第358話 第十一章「候補を守る嘘」後編

 ヴァルド・ケシュは、仮面を着けずに話した。

 取り調べではない。

 まず、証拠確認。

 白殻骨の滑り止め。

 誓紋範囲。

 第一夜の床圧。

 第二夜の役移転。

 射撃術具の燃料鍵。

 ロロが三時間かけて壊さず復元した残留役紋は、ヴァルドの花婿誓紋と一致した。

「一致」とセレナ。

「役が一致した」とヴァルド。「本人ではない」

「使用時刻、あなたが役保持者」

「記録上は」

「靴層、床圧、警備欠勤の空白、本人の半拍先行。独立した四系統が一致」

「半拍は警備訓練」

「訓練を受けた主任級十二名を比較。あなたは平均より〇・三拍早い。第一夜の床圧と誤差〇・〇四」

「数字は人を作る」

「数字だけでは作りません」

 セレナは証羽を下ろさない。

「あなたは、条約原本をどうするつもりだった」

「公開する」

「何を」

「役籍のない回廊を、共同条約の避難対象から除外する条項」

 室内が静まる。

 トーヴが眼鏡を開く。

「その条項は」

「ある」とヴァルド。「小さい字で」

 契約書の隠れた条件〈スモール・ライン〉

 原本の追補、第六十七版。

『共同保護は、役籍上確認可能な居住者へ限る』

 役籍のない者は、危機の時、数に入らない。

「だから襲った?」とハル。

「公表手続きは七家の承認が必要だ。承認されない」

「原本を盗んで公開すれば」

「全都市が見る」

「アディルを撃った」

「箱への射線へ入った」

「だから傷つけていい?」

「よくない」

 ヴァルドは、初めて迷わず答えた。

「ではなぜ」

「止めれば、また見えない者が死ぬ」

「セイを脅した」

「弟を消すと言った。消すつもりはなかった」

「本人には分からない」

「分からせる必要があった」

「恐怖を?」

「選択を」

「恐怖で一つへ狭めた選択を、選択と呼ばないで」とユノ。

 ヴァルドが見る。

「お前が言うか」

「言う。僕も、情報を狭めた」

「違いは」

「僕のしたことも正しくない」

「なら同じだ」

「同じ部分がある。だから全部同じにはしない」

 ユノはアルマの切れた弦を見せる。

「あなたの問題提起は消さない。役籍のない住民が保護外になる条項も調査する。あなたが撃ったこと、脅したこと、原本を奪おうとしたことも消さない」

「王家が都合よく分ける」

「セレナ殿が分ける」

「王国の役人」

「あなたは、誰なら信じる」

「誰も」

「なら、誰にも一人で決めさせない記録にする」

 セレナが言う。

「原本条項の存在は、事件証拠と分離して公開申請します。あなたの犯罪を告発内容の正しさで免除しない。告発内容をあなたの犯罪で無効にしない」

 ヴァルドは黙った。

 勝ったのではない。

 彼の抱えた問題が正しかったからといって、彼の方法が正しくなるわけではない。

 彼の方法が間違っていたからといって、問題が消えるわけでもない。

 世界は、きれいに一人へ悪を着せられない。

 ヴァルドが示した追補第六十七版は、最初から現在の形ではなかった。

 トーヴが、折り畳み眼鏡を三段まで開く。

「原文を版ごとに分けます」

「全部見せる?」とハル。

「全部、という範囲を定義してください」

「出た」

「初版から第六十七版までのうち、共同保護対象の定義が変更された十一版。個人名は伏せる。変更理由、提案主体、適用範囲は表示」

 壁へ十一枚の文が並ぶ。

 初版。

『舞踏会へ参加する全ての生命を保護する』

 第十二版。

『参加登録された全ての者を保護する』

 第二十一版。

『役籍または臨時入場札で確認可能な者』

 第四十三版。

『共同費用負担の対象として確認可能な者』

 第六十七版。

『役籍上確認可能な居住者』

「狭くなってる」とハル。

「一度にではない」とトーヴ。「火災時の重複救難、偽名による補償詐欺、避難人数の過大申告、都市間費用争い。各版は、一つずつ実在する問題へ対処している」

「全部、正しい修正?」

「局所的には」

「局所的に正しい修正が、最後に誰かを消した」

「制度史で最も多い失踪です」

 誰も一度に『役籍のない者を守らない』と決めなかった。

 誰かが重複を減らした。

