第356話 第十章「天井の追跡」後編

 箱を保管庫へ入れるのではない。

 楽長補助役へ権限を渡し、旧曲の幻を使って原本の位置を消すつもりだ。

「右を塞ぐ!」

 エリアは地図針を槍へ展開する。

 測定済みの経路が、刃の周囲へ巻き付く。

 地図を攻撃の曲線へ変える槍舞〈ライン・ワルツ〉

 以前なら、最短の一線を引いた。

 今は違う。

 三本。

 ヴァルドを傷つける線。

 箱だけを押し戻す線。

 役渡し鏡への接触を切る線。

 エリアは三つ目を選ぶ。

「開いて、閉じて、帰って!」

 槍が舞う。

 銀の曲線が天井回廊を走り、ヴァルドの手と役渡し鏡の間へ光の壁を作る。

 ヴァルドは半拍早く手を出していた。

 だから、壁が完成する前に届く。

「間に合わない!」とロロ。

「一人なら」とエリア。

 ハルが遅れている。

 止まれと言われて止まり、次の頼みを待っている。

「ハル!」

「本人?」

「手を貸して!」

「どっちへ!」

「私の線を押して!」

 説明ではない。

 命令でもない。

 本人の頼み。

 ハルが走る。

 一、二、三。

 光の線へ右肩からぶつかる。

「左じゃない!」

「学んだ!」

 二人分の力で、槍舞の第三線が早まる。

 ヴァルドの指先が役渡し鏡へ触れる、その直前。

 光壁が閉じた。

 金の火花。

 移転不成立。

 ヴァルドの花婿残光と搬送役紋が、同時に乱れる。

 条約箱の重量補正が消えた。

 白銀箱が、重力の境目へ落ちる。

「カイル!」

「守ってる!」

 王盾炎が伸びる。

 カイルの左手から、細い炎の帯が箱へ巻き付く。

 だが箱の重量は、七都市の封鎖を丸ごと持っている。

 カイルの背中が折れかける。

「三!」と彼が叫ぶ。

 痛み三。

 撤退条件。

 フリードリヒの封鎖針が飛ぶ。

 一本。

 二本。

 三本。

 空中へ通行条件を固定し、箱の落下路を仮の床へ変える。

「交代ではなく固定」とセレナの声。

「覚えていたか」とフリードリヒ。

「証羽に書きました」

 箱が止まる。

 ヴァルドは鏡を諦め、エリアへ踏み込む。

 武器は短い重力棍。

 半拍早い打撃。

 エリアの槍は長い。

 近距離では遅い。

 ハルが間へ入る。

「来るな!」

 それは役の命令でも、本人の頼みでもない。

 恐怖だった。

 ハルは止まらない。

「後で分類!」

 重力棍を配達鞄で受ける。

 鞄の金具が砕ける。

 左肩へ衝撃。

「四!」

 ハルが自分で叫んだ。

 痛み四。

 撤退条件。

 エリアの胸が冷える。

「下がって!」

「本人?」

「本人!」

 ハルは一歩下がる。

 逃げない。

 だが、前へ出ない。

 条件を守る。

 その一歩で、エリアの槍が使える距離が戻る。

 ヴァルドは半拍早く踏み込む。

 エリアは半拍遅く引く。

 早さへ早さで勝たない。

 相手の先読みが空振りした後へ、線を置く。

 槍舞の第二線。

 人を傷つけず、武器だけを押し戻す曲線。

 重力棍が回廊の外へ飛ぶ。

 第一線を使えば、もっと早く倒せた。

 傷つける線。

 使わない。

 ヴァルドは無手になる。

 それでも、役渡し鏡へ身体を投げる。

 ノクスが飛んだ。

 七つ並ぶ鏡のうち、一つだけへ二本の尾を巻く。

 正解を選んだのではない。

 破られた約束の匂いが最も濃い一枚を選んだ。

 ヴァルドの行き先。

 ロロの補助腕が、その鏡を壁から引き抜く。

「修理対象!」

「壊すな!」とセレナ。

「外すだけ!」

 接点が消える。

 ヴァルドは空の壁へ手を伸ばした。

 ハルが右腕だけで腰を掴む。

 エリアが槍の柄で足を払う。

 二人の動きは、舞踏の型に似ていた。

 右へ回し、重心を外し、相手を傷つけず床へ導く。

 第一夜、ハルが踏んだ足。

 第二夜、本人の頼みを言い分けた四歩。

 今度は失敗しない。

 ヴァルドの背が、青天井へ着く。

 拘束輪が再び閉じる。

「現行犯」とハルが息を切る。

「何の」とヴァルド。

