第355話 第十章「天井の追跡」前編

地図は、動かない世界を好む。

 山はそこにある。

 川はそこを流れる。

 門はそこへ開く。

 しかし宮殿が重力ごと回り、役が人から人へ移り、廊下が床と壁と天井を着替えるなら、地図は名詞であることをやめる。

 どこにあるかではなく、次にどこへ行くかを描く。

 エリア・ルーンベルグの路図は、その時だけ、地図より踊りに近かった。

 白銀箱が青天井へ昇る。

 箱が昇ったのではない。

 世界が落ちる向きを変えた。

 だが、落下する身体にとって、哲学は手摺りにならない。

「右列、三歩!」

 エリアは銀の地図針を振る。

 光路が白床から東壁へ走る。

 その先で二本に分かれ、一本は観客避難路、一本は追跡路になる。

「ハル、追跡路!」

「役の命令?」

「航路指示!」

「本人は!」

 時間がない。

 それでも、答える。

「行って。戻ってきて」

「了解!」

 ハルが走る。

 赤いマフラーが、重力の境目で上へ跳ねる。

 左肩を一度回す。

 痛みを測る癖。

 エリアはその動きを見た。

 見たから、地図を少し曲げた。

 最短路は柱の外側を跳ぶ。

 左手で縁を掴む必要がある。

 使わせない。

 右手で取れる内側へ、光路を二歩長くする。

「遠い!」とハル。

「肩を守った!」

「本人の判断?」

「航路士の判断!」

「後で話す!」

「戻ったら!」

 会話まで条件付きになる。

 それでも、役の台詞へ隠すよりよい。

 エリアは、走る前に自分の身体を数えた。

 左踵、一。

 呼吸、零。

 右手、零。

 視界、正常。

 公女役の礼装は脱いでいない。

 脱ぐ時間がなかった。

 裾は舞踏用に広く、追跡には長い。

 背中の装飾金具は、青天井重力で壁へ引かれれば身体をひねる。

「切る」とロロ。

 補助腕の鋏が伸びる。

「衣装費」とエリア。

「公爵家」

「私の個人会計」

「今それ言う?」とハル。

「誰が払うかを曖昧にすると、救難後に現場の者へ請求が来る」

「切るぞ!」

「必要範囲だけ」

 ロロは裾を膝下へ切り、背中の飾りを二つ外した。

「修理は可能。飾り一個、留め具交換。料金――」

「後で」とセレナ。

「記録!」

「記録します」

 走るための身体を作る。

 その間にも、宮殿は回る。

 避難列の一部が、白床と東壁の境目へ取り残されていた。

 仮面を外した人々は、役ごとの訓練を失っている。

 給仕役なら銀帯の内側。

 候補役なら青灯の下。

 警備役なら外周。

 仮面がないと、どこに立てばよいか分からない者がいる。

「今いる場所で、手すりへ!」とエリア。

「どの役の手すり?」と誰かが叫ぶ。

「役ではなく、近い手すり!」

 返事になっていないようで、今はそれが必要だった。

 エリアは避難路を三本出す。

 一本目、歩ける者。

 二本目、座ったまま移る者。

 三本目、動かず周囲を固定してもらう者。

「色を選んで!」

「私は候補だから青?」

「色は役ではない! 動ける方法!」

 言葉を変える。

「歩くなら白。座るなら橙。今は動かないなら紫!」

 人々が少しずつ手を上げる。

 白。

 橙。

 紫。

 エリアは、その選択を路図へ入れる。

 地図は、通路だけを描くのではない。

 動かないという選択も、閉じた点として描く。

 紫の点へ、フリードリヒの封鎖針が飛ぶ。

「一分、固定」と公爵。

「延長は」とエリア。

「本人確認。私一人ではしない」

「承知」

 父娘の会話は短い。

 短いが、以前より一つ条件が増えている。

 父一人で決めない。

 ハルは避難列へ戻ろうとする。

「追って!」とエリア。

「でも」

「ここは私とお父様で持つ」

「本人の頼み?」

「箱へ行って。戻ってきて」

 ハルは一、二、三で跳ぶ。

 エリアは、彼の赤いマフラーが青天井へ向かうのを見送った。

 見送るという言葉は、送り出す者が安全な場所へ残るように聞こえる。

