヴァルドは乾いた笑いを一つ落とす。
「便利な往復だ」
ハルが扉の小窓へ近づく。
「何で半拍早い」
「訓練」
「怖いから?」
ヴァルドの目が動く。
「何が」
「間に合わないのが」
「警備は間に合わなければ無価値だ」
「間に合った時、誰かを押す」
「押されるよりいい」
「押される人は」
「守られる」
「セイも?」
ヴァルドの顔から、わずかな動きが消える。
「名前を出した」とユノ。
廊下の端。
ハルが振り向く。
「本人の許可なし」
「ごめん」
「僕へじゃない」
「後で謝る」
「今、名前を記録から外して」とセレナ。
証羽が一枚、問いを覆う。
ヴァルドはその手順を見ている。
「守るために消すのか」と彼。
「範囲を分ける」とセレナ。
「見えなくした結果、また間に合わない」
「あなたが利用した論理です」とユノ。
「お前も使っている」
ユノは否定しない。
「だから、僕の方が正しいとは言わない」
「では何を言う」
「あなたが次へ渡した役を止める」
ヴァルドは拘束輪を見た。
「私はここにいる」
「本人は」
「役も」
「本当に?」
ユノの問いに、ヴァルドは答えなかった。
拘束輪は脈を数える。
だが、役務権限の移転を止める装置ではない。
「鏡がない」とハル。
「直接鏡は」とロロ。「でも拘束輪そのものが宮殿基幹へ接続してる。役務状態を更新するため」
「更新できるなら」
「移転要求も流せる」
「切る」とセレナ。
「切ったら拘束輪が開く」
「別の輪へ」
「交換中に自由」
「警備を増やす」
「役で通す可能性」
完璧な拘束室は、宮殿の制度へ接続しているから拘束を維持できる。
接続しているから、役も外へ出せる。
「どちらを先に止める」とハル。
「本人の身体」とセレナ。
「役が出る」
「役を追う準備をする」
「ヴァルド本人は」
「ここへ残す」
その判断は、後に半分だけ外れる。
役が外へ出た時、宮殿はヴァルド本人を別の分類へ着替えさせる。
制度は、人間の身体まで役の移動へ巻き込むことができた。
ヴァルドは、逃げなかった。
拘束室にいた。
だから、全員が少し安心した。
その安心を、襲撃者は利用した。
条約箱の自動移送開始まで、あと十五分。
セイが保護室から消えた。
扉は開いていない。
窓もない。
警備二名は、室内にセイが座っているのを見ている。
白い無役面。
三度折った袖口。
「幻」とリゼ。
面紗の下から、警備室を見た瞬間に言った。
「白縁がある」とセレナ。
「薄い」
セイの像の周囲へ、ほとんど見えない白線。
ユノのアルマが遠くで鳴っている。
「本人の同意あり」とユノの声が伝声鏡から届く。「三分だけ隠す」
「なぜ!」とハル。
「保護区画へ移す」
「どこ」
「言わない」
「また!」
「危険位置は出す」
廊下へ三つの赤い輪郭が現れる。
役渡し鏡。
警備昇降路。
天井回廊への転換点。
全て白縁付き。
「ヴァルドは拘束中」とカイル。
「計画は役を渡せる」とセレナ。
セイの幻像を見ている警備員は、二人とも嘘をついていなかった。
「座っている」と一人。
「呼吸している」ともう一人。
幻は、呼吸の動きまで持つ。
ユノが本人の直前の姿勢を記憶しているからだ。
「触った?」とセレナ。
「保護対象へ接触禁止」
「声を掛けた?」
「三分間の静養指示」
「誰の」
「第一継承者」
ユノの指示。
正規。
「ユノ、三分の理由!」とハル。
伝声鏡の向こうで弦が鳴る。
「役渡し窓が一度閉じる時間」
「閉じた後なら安全?」
「少し」
「少しで隠すな!」
「本人が選んだ!」
「選択肢は」
「ここに残る。別の保護室へ移る。宮殿外へ出る。三つ」