「役渡し鏡への不正接触、条約箱の無断搬送、警備床破壊、俺の鞄」

「最後は私物損壊」とセレナ。

「一番証拠が分かりやすい」

「修理代」とロロ。

「俺の鞄」

「俺が直すから俺へ」

 ヴァルドは笑った。

「世界は、修理代で正義を測るのか」

「少なくとも無料の正義より逃げにくい」とロロ。

 拘束輪が閉じた後も、重力は止まらなかった。

 役移転が不成立になったため、搬送機構は次の指示を失う。

 指示を失った機械は、安全に止まるとは限らない。

 最後に受けた命令を、終わりなく続ける場合がある。

 銀の搬送輪が加速する。

 白銀箱を保管庫へ押し込むのではなく、回廊の周囲を回り始めた。

「捕まえたのに!」とハル。

「論理と機械は別!」とロロ。

 教本の原則を暗記していたわけではない。

 現場で毎回思い知らされている。

「停止鍵!」とセレナ。

「搬送役が持つ!」

「ヴァルド」

「役紋が乱れて読めねえ!」

 白銀箱が一周する。

 回廊の壁を掠め、鏡片を撒く。

 下では、避難を保留した紫の点がまだ固定されている。

 箱が回廊を外れれば、そこへ落ちる。

「カイル、盾!」

「痛み三で交代済み!」

「使うな!」とハルが先に叫ぶ。

 カイルの左手が止まる。

 使える。

 だが条件を置いた。

「フリードリヒ公!」

「封鎖針、残り四」

「三本で箱、一本文字路!」とエリア。

「根拠」

「箱を止めるだけでは、下の避難者が動けない!」

「承知」

 三本の封鎖針が、搬送輪の外周へ刺さる。

 一時固定。

 最後の一本が、紫の避難点から白床へ短い路を作る。

「固定時間、十二拍!」とフリードリヒ。

「短い!」

「一本では」

「足りる!」

 エリアは路図を一本だけ出す。

 全部を描かない。

 避難者が選んだ、今は動かないという点から、今なら動ける一本。

「紫列、今だけ白へ! 走れない人は、その場で手を上げて!」

 人々が動く。

 ハルは上から見て、数える。

 一。

 二。

 三。

 最後に一人、給仕見習いが残る。

 第一夜、盆を落としたノエ。

 足が動かない。

「俺が行く」

「肩四!」とエリア。

「覚えてる!」

「では行かないで!」

「本人の頼み?」

「本人! 別の方法!」

 ハルは止まる。

 以前なら跳んだ。

「ノエ!」と叫ぶ。「歩かなくていい! 手すりを離すな!」

 少年は聞こえるが、動けない。

 ユノの幻が、ノエの前へ現れる。

 人の姿ではない。

 足元に、三つの白縁付きの選択。

 その場で固定を延長。

 座ったまま滑る。

 近くの人へ手を伸ばす。

 矢印はない。

 ノエは、近くの人へ手を伸ばす。

 ラウドが戻る。

 花婿役ではない。

 本人として。

 少年の手を取り、白路へ出る。

 十二拍目。

 封鎖針が砕ける。

 全員が白床へ渡った。

 搬送輪が再び動く。

「箱!」

 ロロが補助腕二本を、停止鍵の代わりに差し込む。

 一本が軋む。

「二本停止条件!」とセレナ。

「まだ一本!」

 もう一本が震える。

「今!」

「まだ使える!」

「条件は壊れてからではありません!」

 ロロが歯を食いしばる。

「交代相手いねえ!」

「機械へ渡して」とエリア。

「何」

「箱の回転を、さっきの四枚板へ分ける。角度、速度、荷重、停止点」

「自動計算は遅い」

「人が全部持つより」

 ロロは補助腕を抜く。

 四枚の工具板が搬送輪へ貼り付く。

 計算。

 一拍遅い。

 二拍遅い。

 だが、壊れない。

 エリアが停止点だけを路図で示す。

 カイルは盾を使わず、箱の外れ止めを手で押さえる。

 ハルは肩を使わず、右足で輪の振動を数える。

 ユノは危険部へ白縁を付ける。

「今!」

 ロロが機械鍵を回す。

 搬送輪が止まった。

 箱は保管庫入口の三センチ手前。

「三センチ」とハル。

「入ってない」とロロ。

「押す?」

「役務権限がない」

「本人として」

「箱に本人はねえ!」

 フリードリヒが最後の予備封鎖針を出す。

