第359話 第十二章「本人の署名がない条項」前編
署名は、名前を書く行為ではない。
今ここにいる自分が、過去の文と未来の責任をつなぐ行為である。
だから、昨日の署名は今日の自分を縛る。
だからこそ、幼い日の署名が、成長した本人へ永遠に代わってよいかは、別の問いになる。
契約は時間を越える。
本人も、時間を越えて変わる。
どちらを同じものとして扱うかで、社会の形は変わる。
七夜舞踏会は、二夜で終わった。
中止ではない、と宮廷広報は最初に書いた。
残る五夜を延期する、と。
すると、延期なら現在の候補契約が継続する、と役籍局が解釈した。
継続ではない、と候補者側が異議を出した。
なら一時停止だ、と広報が直した。
一時停止なら、花婿役の待機義務が残る、と楽務局が言った。
「言葉が増えるほど、舞踏会が終われない」とハル。
七面宮の朝食室。
眠っていない者たちが、眠ったふりをするための薄い粥を食べている。
ロロは粥へ修理用の塩を入れかけ、補助腕の一本に止められた。
「自分に止められてる」とハル。
「寝てねえ時の俺は、四人で多数決する」
「今、反対一」
「残り三本は匙持ってる」
「危険」
カイルは椅子の背へ浅くもたれ、背中の痛みを隠さず温石を当てていた。
「王太子として提案」と言う。「残る五夜を、舞踏会でなく公開監査へ変更」
「役の台詞?」とハル。
「王太子の提案。本人としては、寝たい」
「後半に賛成」
エリアは粥を三口で止めた。
「公開監査にすると、候補者の個人情報が出ます」
「だから全部公開しない」とセレナ。
彼女は朝食を取らず、原本の写しを三層に分けている。
「役移転の時刻と条件は公開。人物名は本人選択。強要の具体的手段は被害者保護層。宮廷公式幻の白縁免除は即時停止」
「停止は暫定?」とトーヴ。
「恒久改訂まで」
「恒久改訂の期限」
「四十日」
「期限を過ぎたら」
「免除は失効したまま」
トーヴは眼鏡の上段を閉じる。
「良い」
「誉めた?」とハル。
「版評価です」
「セレナが増えた」
「事実が感染した」とリゼ。
ユノはいない。
治療室で右手を見せている、と聞いている。
アルマもない。
代わりに、彼の椅子の背へ切れた白い弦が一本結ばれていた。
「捨てなかった」とハル。
「いつも」とリゼ。
「失敗した弦?」
「切れた弦。失敗かどうかは、弦が決めない」
「ユノは」
「決めたがる」
リゼは自分の粥を見ている。
「今回は、結んだ」
切れたものを直したのではない。
切れたと分かる形で、残した。
朝食室の隅では、舞踏会の損害台帳が三冊同時に増えていた。
一冊は、物の損害。
割れた鏡七十二枚、曲がった仮面十九枚、天井回廊の支柱三本、条約箱の把手一つ。
一冊は、人の損害。
銃創一、捻挫六、打撲三十一、鏡光による片頭痛四十四、役を外した後に自分の声が戻らない感覚を訴えた者十二。
最後の一冊は、まだ名前がなかった。
「これは?」とハル。
サフィナが眼鏡鎖の札を繰る。
「予定を失った人です」
「損害?」
「七夜分の仕事を見込んで仕入れた料理人。夜ごと衣装を直す予定だった縫い手。舞踏会の間だけ子供を預けた給仕。候補役の通訳として来て、二夜で契約を切られる人」
「物でも怪我でもない」
「だから帳簿名が決まりません」
ロロが匙を置く。
「失った稼ぎ」
「金だけではありません」
「じゃ、失った予定」
「それを損害として支払える?」
「全部は無理。でも、数えねえよりマシ」
ミラなら値段を聞く。
ガンガなら、数えられない一拍を残す。
ここにいない二人の旅は、ここで事件を解決しない。
それでも、一緒に旅した後の言葉は、離れた場所の台帳へ入り込む。
人が別れた後も物語が続くとは、手紙が届くことだけではない。
その人と喧嘩した結果、自分の次の判断が変わることである。
「第四台帳」とエリア。
「名前は」とサフィナ。
「予定変更の申告。損害と断定する前に、本人が何を失ったと考えるか書ける欄を」
「自由記述は集計できません」
「集計できないから削る?」
「削りません。集計欄と自由記述を分けます」
サフィナは新しい冊子を開いた。
最初の申告者は、昨夜、仮面が外れた給仕見習いノエだった。
『第三夜、仮面の飲食口を直す仕事がなくなった。賃金三日分。あと、初めて自分で直した仮面を誰かが使うのを見られなくなった』
「後半は幾ら」とハル。
「値段を付けない」とサフィナ。
「でも書く」
「書く」
カイルが王室会計印を取る。
「賃金三日分は補償。後半は、監査会で改訂仮面を試験運用する席を一つ作る」
「王太子の善意で?」とセレナ。
「公費の理由を付ける。使用者検証」