「全部の危険を言った?」
「言った」
「ユノが知ってる範囲だけ?」
一瞬、音が止まる。
「そう」
「知らない危険は」
「未知と表示した」
セイの幻像の周囲へ、白縁のほかに灰色の点線がある。
未確認。
警備員は、それを装飾だと思っていた。
「表示が伝わってない」とエリア。
「凡例を付けた」とユノ。
「文字が細い」
「宮廷標準」
「危険表示を美しくするな!」とハル。
「同意!」とリゼ。
ユノの幻へ、太い灰色の札が追加される。
『この像は本人ではない。本人の現在地は非公開。危険は未確認』
「不格好」とユノ。
「見える」とリゼ。
その間に、セイ本人は保護室の床下へ開いた点検路を進んでいる。
ユノの幻が示す赤い輪郭の一つ。
役渡し鏡。
警備昇降路。
天井回廊への転換点。
セイは、そのどれにも近づかないよう、逆の道を選んだ。
だが宮殿の経路は、重力が変わると役割も変わる。
床下点検路は、青天井重力では搬送役の待機路になる。
「セイをどこへ出す!」とエリア。
「東壁の医療窓」とユノ。
「転調後は」
エリアの地図が更新される。
「搬送待機路へ接続する!」
ユノの演奏が乱れた。
「知らなかった」
「未知を作れない」とハル。
「知らない経路を安全にはできない」
「今、言ってる場合じゃない。出口を変える!」
エリアが光路を二本出す。
一つはセイを戻す道。
一つは、近くの無人保守室へ入る道。
「本人へ選ばせる!」
ユノが幻の伝声窓を開く。
セイの声だけが来る。
『戻らない』
「保守室は、次の転調まで閉じる」とエリア。
『一人?』
「扉外へ警備。中へは入れない」
『その警備が役を渡したら』
誰もすぐ答えられない。
「警備じゃなく、リゼが外へ行く」とユノ。
「私?」
「頼む」
「役の命令?」
「兄として」
「嫌」
「なぜ」
「兄として頼むと断れないと思ってる」
「……本人として頼む」
「同じ」
「では、選んでほしい」
リゼは面紗を一度折る。
「行く。セイのため。ユノのためじゃない」
「ありがとう」
「お礼を借りにしないで」
リゼが走る。
セイは保守室へ入る。
幻像は三分を過ぎ、白縁がさらに薄くなる。
「消して」とリゼの声。
「まだ警備が」
「本人は安全な部屋。幻を残すと、そこにいると思って守り続ける」
ユノは弓を止める。
幻のセイが消える。
空の椅子だけが残る。
その瞬間、拘束室の警報が鳴った。
セイを守るために使った三分と、ヴァルドが役を外へ渡す三分が、重なっていた。
誰かを守る選択が、別の危険を作ったのではない。
同じ時間に二つの危険が存在した。
人は一つしか見られない。
だから作戦は、見る役割を分ける。
その時、拘束室から警報。
ヴァルドの身体は中にいる。
だが胸の警備紋が消えている。
拘束されたまま、役を手放した。
「誰へ」とハル。
「第五経路」とエリア。
空白だった警備通知先へ、新しい黒線が灯る。
天井回廊の搬送役。
条約箱を運ぶためだけに、移送開始時に生まれる役。
「次の人が箱へ行く」とハル。
「人物を追わない」とセレナ。
「役を追う」
白銀箱の移送鐘が鳴る。
一。
二。
三。
箱の下から、重力輪が展開する。
カイルの王盾炎を押し上げる。
白床から東壁へ。
東壁から青天井へ。
箱は自動的に天井回廊へ運ばれ始めた。
同時に、宮殿の全ての扉へ搬送役の通行許可が出る。
誰がその役を持つか、まだ見えない。
「原本が天井へ行く!」
ハルが走る。
エリアが地図針を抜く。
ユノの幻のセイは、空の椅子に座ったまま、白縁を薄くしていた。
守るための幻。
その白い境界が消える前に、真の襲撃者へ届かなければならない。