 実際には、見送った側も重力境界へ立っている。

 誰かを前へ行かせることは、自分が怖くないという意味ではない。

 条約箱は、青天井中央へ向かう銀の搬送輪に乗っていた。

 先頭に、黒い役紋。

 搬送役。

 人の姿は、白い運搬仮面によって均されている。

 肩幅も身長も、荷を運ぶ標準像へ補正される。

「人物を見ない」とセレナの声が伝声鏡から届く。「役紋の接点を追う」

「現在保持者、搬送役一名!」とロロ。

「靴」とエリア。

「見えねえ! 箱の陰!」

「床圧は」

「半拍早い!」

 ヴァルド。

 拘束室にいたはずの身体が、搬送役を着て天井へいる。

「どうやって出た」とカイル。

 背後で王盾炎が膨らむ。

 避難者と条約箱の間へ、薄い炎の壁を作る。

「拘束役が移った」とセレナ。「警備紋の移転と同時に、ヴァルドは拘束対象から保護移送対象へ再分類された」

「言葉で手錠が外れた?」とハル。

「手錠は外れていない。移送床ごと天井へ運ばれた」

 見ると、搬送役の左手首には拘束輪が残っている。

 輪の鎖が、切断された床板を引きずっている。

「力技も使ってる!」

「制度だけで逃げるほど上品ではない」とカイル。

 ヴァルドは振り向かず、箱を押す。

 半拍早い。

 次の重力転換へ、誰より先に身体を傾ける。

 楽長オルフェの指揮が、宮殿全域へ響く。

 舞踏会は停止している。

 だが搬送機構は、舞踏曲の重力譜を使って動く。

 一曲目。

 『反転庭園』の終止部。

 その後に、宮廷旧曲『王家祝調』。

「曲順が違う」とエリア。

「自動移送用の古い順序」とオルフェの声。「私の現行譜ではない!」

「誰が鳴らしてる」

「宮殿基幹。百二十年前の条約時に固定された」

 古い幻曲が、楽音に混じる。

 青天井の先へ、白い回廊が三本現れた。

 どれにも白縁がない。

 実在に見える。

「全部止まって!」とユノ。

 アルマの鋭い一音。

 現れた三本の回廊のうち、二本が歪む。

「宮廷公式像。古い免除で白縁が表示されない」

「本物は」とハル。

「僕にも分からない!」

 未知を作れない幻術師は、未知を見抜く万能者でもない。

 ユノは三本すべてへ白い外枠を重ねた。

 自分が作った幻ではない。

 だが、未確認であることを示す枠は付けられる。

「全部、未確認!」

「役に立つ?」

「偽物を本物と言うより!」

 エリアは地図針を床へ突く。

 測る。

 空気の流れ。

 搬送輪の振動。

 壁骨の反響。

 中央回廊へ入った途端、実在の方が幻より危険だと分かった。

 床幅は三歩。

 左右は鏡砂の空洞。

 重力は回廊に対して斜め。

 真っ直ぐ走れば、身体は右壁へ押しつけられる。

 壁を蹴れば、今度は天井へ浮く。

 ヴァルドは半拍早く、押される前に壁へ足を置く。

 ハルは一拍遅れて、押された力を使う。

 一、壁。

 二、浮く。

 三、前へ。

「配達路より悪い!」

「配達路に天井重力はないでしょう!」とエリア。

「雨の日の非常階段は似てる!」

「地球の建築安全を疑います!」

 会話が続く間は、呼吸が続いている。

 エリアは後方から路図を更新する。

 だが、古い幻回廊が、測定した線を上書きする。

 白縁のない公式像。

 路図の上へ、美しい白い階段が現れる。

 実在の床は、その下で途切れている。

「止まって!」

 ハルは階段の一段目へ足を置く直前に止まる。

 靴先が、幻を通る。

 その下は空。

「見えない」とハル。

「私の線だけ見て」

「どれ」

 路図と公式像が重なり、銀と白の区別がつかない。

 エリアは線を太くする。

 術量が増える。

 左踵、二。

 まだ進める。

「太い線!」

「全部太い!」

「私の線は脈打つ!」

 銀の光を、自分の呼吸へ同期させる。

 吸う。

 光る。

 吐く。

 薄くなる。

「見えた!」

 ハルは脈打つ線へ足を置く。

 だがエリアの左肺は、長く同じリズムを保てない。