「目的外支出ではありません」とエリア。「新規安全規格の実地検証」
「君たち、王子を正しくするのが早いな」
「遅れて学習するから」とハル。
「本人の前で言うな」
薄い粥の朝に、舞踏会で踊らなかった者たちの予定が、ようやく物語へ数えられ始めた。
残る五夜は、舞踏会から監査会へ変わった。
決まったのは、事件の全てではない。
すぐ変えられる部分だけだった。
一、役移転は、受ける者の可視確認と撤回可能表示を必須とする。
二、脅迫申告が出た場合、役務成立を維持したまま本人責任だけを停止できる。
三、同一役の仮面像へ、保持者交代の時刻表示を付ける。
四、宮廷公式幻も白縁を免除しない。
五、役名による通行権と、本人への身体接触権を分ける。
六、候補者の当夜署名を、次夜へ推定継続しない。
七、役籍のない居住者を共同保護から外す条項は、運用停止の上で別途審査する。
「七つ」とハル。
「七夜に合わせました」とサフィナ・ロウ。
役籍書記は眼鏡鎖の七札を全て表へ返していた。
「数に合わせて内容を増減してない?」
「八つ目は期限条項へ統合しました」
「したんだ」
「制度は覚えられなければ使われません」
「でも、覚えやすさで削られた人が出る」
「出ます」
「認めるの」
「だから、八つ目を脚注でなく本文末へ置きます」
『各条項は、当事者の異議一件で再審査できる』
数字を整えるために、異議を消さない。
完全な制度ではない。
完全な制度は、改訂の場所を持たない。
アディルは右肩を吊ったまま、監査会へ出た。
「花婿役を返した後も箱を守ったのは、役の義務ではなかった」と証言する。
ミレイは右足首を固定し、代理役が偽物と呼ばれないことを求めた。
「私は他人の代わりに踊る。だから私の身体がないことにはならない」
ラウドは一夜限りの署名を、予定通り失効させた。
「次の私へ、昨夜の私が勝手に約束しない」
セイは姿を出さなかった。
声も出さない。
代わりに、短い文を送った。
『役を受けたことを消さない。断りたかったことも消さない。二つを同じ欄へ書かない』
オルフェは古い『王家祝調』を演奏した。
今度は全ての幻へ、太すぎるほどの白縁が付いた。
「目立つ」とユノなら言っただろう。
だが、見分けられない美しさより、見分けられる不格好さを選んだ。
ヴァルドは監査会へ出なかった。
拘束中である。
それでも、彼が示した役籍外居住者の条項は議題に残った。
犯罪者の言葉だから消すのでもない。
問題を示したから犯罪を軽くするのでもない。
人と役を分けたように、告発と方法も分ける。
監査会は、候補者と役人だけで進めなかった。
最初の二時間、発言したのは舞踏会を動かした者たちだった。
床磨きの老女は、役像の金粉が靴底へ入り、重力面が変わるたび滑り方が違うと証言した。
「第一夜から?」とセレナ。
「三十年前から」
「報告は」
「毎年。『舞踏の美観上許容』って返事」
「記録番号」
「覚えてない。返事は燃料にした」
「燃やした?」とトーヴ。
「冬は寒い」
史官が紙の喪失へ青ざめ、老女が生活の維持へ肩をすくめる。
記録を守る者と、身体を守る者は、同じ紙を違う価値で見る。
「責めません」とトーヴが言った。「保管できなかった理由を、保管制度の記録へ入れます」
「紙をくれるなら、次から燃やさない」
「暖房も付ける」とカイル。
「そっちが先」
仮面職人は、保持者交代の時刻表示を顔の中央へ置く案へ反対した。
「目立ちすぎれば、交代した本人が狙われる」
「では表示しない?」とハル。
「違う。見る権限を分ける。一般観客には交代あり。警備と本人には時刻。捜査には保存層」
「職人が法を作る」とサフィナ。
「法が仮面を作るなら、仮面も法へ口を出す」
通訳役の女性は、役の声が本人の訛りを消すことを問題にした。
「平等のため、と説明されています。でも、訛りが消えると、通訳が必要な人まで流暢に見える。理解していないのに理解したと扱われる」
「役声へ理解確認を付ける?」とエリア。
「はい、いいえ、保留を本人の声で残す」
「美しくない」とオルフェ。
全員が彼を見る。
「だから、やる」と楽長は続けた。「音楽上は濁る。法的には澄む」
小さな拍手が起きた。
拍手は揃わない。
ユノが好きな拍手だった。
役籍を持たない回廊の代表者は、姿も声も出さなかった。
七つの生活印だけが、卓上へ置かれる。
「共同保護へ入るため、役籍を取得しては」と役籍局の官吏が言う。
ハルは口を開きかける。
エリアが先に問う。
「なぜ持たないのですか」
水運び縄の結びが一度引かれ、代読文が開く。