 誰かが費用を確定した。

 誰かが照合速度を上げた。

 誰かが責任範囲を明確にした。

 言葉は毎回、少しだけ正確になった。

 正確になった結果、制度の外で生きる人間を数えられなくなった。

「ヴァルドは、いつ知った」とセレナ。

「三年前」と本人。「南側重力事故。役籍外回廊から救難要請があった。帳簿では居住者零。救難予算も零」

「死者」

「公式には零」

「実際は」

「分からない。名前がない」

「その『分からない』を、原本襲撃の免許にした?」

「免許ではない。期限だ」

「誰が期限を決めた」

「私だ」

「一人で」

「誰も動かなかった」

「動かない全員を飛び越えて、撃たれたアディルと脅されたセイへ決定を押し付けた」

 ヴァルドは答えない。

 その時、証拠保全室の外から、サフィナが一枚の紙を持ってくる。

「役籍外回廊から」

「誰の署名」とセレナ。

「ありません。七名が別々の印を押しています。名前は出さない条件」

 紙には、文字の代わりに七つの生活印がある。

 鍋底の煤。

 縫い針の穴。

 子供の指の青砂。

 水運び縄の結び。

 薬草の葉脈。

 片方だけの靴跡。

 空白。

 文は短い。

『私たちを数えなかった条項を止めてほしい。

 私たちの代わりに撃つ人は頼んでいない。

 私たちを守ると言って、私たちの場所を勝手に公開しないでほしい。』

 ヴァルドの頬が、初めて動く。

「彼らは、あなたの告発を支持しています」とセレナ。

「方法は支持していない」

「はい」

「なら、私を切れば王家は喜ぶ」

「あなたを切って条項を残せば、私が記録します。条項を止めてあなたを免除すれば、それも記録します」

「記録で人は救えない」

「記録だけでは。だから運用停止を同時に求める」

 カイルが、王太子印を机へ置く。

「共同条約のルーメン側適用について、第六十七版の執行を暫定停止する」

「一国だけで?」とトーヴ。

「一国が今すぐ止められる範囲だけ。鏡王国側を勝手に止めたことにはしない」

「不完全」

「不完全だから、始める」

 フリードリヒは印を見て、五秒黙る。

「航路相として、役籍外回廊の位置を公開せず、救難入口だけを臨時路図へ追加する」

「父親としては?」とエリア。

「君がその路図を一人で描くなら反対だ」

「では共同で」

「賛成する」

 ヴァルドの問題は、ヴァルドの所有物ではなかった。

 彼を捕らえても残る。

 彼を英雄にしても残る。

 問題が正しい時ほど、解決を一人の劇へしないことが必要だった。

 夜明け前。

 婚約条約原本は、七人の立会いで再封鎖された。

 アディルは肩を固定したまま署名した。

 ミレイは右足を椅子へ上げ、代理役の権利を守る追記を求めた。

 セイは別室から、名を伏せたまま取消確認を出した。

 ラウドは第二夜の花婿役を正式に返却した。

 オルフェは楽長譜の白縁免除を停止する暫定指示へ署名した。

 サフィナは役移転の本人通知を義務化する仮条項を記録した。

 事件は、終わりへ向かっていた。

 そこでセレナが、原本の候補者署名欄を調べた。

「ユノ・ヴァレント」

「はい」

「現在署名は」

 ユノが箱へ近づく。

 候補者欄。

 氏名。

 家名。

 継承順位。

 保護印。

 署名欄だけが、空白だった。

「招待状でも空白だった」とハル。

「舞踏会参加の署名と、婚約条件の署名は別です」とトーヴ。

「じゃ、どこに同意がある」

 トーヴが原本の折り返しを開く。

 古い鏡紙。

 小さな手形。

 代理人の署名。

 保護を求める文。

「幼少時の保護署名」とトーヴ。

「何歳」とセレナ。

「現在、確認中」

「それが今の同意として使われている?」

 誰も答えなかった。

 答えがないのではない。

 答える権限を持つ者が、その場にいなかった。

 ユノは、自分の名前の横にある空白を見ていた。

 割れた弦を、手首へもう一度結び直す。

「僕は」と言う。

 そこで言葉を止めた。

 役の台詞を選べない。

 本人の言葉も、まだ見つからない。

 婚約条約原本は守られた。

 だが、その原本には、守られる本人の現在の署名がなかった。