 呼吸、一。

 光が一度途切れる。

 ハルの足が空へ出る。

「右!」

 エリアが叫ぶ。

 ハルは右手で壁骨を掴む。

 左肩を使わない。

 身体が空洞へ振られる。

「大丈夫!」

「質問してない!」

「申告!」

「痛み!」

「二!」

「戻って!」

「航路?」

「本人!」

 ハルは壁骨を使って回廊へ戻る。

 ヴァルドは先へ行く。

「遅れる」とエリア。

「線を弱くして」

「見えなくなる」

「俺が覚える」

「一度しか見ていない」

「一度走れば道になる」

 ハルは赤いマフラーの端をほどき、路図の最初の分岐へ結ぶ。

「何を」

「戻る印」

「あなたの服」

「俺が選んだ部分」

「失くす」

「戻ったら取る」

「戻らなかったら」

「本人の頼みは、戻ってこいだった」

 エリアの呼吸が、一拍だけ止まる。

 ハルは続ける。

「守る。だから線を弱くして。エリアが先に止まったら地図も止まる」

 路図は、術者一人の身体へ集中している。

 全部を描けることは、全部の負担を背負うことでもある。

 エリアは銀の地図針を一度閉じた。

「ロロ、受け取って」

「何を」

「測定値」

「路図は使えねえ」

「使わなくていい。角度、床幅、転調時刻を機械表示」

「地図を機械へ?」

「地図ではなくデータ」

「料金」

「後で」

「今のは払う人の声!」

 エリアの測定値が、ロロの四枚の工具板へ分かれる。

 一枚、傾斜。

 一枚、実在床。

 一枚、重力時刻。

 一枚、未確認。

 ロロはそれを追跡路の壁へ投影する。

 美しい一本の道ではない。

 数字。

 点。

 警告音。

「分かりにくい!」とハル。

「生きてるなら読め!」とロロ。

「どれが道!」

「緑の点!」

「色指定しないって言ってた!」

「今は役じゃなく機械!」

 ユノがアルマの一音を重ねる。

 緑の点へ、白縁。

「実在確認済みだけ囲う!」

「助かる!」

「選択は君!」

 複数の能力が、同じ答えを出さない。

 エリアは測る。

 ロロは分ける。

 ユノは未確認を表示する。

 ハルが選んで走る。

 誰か一人の完璧な地図ではない。

 だから、一人が止まっても道は残る。

 エリアの呼吸が零へ戻る。

 左踵は二のまま。

「続行」と彼女。

「本人の申告?」とハル。

「航路士の判断。本人としても、行く」

「了解」

 中央回廊の後半で、ヴァルドは箱を一度止めた。

 追いつかれたからではない。

 壁の役渡し鏡を確認するため。

 最短路より接点。

 エリアの違和感が、確信へ変わる。

 三本のうち、中央だけが、箱の重量へ応答している。

「中央が実在!」

「確率」とセレナ。

「九割!」

「残り」

「右が保守路の可能性!」

「表示して」

 エリアの路図が、中央を太く、右を細く、左を断線で描く。

 正解を一つへ塗らない。

 確度を線幅へする。

 ハルは中央へ跳ぶ。

 ヴァルドも中央へ行く。

 最短の攻撃路。

 エリアは、そこで違和感を覚えた。

 第一夜から、ヴァルドは最短を選んでいない。

 花婿役へ入るため、セイを経由した。

 条約箱を開くため、候補拒否の拍を待った。

 拘束から出るため、警備役を別人へ渡した。

 彼は目的物へ真っ直ぐ進むのではない。

 権限が移る接点を通る。

「ハル、止まって!」

 本人の頼み。

 ハルは中央回廊へ着地した瞬間、止まる。

 ヴァルドだけが先へ行く。

「なぜ」とハル。

「最短路は囮。次の役渡し点を探す!」

 エリアは地図を反転する。

 現在地から目的地を描くのではない。

 全ての役渡し鏡から、現在地へ線を引く。

 光が、天井回廊を逆流する。

 一。

 中央保管庫前。

 二。

 警備昇降路。

 三。

 候補者退避室。

 四。

 楽長補助台。

 四つ目だけ、古い幻回廊の裏に隠れている。

「次の接点、右!」

 ヴァルドの身体が、中央路から右へ傾く。

 やはり。