『持てない者もいる。持ちたくない者もいる。役籍を取れば安全になる代わり、居場所、家族、仕事、税、過去の移動が一つの記録へ結ばれる。守られるために全部を渡すのは、守られることではない』
「では、どう確認する」と官吏。
『危機の入口で数えて。平時の住所へ戻さないで』
「重複申告が起きる」
『起きる。だから重複を調べて。重複するかもしれないから最初から零にしないで』
制度を使う側は、例外があると不正を恐れる。
制度の外に置かれる側は、不正を恐れられた結果、自分の存在まで例外にされる。
その間を埋めるのは、正義の一文ではない。
面倒な確認、期限、異議、費用、そして何度も書き直せる余白だった。
監査会の結論は、七つの暫定条項だけでは終わらなかった。
『四十日以内に、使用者、職人、役籍外居住者、負傷者、代理役、警備、楽務の各席を含む改訂会を開く。席が空いた場合、その空席を同意として数えない』
「最後、ティアみたい」とハル。
「学院から届いた意見書です」とセレナ。
「いつ」
「今朝。彼女の救難班は、同じ発言時間を与えるだけでは参加条件の差が消えない、と付記しています」
ティアはここにいない。
だから彼女の意見が最終回答になることもない。
届いた一枚は、監査会の空席を埋めず、空席があると見えるようにした。
大広間が空になる少し前、ユノは鏡史庫の小閲覧室にいた。
アルマの弦を張り替えず、弓もケースへ入れたまま。
楽器を持たない彼は、王子というより、演奏後の少年に見えた。
向かいにはリゼ。
横にはトーヴ。
三人の間へ、婚約条約原本の署名部分だけを写した透明紙が置かれている。
「現在署名、空白」とリゼ。
「事実」とトーヴ。
「幼少時保護署名」
「事実」
「それを現在同意として扱っている」
「『扱っているらしい』まで。根拠条項の適用過程は未確認」
「脚注で逃げないで」
「逃げていません。断定の前へ柵を置いています」
「柵の向こうで兄さんが婚約させられてる」
「だから、柵を壊さず門を探す」
ユノは二人の言葉を聞いていた。
いつもなら、対立を三つの共通項へまとめる。
今はまとめない。
「僕の幼少時署名を、見せて」と言う。
トーヴはすぐ出さない。
「閲覧目的」
「僕が何に同意したと記録されているか知る」
「記憶回復の目的は」
「ない」
「過去のあなたを、現在の本人証明へ使いますか」
「使わない。比較する」
「見た後、公開を求める可能性」
「今は決めない」
トーヴは三つの質問を記録し、透明紙の下へ、古い鏡紙を置いた。
小さな手形。
子供の字。
『こわいところへいかないようにしてください』
署名と呼ぶには、願いに近かった。
願いと呼ぶには、法的効力が強すぎた。
ユノは長く見た。
「僕の字だ」
「覚えている?」とリゼ。
「書いた場面は、少し。母の声は、ない」
彼の記憶には、対価で欠けた音がある。
白い部屋。
大人の指。
怖いならここへ手を置いて、と言われたこと。
その後に誰が何を説明したかは、残っていない。
「当時の僕は、保護を求めた」とユノ。
「婚約を?」とリゼ。
「書いていない」
「今のあなたは」
ユノは答えない。
答えを持っていないからではない。
ここで答えれば、妹と史官と自分のための会話が、そのまま条約交渉の証言へ回収される可能性を知っている。
「今の僕へ聞く場所を、僕が選ぶ」
「逃げる?」とリゼ。
「移動する」
「言い換え」
「そう聞こえるね」
「どこへ」
「まだ言わない」
「私にも」
「君にも」
リゼの面紗の端が、正確な三角にならない。
「守るため?」
「その言葉を使わない」
「学習した顔」
「選ぶ時間を確保するため」
「私が追うかは」
「君が決める」
「役名で探すな、って書く?」
「どうして分かった」
「兄さんは自然な置き手紙も三案練習する」
ユノは、初めて少し笑った。
「一案目は長すぎた」
「二案目は」
「美しすぎた」
「三案目」
「まだ本人に近い」
「本人かどうかは、読む側が決める?」
「本人が書いたことだけは、署名する」
トーヴは会話を記録していない。
筆を置いている。
「史官が書かない?」とユノ。
「私的会話として始まりました。証拠化が必要なら、三人の同意を取り直す」
「後で必要になるかも」
「必要かもしれない、で全てを保存すれば、現在は未来の倉庫になります」
ユノは切れた弦を一本、椅子の背へ結んだ。
持って行かない一本。
捨てない一本。
「失敗を残す?」とリゼ。
「帰る目印ではない」
「じゃ何」
「ここで切れた、と分かるため」
彼は立ち上がる。
右手薬指を一度伸ばそうとし、伸び切らないまま、無理に直さない。