「共同立会いで移動」

 カイル。

 セレナ。

 エリア。

 三者が手を添える。

 条約箱は、ようやく保管庫へ入った。

 襲撃者を捕らえることと、危機を終わらせることは別だった。

 誰か一人が必殺の力を使ったのでもない。

 置いた条件を守り、使わない力を選び、役を持たない者たちが手で運んだ。

 箱が止まった後、エリアは槍を杖のように床へ立てた。

 呼吸一。

 踵三。

 ハルは赤いマフラーを噛み、左肩を右手で押さえている。

「四」とエリア。

「今、三に戻った」

「到達した時点で撤退条件成立」

「終わった後」

「終わったから守れる条件もある」

 彼女は命令形をやめる。

「座って」

「本人の頼み?」

「本人の頼み」

 ハルは壁へ座る。

 エリアも隣へ座った。

「エリアも」

「踵三。停止条件は四」

「値切ってる」

「基準内」

「本人としては休んで」

 エリアは一秒迷い、槍を畳む。

「分かった」

「分かった顔だけ?」

「本当にリゼの注意が感染している」

 二人の靴は、舞踏会の開始時より傷だらけだった。

 ハルの礼装靴には配達用滑り止めが露出し、エリアの右靴には路図の焼け線が走る。

「踊り、台無し」とハル。

「靴は」

「舞踏会」

「事件が終われば、残り五夜があります」

「また踊る?」

「今は答えない」

「先のエリアへ勝手に署名しない」

「覚えたのね」

「今のエリアは」

 彼女は崩れた天井回廊を見る。

「今は、隣に座る」

「役の配置?」

「本人の選択」

 ハルは笑おうとして、肩に響き、顔をしかめた。

「格好悪い」

「誰が」

「俺」

「天井を走り、犯人を捕らえ、条件どおり座った人が?」

「最後だけ誉められてる」

「最後が一番難しかったでしょう」

 走ることより止まること。

 掴むことより離すこと。

 守るために全部を使うより、使わない力を仲間へ預けること。

 冒険の見せ場は、いつも最大の技ではない。

 誰にも拍手されない一歩を、以前と違う選び方で踏む瞬間にもある。

「エリア」

「何」

「戻ってきた」

 作戦前の本人の頼み。

 地図を持って先へ行って。

 本人としては、戻ってきて。

「ええ」とエリア。「私も」

 その確認を終えてから、二人は立ち上がった。

 事件の次の部分――証拠へ向かうために。

 条約箱が保管庫へ戻される。

 王盾炎。

 封鎖針。

 証羽。

 三つの前で、箱が閉じる。

 論理の立証はまだ終わっていない。

 だが物理的危機は止まった。

 セレナが天井回廊へ到着する。

 左目の痛みで単眼鏡を外し、右目だけで現場を確認する。

「ヴァルド・ケシュ。あなたを、条約原本への連続襲撃、役務強要、証拠隠滅未遂の疑いで拘束します。役名ではなく、本人名で」

「強要の証拠はない」

「確認します」

「候補が話さなければ」

「話さない権利も守る。別の証拠で立証する」

 ヴァルドの視線がユノへ行く。

 ユノはアルマを下ろしている。

 セイの幻像は消えた。

 白縁も消えた。

 リゼが、アルマの弦を指す。

「一本、切れてる」

 ユノの右手薬指に血がにじんでいた。

「撤退条件」とリゼ。

「危機は止まった」

「条件は危機が止まるまでじゃない。痛み三で止まる」

「二・五」

「値切らない」

 ユノは弓を置く。

 その時、セレナが天井回廊の壁へ近づいた。

 古い幻曲の残光が、薄く残っている。

 白縁のない宮廷公式像。

 その上へ、ユノが付けた未確認の白枠。

 二つの光が重なる場所に、途切れがある。

「ここ」とセレナ。

 黒い証羽が、壁をなぞる。

「第一夜の監査像と同じ欠落。自然な消失ではありません」

 ユノの顔が固まる。

「何が」とハル。

「人物一名分の通過像が、後から共通幻で覆われている」

「ユノが?」

 セレナは証羽を上げる。

「術の癖が一致します」

 襲撃者は捕らえた。

 条約原本も守った。

 その直後、守る側の一人が証拠を消していた事実だけが残った。